銀眼貫餮のソウルベット -Pupa cuius oblitus est mundus-

七色Ayeca。

第37話 チサキミコ 初めての人助け《最終演舞》

「ふう、よしっ! さあーーてっと! そんじゃ、最後の袋詰め、片しますかっ!」




 そして開幕する。全村民の生死を分けるチサキミコの人助け。最終演舞。
 村人の脆い命を繋ぎ留めるという本来の役目とは裏腹に、図らずも自らの手でその最期を早めるやもしれぬ危うさをはらんだ彼女の人生初の試み。
 自身の何気ない行いに、そんな重大な運命が計りにかけられていることなど気付くはずのない彼女は、清々しい笑みで軽快に意気込むみつつ最後の標的へと歩みを進めた。




「最後は何かなあーーっと。……うがっ!? にっ!!!?」




 しかしどういう訳か、次の食糧がその青緑の瞳に像を結んだところでその浮かれた足取りが泥沼にでも捕らわれたかのようにぴたりとその歩みを止めてしまった。


 それまでの晴れやかな表情とは打って変わって、細いその瞳は大きく見開き、更には少し血走ってしまっている。歯が剥き出すように大口を開き、口角からは鈍く光る粘度の高い涎が糸を引いて滴り落ちている。
 それはもう、まるで敵を威嚇するかの如く狂気じみた形相で、その視線は眼前の物に注がれ微動だにしない。
 一体何が彼女をこうもおぞましい姿にさせてしまったのか。




「にっ…………、にっ…………、にっ…………、にぐうううううう!!!!」




 うむ。どうやら突然の出来事に興奮と混乱が入り乱れ、全く舌が回っていない様子だ。
 少し思い起こしてみよう。


 事のはじまりとして、まず彼女は自室にて容赦なく照りつける太陽に生気をあぶられ、力なく寝床に沈み空腹にさいなまれていた。そして我慢ならず、人知れず空きっ腹を満たすべく残飯を求めて意を決して外へ出るも、運悪く村人と遭遇してしまう。機会を改めようとその場からの撤退を試みるも、止むを得ずその仕事を手伝うこととなり、今に至っている。


 ここで、改めて今の彼女の境遇をみてみよう。
 まず、乾いた天空には煌々と太陽が燃え盛り、いつの間にか昼時が迫ろうとしている。
 彼女の腹でうなる空腹感は、おそらく理性で誤魔化すのもうに限界を超えていることだろう。
 そして次に、彼女が目の当りにした光景はというと、例の如く食糧が干されているのだが、その干された物が今回ばかりは巡り合わせが悪かったとしか言いようがない。
 何せそこには、ホルデムに負けず劣らずの大量の肉塊が、どうぞご自由に御食べ下さいと言わんばかりに無防備に敷き詰められていたのだ。


 その程良く水分が飛び硬化した黒緋くろあけ色の光景が与える欲望の衝動は、常人であっても思わず頬がほころび生唾の塊を呑み込むほどに暴力的だ。
 彼女の場合はどうだ。
 無理矢理、理性で空腹を抑え苦手な仕事に励んでいたのだ。繕われた理性など、枯草をむしるより容易く打ち破られ、たちまちにして獲物を貪る強欲に翻弄されるまま自我を失い狂っても不思議ではない。




「あ……、あああ……。に、に……、に、ぐ……。にっ……、うぐ……、ぎぐうう……!」




 言うまでもなく、今やそれまでの仕事に真摯に臨む尊いチサキミコの姿は見事に消え失せてしまったようだ。
 血走った青緑の瞳で眼前の干し肉を凝視し、たどたどしい足取りで大粒の涎を垂らしながらゆっくりとそれに近づいてゆく。その姿は最早、ただの餓えた獣の姿そのものだ。
 そして、本能が趣くままに一つの肉塊の前に膝を砕かれたかのように座り込むと、興奮のあまり強張り震える両手でその獲物を掴み上げた。




「に、にぎに、にぎぎ、にぐ……。に、ぐっ! ぎっ、にに、にぐうう…………!!!?」
(…………はっ!? ちょっ!! 何やってっ!!!? だっ、だめええええっ!!!?)




 掴み上げた肉の半分がその口内に丸っと納まろうとしたその時、欲に呑まれた彼女の瞳に普段の輝きがわずかに戻り、その溢れ出る欲望を辛うじて制してみせた。間一髪だ。いや、もう既に肉の半分は口の中なのだが。




(鍋……、手伝いで、格好悪いとこ……見せ、ちゃって……。何とか、あたしの……チサキミコの立場、立て直そうって……。踏ん張ってき……きたでしょ……! い、今、ここでこれ……、これ食べちゃったら……。それこそ、立場……も、何もかも、台無しにっ……!?)
「…………うっ、ぐ、ぐぐ、ぎぐぐぐぐ…………!?」




 これまで怠惰な自身を制し、その身を徹して臨んできた村人たちへの人助け。その真意を今一度思い起こし、取り返しのつかぬ過ちを犯さぬよう、自身をなんとか思い留まらせるべく自問する。
 しかし、気の赴くまま自身の成すことの良し悪しなど計ることなく過ごしてきた彼女には、この強烈で凶暴な衝動を抑え得るに足る善意を、残念ながら持ち合わせてはいなかった。過ちを制しようとする善なる彼女自身の言葉にはわずかに気の迷いが伺え、どれだけ正しい言葉を繕っても、その合間から透かさず悪意の誘惑が影を伸ばす。




(……いっ、いやいや、ででも……。誰も、見てないし……? こっ、こんなにたくさんあるんだし……? ひ、1つだけ……)
(……だっ! 誰も見てない、からって……、食べ残しの分じゃないんだから、勝手に食べちゃまずいって……!)
(ほんの、ちょびっとだけ……。この、端っこのとこ。かじるだけなら、へ、平気でしょ……? ああ、良い匂い……)
(いやいやいやっ! ちょびっととか、端っことか、少なけりゃいいってもんじゃなくてーー……!!)
(き、今日、初めて人の手伝い頑張ったんだしさ……。こ、これくらいゆ、許してもらえるって……。許して…………。だから、これだけでも……)
(あっ!? ちょっ!! だ、か、ら……!! だめだって、言って……あーー、もうっ!!!! 大事な皆のめ、し、な、ん、だ、か、ら……!! だ、だめええええ!!!!)
「……ぐに、に……、ぎににに……。に、ぐ……。に、にっ……、ぎぎ……。にぐ、ぐぐぐうううううう……!!!!」




 少しでも自身を改心させる言葉が途切れれば、鼻腔をくすぐる芳しい匂いに誘われて、たちまちにその瞳は悪の魅惑に染まってしまう。再び肉塊を握る手に力を込め口内へとそれを運んでは、あと少しといったところで砂粒ほどの善意がそれを思い留まらせている。
 獣のような唸り声を上げては、我に返り口に入れたそれを慌てて取り出す。当人は村の長として必死に葛藤しているのだろうが、それを一人何度も何度も繰り返す様は傍から見て実に滑稽で少々面白い。そして何より、お下品だ。
 もうしばらくその様子を窺ってみたい気もするが、ここまで健気に人のために汗を流す彼女を知れたのだから、どうか耐え凌いでほしいところだ。




(ああああっ!? やっ、やっぱだめっ! 流石に影籠りの食糧だから。皆で大事に食べなきゃだめだって……!)
(いや、でも、お腹減ったあーー……。あーー! だめっ! 食べちゃうう!)
(いやっ! だめっ! いやっ! これはっ、ちょっと……! んーー、いや、でもーー……だっ、……あいやっ……!?)
「ぐぐぐぐ……。ぎ、ぎぎぎ……。ぐぐ……、ぐああああーーーー!!?」




 そして、獣の如く自問自答を一息繰り返した後、ついにその決着がついたようだ。
 色白くひび割れた額からは尋常でない汗を吹き出し、葛藤の末、迷える彼女は決死の覚悟で掴み上げたそれを口元から引き離し、地面へと押し返した。見事、塵程度しかない善意が大量の干し肉に齧り付くという超大な悪の誘惑に打ち勝ったのだ。




「チッ、チサキミコ様っ!? どっ、どうされたのですかっ!!?」




 死期を縮めるほどに容赦ない猛暑であっても、争い一つないただただ平穏な昼間に、突如として狂気じみた雄叫びが村中に響き渡る。
 人の悲鳴でもなく、獣の遠吠えとも似付かない。予想だにしない方向から見当もつかぬ奇妙な鳴き声が煩わしく鼓膜を小突くものだから、間近に居た村の女たちが一体何事かと慌てて駆けてゆく。




「……あうう…………。にぐ……。あ、あたし、の……、うぐぐ…………」
「チサキミコ様っ!!!? 何かあったのですかっ!? お気を確かにっ!!」




 水滴の一滴も搾れぬくらい心身共に干乾びた状態で、渾身の力で我欲に初めて抵抗してみせた一人の少女。
 その小柄でか細い身体には、自身の身体でさえ支える程度の力すら残っておらず、折れたホルデムの穂のようにぐったりと地に伏してしまっている。
 駆けつけたリレーニと呼ばれるその女性は、我が子を一旦袋詰めをする老婆に預け、涎だ汗だ涙だで顔面泥まみれになって項垂れるチサキミコを抱き起こし、その容態を気遣った。




「まあっ!? こんなお姿になられてっ! お身体の調子が悪いのに、無理されて手伝って下さってたのですね……。お辛いなら、遠慮なく言って下さればよかったですのに……。気が付かず、本当に申し訳ありません……」
「……うう、あ、あた……。あた、しの…………。に、にに……」
「ああっ! もう、荷造りのことはお忘れになって下さい。今、小陰までお連れしますから、どうかお気を確かにっ!!」
「……ああ、に、にに…………。うぐ……、に、ぐううう…………」




 連れてゆくと言っても、うな垂れたままの彼女を女手一人で担ぐことは難しいものだ。
 考えあぐねた末に慌てふためくリレーニはその上体を抱き上げ、脚を引きずる恰好で意識朦朧もうろう、意気消沈のチサキミコを彼女の家の床下まで運んでいった。
 その引きずられる退き際は何とも物悲しく、未練残る空腹の呻きが半開きの口から虚しく響いていた。
 こうして、村人の生死を賭けたチサキミコの人生初の人助けは、自身の欲求に打ち勝つという、人の子として素晴らしい成果と成長と共に幕を閉じたのだった。

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