コミュ障の紫さん、自殺に失敗して吹っ切れる

忍々人参

第3話 ハプニング

鳥のさえずりと、バイクが走る音がした。
モヤモヤと意識が覚醒していく感覚に、まだ眠り足りない私は寝返りを打って抵抗する。
しかし暖かなシーツの感触はそこにはなく、硬質で冷たい感触が頬を触り私の目を完全に覚ました。
目を見開いた先には汚いスニーカーのつま先がある。
一瞬、自分がどういった状況にいるのかがまるで理解できなかったが、ここが玄関であると思い至ると同時に首元に紐上にしたタオルが絡まっているのが分かって、そこで昨日取った行動を思い出す。

「ど、どう……して……?」

どうやら私は、死んでいない……みたいだった。
確かに首を吊って気を失ったはずだったのに、後は縊死いしするのを待つだけのはずだったのに……。
体を起こし玄関にそのまま座り込むと、輪っかを作って首に掛かっているはずのタオルがハラリと膝元へと落ちた。

「こ、これ……」

タオルが裂けていた。
固結びをしたところが緩んでほどけたわけではなく、ビリビリっと裂けている。
新しいものを買うことなく毎週のように同じものを使っていたために擦り切れて薄くなったタオルは、私の体重を支え切れなかったんだろう。
……そういえば私、今何キロあるんだろう? タオルが裂けるほどなのかな……?
体重計のないこの部屋で暮らしている限りはその疑問を解消できる日がくることはないけど、少しだけ気にかかる。

「……ふふっ」

そんなことを考えていると、ふいに顔が綻んだ。
つい数時間前に自殺に踏み切った人間が、次に気にかけるのが自分の体重だなんていうのが少し可笑しかった。
やっぱり1回眠ってしまうと楽観的というか、昨日自殺した時のようなモチベーションがなくなってしまうみたいだ。
どうにも今からもう一度再挑戦、という気が起きなかった。
チチチ、と鳥のさえずりが聞こえる外は、窓から差し込む陽の光を見るに朝を迎えたのだろう。
どにかく、いつまでもここに座り込んではいられない。
玄関の床に膝をついて、とにかくまずは立ち上がっ――

「ぇぇぇええっ!?」

後ろから突然、朝のひとときには不釣り合いなほどの大音量の叫び声が聞こえて、立ち上がろうと前傾姿勢になっていた私はそのまま前にずっこける。

「なっ、なっ、なんっ、なっ……?!」

首を左右に振って私の周りの無事をまず確かめる、誰もいない。
いったい、いったいなにが?!
突然のことに何が何だかわからない。
声のした方向へと反射的に振り返るとそこには閉まったドアがある。

「ぅぁあっ!?」

ビックリした。
いやいや。
それはそうだ、ここは玄関だから。
そこにあって当然のものだから、大丈夫。
普段と何も変わりないなら、何も問題はなかった。
何も問題はなかった。

大丈夫、大丈夫だ。
私はゆっくり息を吸って、吐いて。
胸の鼓動を落ち着けて――

「あわわわわわわっ!!」

再度、ドアの向こう側から慌てたような声が聞こえてきた。
それに合わせてまた、私は肩を盛大に跳ねさせる。
しかし、不幸中の幸いなことに、2度目の不意打ちということもあって今度は落ち着くのが早かった。
どうやら最初の声も次の声も私の部屋の前で聞こえたようだ。
いったい、外で何が……。
なるべく自分の気配が漏れ出ないように、そーっと覗き穴から外の様子を窺う。

そこにはこれから登校すると思わしき、学校の制服を着た女の子の姿があった。
髪を頭の両脇で結っていて、こうやって一目見ただけで活発な子なんだろうなと思える元気いっぱいといったような顔をしている可愛らしい子だった。
自分の住んでいるのはワンルームのマンションだから、こんなに若い子が住んでいるなんて知らなかった。
まぁ、そもそも陽が昇っている間は外に出ない私が他の住人を知っているはずもないんだけど……。
それはともかく、そんな女の子が私の部屋の目の前で慌てふためいていて右往左往していた。
先ほど突然叫んだのもこの子なのだろう。
女の子は私の部屋の前でウロウロしつつも、視線はこの部屋のドアの下の方へと釘付けになっているようだった。
私も女の子と同じように、自分の部屋の内側から目線を下に落とし――
ドアの隙間から見える紙を見て、チラシの裏に書いていた文章を思い出した。
急速に顔から血の気が下がっていくのが分かる。

「おわわわっ! じさっ、自殺ぅっ!? はやはやはやはやく通報、通報!! 1、1……、えーっと1……じゃないっ!! ふぇぇっ……、1、1……」

混乱から立ち直ったのか女の子はスマホを取り出して、ワタワタとしながらも操作し始める。
マズいっ!! 当初の目論見通りに通報されかけてる!!
自殺はできてないのに!!
とにかく、とにかく。
考える間もなく私はドアチェーンと鍵を急いで開けると、一瞬の合間にドアを開き、チラシを部屋の中に引っ込める。

「へっ!?」

外の女の子の戸惑いの声が聞こえる。
私はあまりの速さに空気抵抗で重くなるドアを両手で力一杯に閉めて、再び鍵とチェーンを掛ける。
こんなにも素早く動いたのはどれくらいぶりか分からない。
肩で息をしながら、ドアにもたれかかるようにしてズルズルとその場で座り込む。
体育座りのような格好で、どうか通報されませんようにと何かに祈るために指を組んだ。
女の子の方は呆気にとられたのだろう、しばらくの間ドアを挟んだ両側には何とも言えない沈黙が落ちる。

「えっと、その……死んでない、ってことでいいんでしょーか……?」

女の子が投げかけてきた質問に、私はビクリと体を震わせて自分の太ももをキツく抱き寄せて小さくなる。

――お願いだから、私に話しかけないで……。
――答えたくても、弁明できるようなコミュ力がないの……。

「あの……私が行った後でまた……何か起こったりとかしませんよね……?」

返事のない私を訝しむような口調で再び質問が飛んでくる。
私にそつなく言葉を返すだけの器量はない、だから選択肢は女の子が答えを得るのを諦めてこの場から去るのをひたすら待つだけだった。
早く行ってくれないかな……。

「どうしようかな……」

女の子は一向に返事のないことに迷っているようだった。
そのままナムナムと、早く立ち去ってくれとお祈りを続けていた私だが、女の子の言い方に少し引っかかることがあった。
……あれ? 『どうしようかな』って?
『どうしようかな』って……もし、私がこのまま返事をしなかったら、その場合私はどうにかされるのだろうか?
にわかに不安を覚えた私は気配を悟られないようにそーっと立ち上がって、再び覗き穴から外の様子を窺った。
女の子は変わらず部屋の前にいたが、今は何やらスマホをいじっているようだ。
もしかして、何かを調べている……?
まさかホットラインやら相談室やら、そういったところへの電話番号とか……!?
聞いたことはないけど、自殺しそうな人を連絡するための窓口が、毎年何万人もが自らの命を断つこのご時世には設置されていることもあるかもしれない。
そしたらどうなる?
今度は知らない人たちが大勢で押しかけてくるかもしれない。
もし、『大丈夫ですか? 辛くないですか? 相談に乗りますよ?』なんて戸口でひたすら声をかけられるようなことになったら……!
外に出て立派な応対もできない私は、ただひたすら呪詛のような励ましや労りの言葉をドア越しに聞き続けなくてはならない。
針のむしろなんて表現はまだ生優しい、それはまさしく地獄の窯で茹でられるに等しい拷問だろう!
だから私は、新しく1つ選択肢を増やして、その2つを天秤にかけて決断するしかなかった。
このまま黙り続けて、結果として今度は全く知らない人間がここに訪ねてくることになる可能性を是とするか。
あるいは今ドアを挟んで目の前で調べごとをしている風の年下の女の子に、一言「問題ない」と告げて穏便に帰ってもらうか。
私は冷や汗を滝のように流しながら答えを出した。

「……だっ」
「――えっ?」

震える足に力を入れて立ち、へばりつくようにドアへと身体を預けながらも、私はこの場で返事をすると決めた。

「……だっ、だっ、だっだだだだ……」
「……だ?」

人へと話しかける緊張に汗ばむ両手の平をぴったりとドアにくっつけて、何とかして言葉を捻り出そうと全身に力を込める。
反射的にどもってしまう喉に『働け』と命じ、そしていくつか目の「だ」を重ねて、

「……っだ、だいじょうぶ、です」

ようやくその一言を返すことができた。
しかし覗き穴の外の女の子は明らかに不信そうな渋い表情で、どうしたものかと悩ましげだ。
うーん、と唸る声が聞こえる。
通報しないで欲しい一心で、私は額をドアにくっつけるようにしてハラハラと女の子の動向を窺う。
1秒が数分にも長く感じられる緊張の中、その場を動かしたのは私でもドアの前で腕組みをして悩んでいる女の子でもなかった。

「あかりーっ!! そんなとこで何やってんの!? 置いてっちゃうよー!!」
「えっ!? あぁ、ごめん……」

私の祈りが届いたのか、救いの声は外からマンションへと響いた。
どうやらこのドア前にいる『あかり』と呼ばれた女の子はマンションの外に学校のお友達を待たせていたらしい。
そのあかりちゃんは階下からと思われる声に返事をすると、1度だけこちらを気にしたものの、その声に急かされるまま階段を降りていった。
足音が聞こえなくなったところで、私はへなへなとその場に座り込んだ。

「よ、よ、よかったぁ……」

どうやら峠は乗り越えたようだ。
自殺未遂直後にこんな思わぬトラブルがあるなんて。
起き立てにも関わらず、すでにクタクタな心境だった。
はぁ~っと溜まった息を吐き出す。
手のひらを胸の中心に当てるとまだ、胸の内側で心臓がバクバク早鐘を打っているのがよく分かる。
しばらく収まりそうにない鼓動に、私は目を瞑って耳を傾けた。

「い、生きてる、なぁ~……」

本来なら決行したにもかかわらず失敗して、その上にまた大変なことがあって残念なはずなのに。
昨日迷うことなく私に首を吊らせた暗い気持ちはどこかへと行ってしまい、今の私の心は不思議なくらい穏やかで、こうして自分の鼓動を確かめてホッとしていた。

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