銀眼貫餮のソウルベット -Pupa cuius oblitus est mundus-

七色Ayeca。

第60話 変わらないもの

 ゲミニーの大岩に到着するや、皆倒れ込むように各々岩間にへたり込み我が身の無事を噛みしめた。しばらく村人たちを苦しめていた陰鬱な気配も、やがて降りだした小雨と共に流れ落ちてゆくようだ。寒さでひび割れた肌を潤す雫に血涙と感涙で傷口を濡らした。




「やっと……、やっと私たちここまで来れたんだね……」
「ああ……。ほんと長かったあ……。もう辿り着けないのかと思ったよ……」
「ほんとだね……。フフッ……。でも、お姉ちゃん、最近ずっと寝てばかりじゃなかった?」
「こらこらっ! ただ寝てるだけってのも大変なんだからね! 何その顔……、分かってないなあ? いつでも寝られるって、もうこれ1つの特技だから! すごいんだから!」
「その特技、明日から私にもできちゃいそう。フフフッ」
「……ヘヘッ。確かにできちゃいそうだね。……アハハハッ」




 うら若い姉妹が銀白の少年を挟み、他愛ない会話でいつ振りかの笑顔を弾ませている。怪我一つなく無事にとはいかなかったものの、影籠りに向けて旅立ってからを思い返せば、家族揃って目的地に到着できたのだ。そのことが何よりも嬉しいと顔に書いてあるような、そんな笑顔だ。
 これからはずっと一緒の長い生活が待っている。そう思えば気の所為か、これまで胸を重く締め付けていたものも不思議といくらか晴れて楽にさえ思えてくる。






 少女たちがこれからのことに胸を弾ませお互いの無事を確かめ合っているところへ、何やら険しい表情のクス爺が息切れぎれに駆け込んできた。




「チッ……、チサキミコ様っ……!!」
「うおっ!? ど、どうしたっての!? そんなに怖い顔して……」




 その一声に一瞬場の空気が張り詰める。




「……和んどるところすまないんじゃが、ちいと来てくれませんか? 1人だけ、容態が悪い者がおっての……」
「ああ……、いいよ。今日は1人だけね? 今、行くよ」
「お、お姉ちゃん……」
「なに、すぐ終わるってば。いつものことでしょ? そう、あんたまで怖い顔しないの。あたしの心配はいいから、ソーマの世話してやんな?」




 そう言って羽織っていた掛け布を乱暴にテララに被せる。気負いの一つもない、普段と変わらなく少しばかり無邪気なあの笑顔でだ。そうして姉はクス爺に連れられその場を離れて行った。




「えっ!? あっ!? ちょっとやめっ! お姉ちゃんっ!? もーーう……」




 こうしてからかわれるのは悔しい気もするが、今は何だか懐かしい。けれど、やっぱり少し悔しい。テララは過ぎ去る姉の後ろ姿に大げさに膨れて見せ、一つの溜息をもって仕方なく大人しく待つことにしたようだ。


 姉が席を外しソーマと二人残されると、やはりまだ少し気後れしてしまう自分がいるのか。テララは少々気まずそうに膝を抱えていた。
 でも――。




「…………ソーマ? えっと……身体の調子はどう? どこも痛いところない? って……、もう平気なんだっけ……?」




 普段通りでいい。そう意識するほど何故か思うように言葉が出てこない。こうじゃないと頭を振り呼吸を整え、うつむいたままの少年にテララは話を続ける。




「んと……、喉乾いてない? お水、貰ってこようか……? あ、それともご飯の方がいいかな? お肉、まだ余ってたと思うから……。ああ……、でも硬くて食べられないか……。んーー……、うーーん………………」




 なさけない。姉に頑張ると意気込んでおきながら、いざとなると何故か一人空回りしてしまうようだ。
 取り立ててソーマを恐れているわけではない。ただ、どう言葉をかければ、未だ抜け殻になってしまったままの少年を楽にしてあげられるのか。そう考えるほどに答えが見つからず、思いあぐねてしまう。
 見上げれば空は一層荒れはじめ、今にも雷が轟きだしそうな気配だ。そんなことを思いながら岩間から覗く暗雲を眺めていたそのとき、突然一本の光の筋と共に雷鳴が閃いた。




「……キャッ!?」
「……ギギッ!?」




 その突然の雷轟に二人揃って肩をひくつかせる。そう、二人ともだ。




「……もしかして、ソーマも雷、苦手……?」
「…………」
「わ、私も苦手なんだあ……。雷……。お姉ちゃんにからかわれるし、何よりこの……、キャッ!?」




 か細い篝火のみの薄暗い岩間を時折閃く雷光がまばゆく照らしだす。
 気の毒なことに、岩間だけあって反響した雷鳴がいつにも増して醜悪しゅうあく幼気いたいけな少女を震え上がらせている。
 いつ鳴り響くか分からない雷鳴に怯えながらソーマを横目で窺うと、やはりだ。
 どうやらこの未体験の現象に少年も困惑しているようだった。




「んと……、もし雷が怖いならね? ……キャッ!? ……こ、こうしたら少しは怖くなくなるよ……?」
「…………?」




 そう言いながら不気味に呻る雷雲に面食らった表情のソーマの正面にしゃがみ込むと、テララは少年の垂れ下がった白く汚れた・・・両の手を優しくすくい上げた。そしてその手をソーマの両耳にてがい、更にその上から包み込むように自分の手で押さえてやった。




「……どう? こうすれば、少しだけど怖くなくなるでしょ?」
「………………テ、…………ララ……?」
「うん。ちゃんと、ここに居るよ?」




 あれから一度も、誰とも交わることのなかった瞳が、ようやく少女の像をその銀の中に写した。
 身体は震えてはいないようだが、その瞳はどこか寂しそうな、悲しそうな、何かに怯えている。そんなふうに思える表情をしていた。




「えっと……。私ね、あの後いろいろ考えたんだ……。んと……、ちょっとだけ恥ずかしいから、このまま聞いてくれる……?」




 自分にすがるように見詰めている銀の瞳を、こうして目の当りにしてやっと解った気がする。やっぱりソーマは何も変わってなんかいない。
 そう感じた途端、胸につかえていた不安も少しは失せ、テララは静かに話しはじめた。




「その……、ごめんね……? ソーマだけに、あんなつらいことさせて……。つらい思いさせて…………。きっと、怖かったよね……? 私たちが、みんなが居なくなっちゃうかもって…………」




 自分なりに少年の気持ちを汲み取ろうと記憶を思い起こしてみる。
 けれどその堅く押し込めた記憶を紐解くほどに、あの真っ赤に燃える惨劇が大きな口を開けて、鋭い牙で襲いかかってくる。
 そんな底知れない恐怖に駆られて手が震え、少年の瞳を真直ぐに見れず伏せがちになってしまう。


 ――それでも言わなくちゃ。これだけでも今言ってあげなくちゃ。


 そう胸の内で繰り返し、テララは懸命に言葉を紡いでゆく。




「……それでソーマ、1人でこんなに傷だらけになるまで頑張ってくれて…………。終わっても、ずっと怖いよね……? いつまたあんなことが起こるのかって……。自分があんなふうになっちゃうのかって……。私だったら耐えられないよ…………」




 そう口にした途端、不意に自分でも怖くなってしまった。


 ――また誰かを手に掛けてしまうかもしれない。
 ――もしかしたら今顔を見上げると、もういつものソーマじゃなくなってるかもしれない。
 ――そしたら今度はお姉ちゃんが、村の皆が、大切な人たちが居なくなってしまう。


 そんなろくでもない恐れや不安に胸の中が黒く塗りつぶされそうになる。


 ――ううん。違う。


 いくら勝手に不安の種をまいても、今両手から感じるこの温もりは、いつか手を繋いで歩いたときに感じていたものと同じだ。笑って一緒に歌っていたものと少しも変わらない。無邪気で、純粋で、優しい温もりだ。
 その手の中の温もりを確かめながら、自身の弱さを断ち切るようにテララはゆっくりと顔を上げ、そしてその銀白の少年に思いを伝えてゆく。




「……でもね、ソーマ。私思うんだ……。もし、誰かを傷つけなくちゃいけなくなって、それで自分が傷だらけになっちゃって……。それでも諦めないで最後までやりきれたなら……。何かを、誰かを大切に思う気持ちを最後までなくさないで頑張れたなら。それってすごく素敵なことだって、思うよ?」




 懸命に思いを形にしてゆく少女の眼差しを銀の瞳は瞬きもせず食い入るように見詰めている。
 少女の小さな手から少しずつ伝わる温かさが白く冷えた指先に染みわたるほどに、その表情から陰湿な気配も徐々に拭われていくようだ。




「それって、誰にでもできることじゃないんだよ? お姉ちゃんみたいに何処でも寝ちゃえるのとは全然違うの。すごいことなの。ソーマはすごいんだよ。……だからね? 怖がらなくていいの。ソーマも怖くなんかいんだよ? もう誰も、何も怖くないの」




 ――やっと言えた。ちゃんと言えた。ソーマに伝わったかな。


 紅い血溜まりの中で抱きしめたときから感じていたこと。私たちが経験したことはとても恐ろしいことだ。だけど、自分たちが望んでしたことじゃない。解りようのない起きてしまったことの訳に悩んで塞ぎ込むんじゃなくて、何よりそれを乗り越えられたことを大切な人と喜びたい。


 そんな彼女らしい健気で真直ぐな思いが小さな胸の内で形となり、くすんでいたその表情もようやくよく見知った優しい笑みを取り戻していた。




「キャアアアッ……!?」




 何の気負いもなく交えることができる目線に安堵した矢先、悪戯に一際大きな雷鳴が轟く。場違いにもほどがある。
 自信と優しさに満ちた少女の笑顔も、さすがにこれには耐えられず、か弱い悲鳴を上げて固まってしまう。
 本当はすぐにでも自分の耳を塞ぎたいだろうに、テララは肩をすくめつつも頑なにソーマの手を包んだまま放さなかった。




「……テ、ララ……?」




 そんな少女に見兼ねたのか、不意にその内からゆっくりと白い手が抜き去られた。
 生憎、怯えたままの少女はまだそれに気づかないようだ。よほど雷が怖いらしい。
 そしてそんな少女の、人の温もりを帯びたその手は、何の迷いもなく目の前で怯える少女の両耳をそっと塞いだ。




「…………フフッ、ほらね? だって、こんなに優しいんだもん。ありがとう。ソーマ」
「……ア、アリ、ガ、ト……。テ、ララ、ニシシッ……」

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