銀眼貫餮のソウルベット -Pupa cuius oblitus est mundus-

七色Ayeca。

第34話 風 赴くままに

 一方ティーチ村では、着々と影籠りに向けた荷造りが進められていた。
 いつにも増して強烈な日差しの中、村人たちは老若男女問わず、汗水垂らし旅路の準備に直向きに取り組んでいる。


 しかしながら、チサキミコことテララの姉はというと。




「…………あーーづーーいーー。お腹減ったあーーーー……。じーーぬーー……」




 何をする訳でもなく、ただ自室の寝床でだらしなくうな垂れていた。




「うーー……。テーーラーーラーー、飯いーー……。ああ……、今……水掘りだっけ……。ぐぬう……」




 脚が砕かれ傾いだままの寝床に仰向けとなり、肌蹴はだけた腹を隠そうともしない。土埃でごわつき跳ねた青鈍色の長い髪をその上に広げ、大口を開いて嘆いている。見事なまでのずぼらっぷりだ。




「もう……、何で今日、こんなに暑いの……。誰も頼んでないってのに……、くっそう……。人の苦労も知らん顔して……、眩しいでしょうが……」




 穴の開いた天井から疎ましく射し込む太陽を細い青緑の瞳で睨み返すも、その容赦ない日差しに身も心もし折られ深い溜息と共に寝床に沈む。


 チサキミコ。この村におけるその逃れようのない重役故、日に日に傷みゆくその白くくすんだ身体はひび割れ、酷くか細い。
 十五という年齢に似合わず潤いは感じられず、草臥くたびれた様がその器の換え時までそう長くないのではと懐疑の念を抱かせる。
 そのようなこと、代々チサキノギで愛おしい人を救われ、これまでの日々を育んできた村の皆が誰かに教わる訳でもなく理解している。
 それ故に、村で何もしていない彼女を見かけても皆暖かく労わってくれるのだ。




「ぐぬーー……。お腹空いたあーー! みず……。水、のーーみーーたーーいーー! あづいーー……。テーーラーーラーー……、まーーだーー……?」




 だが、しかしだ。そうは言ったものの、うむ、これはあれだ。
 今は村人全員の存命を賭けた大事なときだ。
 皆が村のために無数の擦り傷をその手足に拵えながら必死に働く中、チサキミコという重役を担っているからとは言え、一人家の中で腹が減ったと寝床に転がり駄駄を捏ねる様には、何故だか空きっ腹でも腹が立ってくるというものだ。
 母大樹に堕落した人の子を正しく導く権能があるのなら、その有り難い恩恵を村一番に授かるのはおそらく彼女だろう。
 この場に妹のテララが居ようものなら、母大樹様の御手を煩わせることなく、姉を畏怖させる堅固な深緑の眼差しをもって一喝し、たちどころに更生させるに違いない。




「……お腹、減ったなあ……」




 だらしなく寝床からずり落ちた頭をもたげると、壁に開けられた穴から村の皆がたくましく影籠りの準備をしている様子が横目に映った。




「…………」




 注ぐ視線の先から村人たちが仕事に励む声や物音が微かに聞え、無為な嘆きが自然と止む。
 常人であれば、この辺りで己の愚劣さを改め、村の皆を手伝うべく急ぎ外へ向かう場面だが、彼女の場合はどうだろうか。




「…………かーーっ! もうっ!」




 すると、何か心持ちに変化があったのか、彼女は重たい身体を左右に揺するように引き起こし、跳ねた髪を掻きながら寝床から不意に立ち上がった。
 やはり彼女も村の一員。そしてチサキミコという村人たちの生をこの世に繋ぎ留める要。その大任が己にはあり、それ故の立場を嫌でも意識させられたのだろう。
 きっとそのか細い足で外へ出向き、慈愛に満ちた言葉を以って皆の疲弊した身と心を慰撫いぶするのだろう。そして、自ら指揮を取り、先行き不安な陰を照らす光明となって村の皆を導くに違いない。




「……もおおおお、だめっ! お腹減って死んじゃうわ……。下りて昨日の余りでも摘まんでこよ……」




 なんと。なんとも度し難い。
 彼女はどうやら常人のそれを産声を上げた頃から微塵も持ち合わせていないらしい。
 これはいよいよ、安らかに眠る彼女の母親も看過できず、仕置きのために血相を変えて顕現するというものだ。


 しかし、動機はどうあれ、一先ず日がな一日寝床で寝て過ごすことにはならないようだ。
 そうして彼女は、空腹でふらつく細い足で床下へと下りて行ったのであった。










 がたつき今にも崩れそうな足場を進み床下へ出るや、猛暑に当てられ不快な熱を帯びた空風が喉から這い上がってきた。強烈な日差しがたるんだ瞳孔を強引に押し縮めさせる。




「……ふぐっ。……あづい……。やっぱ、戻ろうかなあ……」




 外界のあまりもの暑さに思わずたじろぎ、わずかなやる気が容易く蒸発しかかる。




「あら、チサキミコ様。こんな早くからどうされたんですか?」
(げっ、誰か居たっ……!?)




 熱さに怯んだ際に踏み込んだ床の軋みで気づかれたのだろう。
 猛暑にえる視界の外、霞む意識の外から、とある声が彼女を呼び止めた。
 突然の出来事に思わず素の声が漏れそうになるも、歯を食いしばり何とか堪える。
 声のした方へわずかな体力を絞って力なく振り向くと、そこには調理場の片付けをする村の女たちが居た。




「……あっ、い、いえ。その、特にこれと言った用があるわけでは……」




 村人との不意の遭遇に、咄嗟にチサキミコとしての表面を繕う。


 妹のテララや役割上話す機会の多いデオ団長以外、基本的に村人たちに特別親しく話すことはこれまでになく、あくまで村を統べる長として厳とした態度で接してきた。
 下手に親しくなりチサキノギに私情を持ち込み、余計な争いを避けるためだ。
 とまあ、それは建前で、彼女自身、人付き合いが下手というか煩わしさを感じることの方が主だった理由と言ったところか。




「あ、貴女たちの方は、その、準備は順調ですか?」
「はい。私共2人だけですけどなんとか。私はこの子を看ながらで片手間になっちゃいますけど、昼過ぎには終えられるようにはと」




 当初の目的を悟られないように、空きっ腹から意識を逸らさぬように注意しつつ、それとなく話を振る。
 昼頃にはと赤子を片腕に抱えたその母親は、少しの懸念も感じさせない献身的な笑みでそう応える。
 だが、その後ろには村人全員分の食器やら食糧、それらを調理する器具などが乱雑に積み上げられ散乱している。


 日頃、家事はおろか、身辺整理さえ妹任せで全く何もしない彼女でも解る。
 それは明らかに二人でこなせるほどの仕事量ではないと。




「そう……ですか。2人で大変だと思いますが、頼みますね?」
(うわあ……。こんな量を2人でって……。しかも子守りしながらって……。んな暑いのに、うそでしょ……。下手に首挟まないどこっと……)




 凛とした佇まいとは裏腹に、内心その仕事量に怯み、人知れずその場からの早急な撤退を即断する薄情なチサキミコ。




「そ、それでは、私はこれで……」
「あ、はい。お引き止めして申し訳ありません。母大樹様のお恵みがあらんことを」
「母大樹様のお恵みがあら――」




 しかし、軽く頭を垂れ手短に挨拶を済ませようとしたそのとき、狙ったかのように積まれた調理器具の山が崩れ落ち、辺りに乾いた騒音が鳴り響いた。




「……んん……、うぎゃーーっ! うぎゃーーっ!」
「ああ、よしよしよし。泣かないでね?」




 腹も空き、暑さで滅入った頭に煩わしく響くその音に快眠を妨げられ、その母親の腕に抱かれた赤子が大口を開き喚きだす。




(うぐっ!?)




 突然の泣き声は疲弊した身体にこたえ、思わず肩がすくんでしまう。
 そして同時に、その場から退きづらい何とも言えない気まずさがチサキミコの決断を鈍らせる。




(あーー、もう。泣いちゃったよ……。これ何? このまま知らんふりして、あたし行っていいの? 挨拶したし、良いよね? ……んーー、いや……。やっぱ良くないかなーー? 良くないよね……。んーー……。あーー……、んーー……、いやあーー……、うぐぐ…………)




 胸の内でものすごい勢いで悪意がその場からの撤退をそそのかすも、わずかに残る飯粒ほどの善意がそれを辛うじて改めさせる。
 その間、その場から逃げるように幾度と顔を背けるも、その食べかすほどの善意に促され、またその村人に向き直る奇妙な動作を一人繰り返し考え悶えている。




(うあーーーー! もうっ! お腹減ってるのにな、ちくしょうっ!)
「……そ、その。……す、少しでよければ、私に、手伝わせてくれませんか?」
(はあ……、言っちゃったよ……。もう……)


「えっ!? そんなっ!! よ、よろしいんですか!?」


(んーー、……いやね? ほんとは早いとこ部屋に戻りたいんだけどさ? だってその子、泣いちゃったし? 流石に、ねぇ……?)
「子守りをしながらでは、片付くものも片付かないでしょう。私もこの村の一員なのですから。村の皆のために、私にも手伝わせて下さい」
「チサキミコ様っ!? ああ、なんて……。ありがとうございます! ありがとうございます……!」




 思いも寄らぬ村長むらおさからの申し出に涙ぐむ純真な村人。
 それに取り繕い引きつった笑みを返すチサキミコ。何とも不器用な生き方か。気の所為だろうが、少々難儀に思えてくる。


 そうして、ぎこちない笑みを浮かべたまま溜息を溢すと、腹をくくったのか、彼女は村人に話しを続けた。

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