銀眼貫餮のソウルベット -Pupa cuius oblitus est mundus-

七色Ayeca。

第64話 雨降る赤い逃避

 ――ドウシテ?




 少年は走った。息が切れ、体力も尽き、堅い地面に何度打ちつけられようとも。身体中擦りむいて爪も剥がれ、いくつあざを作ってもまだ足りない。
 あの人と眺めた穏やかだった月の光も轟々とうねる雷雲に呑まれてもう見えない。




 ――ドウシテ? どうして……??!




 銀の瞳をどんなに強くつむっても、どんなに早く雨の中を走っても、あの光景が頭の中に赤く焼きついて消えてくれない。




「ドウ……シテ……? アカイ?、アカ……ア、カ…………?」


 ――分からない……。ドウシテ? ワカラ……ナイ……。ワカラ…………。




 ますます酷くなる雷鳴が両耳を塞ぐ。雨が冷たく頬に刺さる。むき出しの足が荒れた地面で擦り切れて、しきりに痛みを訴え続けている。
 それなのにどうして。どれだけ拒んでも、喉が枯れるほど叫んでも、今まで感じた事のないモノが胸の奥底からじっとりとにじみ出て来て、少年を逃がしてくれそうにない。




 ――コレガ、キョウフ? コワイ……。


「……ア、アア……、アアアア…………。Υαααααα!!!?」




 薄暗い中であの人が、いつも優しく笑ってくれるあのテララが、真っ赤に染まった冷たい表情で泣いていた。




『すぐ戻ってくるからね』




 そう、言っていたのに。また優しく手をつないでくれると思ったのに。
 村人たちに抑えられながら、聞いた事もない悲鳴を上げて暴れるその細い手は自分の返り血で赤く染まっていた。




『ずっとそばにいるからね』




 雨を避けて岩間で休みながら、そっと寄り添い腕を回してくれた少女はそう言っていた。




『村の連中を命に代えても守る。それが俺の仕事だからよう』




 暴れる少女を抑える村一の守部もりべの男は、すこし気恥ずかしそうにそう言っていた。




『チサキミコ様もテララちゃんも。この村の者から病を取り除いてやれたらいいんじゃが……』




 血が噴き上がる少女の喉に首輪を強引に付けようとする老医が、物悲しそうにそう言っていた。
 みんな悪い人じゃなかった。テララはいつも楽しそうにその人たちと話していた。なのに――。
 考える程に分からなくなる。胸の中で嫌なモノが大きくなってくる。走らなくちゃ。もっと。もっとずっと遠くまで。
 もう力の入らない両足に体重をかけ、無理矢理に地面を蹴った。




「……ウガッ!!!?」




 けれど、雨で緩んだ地面は崩れ、底知れない恐怖に呑み込まれる様に少年の身体は暗い谷底へと落ちていった。


 頭を打ったせいだろうか。赤くにじんだ視界の先、きつく握りしめた手の中に見覚えのある布切れがあった。
 いつも少女はそれで髪を結っていた。いつか少女はそれを似合うねと首に巻いてくれた。いくつもの声に迫られるままに暴れた果てに汚してしまったその萌黄色の思い出も、今はもう雨と泥にまみれてよく分からなくなってしまっていた。




「……テララ」




 力無く身体を起こしながら、一番呼び慣れた名前を口にする。今、自分の名前を呼んでほしい人の名前を口にする。
 けれど、それに応えてくれる声はない。すぐ差し伸べてくれる温かい手も、優しく微笑む円い深緑の瞳も、何一つそこにはなかった。




「テララ……。テ、ララ…………。Γααααααααα!!!!!!」
「……新たな原形生体反応感知。帰還行動規則プロトコル一時中断――」




 膝を崩し、やり場のない感情を曇天にぶつける。
 するとそこへ一つの影が少年の背後から薄っすらと近付いてきた。
 少年の荒れる胸中とは対照的に、聞き慣れない言葉が抑揚もなくただ平坦に、無機質に並べられてゆく。




「目標視認。個体称号…………、該当識別情報無し。余剰因子と断定。変則イレギュラー行動規則実行――」




 そして何かを言いかけた瞬間、その影は音もなく消え去った。




「――剪定せんてい開始」




 違う。消えたのではなかった。風がなびくよりも早くそれは身を翻し、少年の直上から襲いかかったのだ。




「――ギャッ!?」




 刹那。瞬くよりも先に本能のままに身をひねり、その不意打ちを間一髪のところでかわす。
 明確な害意。吹き荒ぶ雨より冷たく黒雲に閃く雷より鋭いその眼差し。
 それには少年も身に覚えがあった。視界に映る物全て、その存命を断じて許さず、根絶せんとする凶悪な意思。それは――。




「……目標、尚健在。第一次施行失敗。左腕損傷、依然軽微……」




 咄嗟に飛び退いてみたものの、あまりにも突然の出来事に少年の身体は勢いそのままに荒んだ地面に力無く転げこんだ。跳ねた泥でも入ったのか、口の中がすごく不味い。歯を食いしばり目の前のそれを見据えようと上体を起こす。が、その意に背くように右足から激痛が走った。いつ負ったのか、どうやらふくらはぎが大きく裂けているようだ。これでは身体を支える事もできそうにない。




「……誤差修正……完了。目標確認。第二次施行――」


 ――来る。


「――開始」




 まだ態勢を直せていない少年に構わず、影は正面切って再度襲いかかる。
 慌て起き上がろうにも濡れた地面で手足が滑る。力が入らない。視界が赤くぼやけろく見えない。敵はどこ――。




「――ギギッ!!?」




 思考が追い付くよりも先に少年の銀白の髪くずが宙に舞い、眼前の地面が激しく砕け散った。
 飛び散る土塊に目を潰された。どうする。視界を失い素早く身を引いた直後、渾身の力をもって反撃に出る。少年は無我夢中でそれに噛みついた。




「ウガガッ!? ――ッガハッ!!??」




 蹴られた!? 襲い来る影に一撃を見舞ってやったがそれまで。
 ただ喰らいつくしかない少年の腹部を猛烈な鈍痛が穿ち、疲弊した身体を布切れ同然に宙空へ吹き飛ばした。
 弱りきった小さな身体が岩壁に激しく打ち付けられる。その凄まじい衝撃が脊髄を伝っていかづちより早く鋭く全身に広がる。肺の空気が無理矢理に押し出され、身体中が硬直したようにしびれて動けない。息が、できない。
 狙った獲物が怯んだ好機。それを哀れと見逃す生温い狩人が果たしているだろうか。凶悪の影は僅かの遅延もなく次の態勢に移った。




「誤差上方修正、完了。目標確認。第三次施行――」


 ――テ、ラ、ラ……。




 岩壁に打ち付けられた衝撃で意識が薄れる。真っ暗で何も見えないはずなのに、ぼんやりと少女の姿が浮かぶ。もう――。




「――警告。損傷部位、未登録外来性発熱原、検知。擬体内温度上昇。緊急行動規則実行……」




 しかし、どういうわけか。その影の追撃はそれ以上続くことはなかった。
 雨が小振りとなり雲の切れ間から月明かりが淡く射すと、その影は音もなく夜闇に消えてしまったようだ。
 助かった。薄れゆく意識の中、鼻の先に落ちた髪留めに指を伸ばし少年はそのまま意識を失った。

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