コミュ障の紫さん、自殺に失敗して吹っ切れる
第5話 『事件は起こらない』
男が去っていった公園の入り口を見つめて、私は安堵に胸をなでおろした。
公園の奥のベンチに腰かけて、私は菓子パンを齧りながら男が起きるのをずっと待っていたのだ。
財布が落ちていることに気が付いた男は案の定、財布の中身を確認していた。
しかし確認しただけで、その後は何事もなかったように、何も変わったことなどなかったように、歩き去った。
私はこれからの自分への試金石として、最初で最後の賭けをして、勝ったのだ。
私は履いてきたジーンズのポケットの中に手を入れて、窮屈さにしわくちゃになったそれを取り出した。
現金、1万1000円。
それは自分が盗みを働くという、決して人に褒められることではないどころか、むしろ非難されるべき行いをしてまで生きていけるかどうかを試すための賭けだった。
もしこの時点で盗みがバレてしまい男に詰め寄られ糾弾されようものなら、きっと私にはこの行いが向いていないし、必要な運もないと思う。
だからあえてこの場から立ち去らず、男の反応を待ったのだ。
結果は詰め寄られないどころか、何も訊かれない。
むしろ、そう。
男は自分のお金が盗まれたということ自体に気付いていなかった。
突然だが、私は自分の財布の中身にあといくら入っているかを正確に把握できていないことが多い。
そこで私が思ったのは、大体の人は『有る』か『無い』かでしか、確信を持って物事を覚えていると言うことができないんじゃないか、ということだ。
だから私は財布の中身の3万4000円を全ては盗らずに、1万円札と千円札を1枚ずつ抜き取るに留めた。
だって『有る』ものを『無い』にしてしまえば、きっと異常に気が付くと考えたから。
狙い通り、男は騒いだり疑問に思ったように辺りを見回すなどの行動を取らなかった。
もしかしたら「あれ? こんなに少なかったかな?」くらいの疑問は持ったかもしれないが、それはきっと疑問止まりだ。
間違っても警察に届け出などはせずに、「こんなものだったかな」と自分を納得させて仕事に戻るに違いない。
『完全犯罪の推理小説なんてどこにもない。何故なら事件は起こらないから』
以前に小説でそんな一文を見かけたことがあったが、今はまさにその通りだと全肯定できる。
起承転結の『起』がなければ、警察も探偵も呼ばれることはないのだ。
私が盗みという犯罪を後にも先にも誰にも気づかれずに行えば、私のその行為を始めとする事件は起こらない。
生活を平穏なままに、私は生き続けることができるのだ。
見咎められる事のない生き方を見つけることができた高揚感に、いつの間にか私の中で法に背くことへの罪悪感は消えていた。
人からお金を盗むという行為には勇気がいるけれど、でもそんなのは些細なことだった。
だって私は、自分自身さえ殺す覚悟を持てたんだから――
※
私は、玄関の前で正座をしてその時を待っていた。
正座である必要性は全くなかったのだが、そうでもしないと今にでも部屋の隅へと逃げだしそうな自分の足を押さえていられる自信がなかったのだ。
どれだけ待ったか分からないが、窓から直接陽射しが入らなくなったから時間的にはそろそろなはず。
――きっと来る。
私は改めて覚悟を決めるように玄関のドアを見つめる。
しばらくして、トツトツと階段を上がってくる音が聞こえた。
それが誰のものかなんて分からないはずだが、私は『来た』と体を強張らせた。
足音は案の定、私の部屋の前で止まる。
そしてどれくらいかの間を置いたあと、チャイムが鳴った。
私はスタートの合図が聞こえた陸上選手ばりに正座の状態から急激に立ち上がり、足を踏み出して――
「ァがぁっ!!」
――盛大にコケて、そして破壊的な音を立ててドアに額をぶつけた。
「ひぃぅぅぅっ!?!?」
チャイムへの意外な返事の形に、ドアの外から高い驚きの声が聞こえる。
そりゃそうなるだろう、壁ドン(隣人からの愛情が込められていない方の)ならぬドアドン(悲鳴付き)で応対される経験をした人類なんてそうそういない。
応対したこちら側も初経験だったのだし。
「あの! だ、大丈夫ですかっ!?」
ドアに額をくっつけたまま益体の無いことを考えている私に対して、ドアの向こうの声の主は一足早く驚きから解放されたらしい。
私の無事を確かめる声がかけられる。
しかし、返事をしようにもそれどころではなかった。
「ぁ、ぁぁぁしぁしあしあししししっ!!」
とにもかくにも、今の私は足が地獄のように痺れていた。
ずっと慣れない正座なんてしていたから。
少し足を動かそうものなら――っ!!
「ぁぁぅぅう゛!!」
そのビリビリに、たまらず吠えた。
「ほ、本当に大丈夫ですか!?!?」
大丈夫じゃない。
全然大丈夫じゃなかった。
しかし、このまま言葉になっていない応答ばかりしていたらまた今朝のように通報されそうになるんじゃないかという不安が私を突き動かす。
私は痺れる足をなるべく動かさないように体の向きを変えて、あらかじめ用意して積んであったチラシの中から『その節はご迷惑をお掛けしました。もう大丈夫です』と裏紙にしたためているものを抜き出して、ドアの郵便受けの隙間からスルリと外に出した。
「わっ!?」
これはコミュ障考案の対人応対方法その1とその2、『壁越し』で『筆談』の術だ。
これならば対面というハード過ぎる展開を避け、また言葉がどもってしまうという弱点を補うことができると考えた。
これで正面切って痴態を晒すことはなくなるはず……ドア前の少女にはすでに充分に恥ずかしい様子をうかがわせてしまった気もするが。
外にいたその声の主は郵便受けから突然吐き出された白い紙に多少面食らったような反応をしたものの、そこに書かれている文章を読んで安堵の息を漏らしたようだった。
「よかったです、今朝はなし崩し的にここを離れちゃったから……」
それが義務なわけでもないのに、生真面目に人の心配をしてくれるその声の主の女の子――今朝、私の『自殺者のお報せ』チラシを見て私を気にかけてくれた女子高生、あかりちゃんは私の思った通り、夕方に差し掛かる少し前のこの時間帯、学校帰りに私の部屋へと立ち寄ってくれた。
『心配してくれて、ありがとうございます』
続けて出したチラシに、あかりちゃんはクスリと笑う。
「あんなチラシを見ちゃったんだもん、心配しますよ……。それで、もう本当に大丈夫なんですか? もう……あんなことしようと思わないですか?」
続けての質問に私は慌て予備のチラシに返事をしたためて、また外へと出す。
『大丈夫です。多分もうしないです』
その返事に何を思ったのか、少し考えるように時間を置いて、あかりちゃんは口を開いた。
「えっと、その……。私に何ができるわけでもありませんが、話を聞いたりすることぐらいはできると思いますので……」
その声はとても優しい感情を灯していて、芯から私の心配をしているんだということが分かって、心が少しほだされるのがわかる。
「もしまた何か思い悩むことがあるようなら、自殺、なんて考える前に私に相談してほしいです。自分で言ってておこがましい、って思うんですけど、ほっとけないっていうか……」
1つ1つ言葉を選んで紡いでいるのがわかり、しっかりしているなぁと言葉を掛けられている当人にも関わらず他人事のように感心した。
私はこの歳の頃こんなにしっかりしていたかな? なんて考えて、いやずっと引きこもってたわと比較対象にもならないことに気づいて軽く落ち込む。
「えっと、なので何か私にでもできるようなことがあれば力を貸しますので、自分1人で考え込まないでください!」
思いがけずも掛けられたその言葉に、体がピクリと反応する。
まさに渡りに船、大チャンス到来と思ったのだ。
自分からどう切り出そうかとあれこれ思案していて、さっきまでも肩の重荷になっていた悩みが1つ解決した。
私はあらかじめ用意してあったチラシの中から再びそろりと文面を外に出す。
『いきなりで失礼なのは承知の上ですが、実は折り入ってのお願いがあります……』
「へっ?」
そんないきなりの展開に、ドア越しにもあかりちゃんの首を傾げる空気が伝わってきた。
公園の奥のベンチに腰かけて、私は菓子パンを齧りながら男が起きるのをずっと待っていたのだ。
財布が落ちていることに気が付いた男は案の定、財布の中身を確認していた。
しかし確認しただけで、その後は何事もなかったように、何も変わったことなどなかったように、歩き去った。
私はこれからの自分への試金石として、最初で最後の賭けをして、勝ったのだ。
私は履いてきたジーンズのポケットの中に手を入れて、窮屈さにしわくちゃになったそれを取り出した。
現金、1万1000円。
それは自分が盗みを働くという、決して人に褒められることではないどころか、むしろ非難されるべき行いをしてまで生きていけるかどうかを試すための賭けだった。
もしこの時点で盗みがバレてしまい男に詰め寄られ糾弾されようものなら、きっと私にはこの行いが向いていないし、必要な運もないと思う。
だからあえてこの場から立ち去らず、男の反応を待ったのだ。
結果は詰め寄られないどころか、何も訊かれない。
むしろ、そう。
男は自分のお金が盗まれたということ自体に気付いていなかった。
突然だが、私は自分の財布の中身にあといくら入っているかを正確に把握できていないことが多い。
そこで私が思ったのは、大体の人は『有る』か『無い』かでしか、確信を持って物事を覚えていると言うことができないんじゃないか、ということだ。
だから私は財布の中身の3万4000円を全ては盗らずに、1万円札と千円札を1枚ずつ抜き取るに留めた。
だって『有る』ものを『無い』にしてしまえば、きっと異常に気が付くと考えたから。
狙い通り、男は騒いだり疑問に思ったように辺りを見回すなどの行動を取らなかった。
もしかしたら「あれ? こんなに少なかったかな?」くらいの疑問は持ったかもしれないが、それはきっと疑問止まりだ。
間違っても警察に届け出などはせずに、「こんなものだったかな」と自分を納得させて仕事に戻るに違いない。
『完全犯罪の推理小説なんてどこにもない。何故なら事件は起こらないから』
以前に小説でそんな一文を見かけたことがあったが、今はまさにその通りだと全肯定できる。
起承転結の『起』がなければ、警察も探偵も呼ばれることはないのだ。
私が盗みという犯罪を後にも先にも誰にも気づかれずに行えば、私のその行為を始めとする事件は起こらない。
生活を平穏なままに、私は生き続けることができるのだ。
見咎められる事のない生き方を見つけることができた高揚感に、いつの間にか私の中で法に背くことへの罪悪感は消えていた。
人からお金を盗むという行為には勇気がいるけれど、でもそんなのは些細なことだった。
だって私は、自分自身さえ殺す覚悟を持てたんだから――
※
私は、玄関の前で正座をしてその時を待っていた。
正座である必要性は全くなかったのだが、そうでもしないと今にでも部屋の隅へと逃げだしそうな自分の足を押さえていられる自信がなかったのだ。
どれだけ待ったか分からないが、窓から直接陽射しが入らなくなったから時間的にはそろそろなはず。
――きっと来る。
私は改めて覚悟を決めるように玄関のドアを見つめる。
しばらくして、トツトツと階段を上がってくる音が聞こえた。
それが誰のものかなんて分からないはずだが、私は『来た』と体を強張らせた。
足音は案の定、私の部屋の前で止まる。
そしてどれくらいかの間を置いたあと、チャイムが鳴った。
私はスタートの合図が聞こえた陸上選手ばりに正座の状態から急激に立ち上がり、足を踏み出して――
「ァがぁっ!!」
――盛大にコケて、そして破壊的な音を立ててドアに額をぶつけた。
「ひぃぅぅぅっ!?!?」
チャイムへの意外な返事の形に、ドアの外から高い驚きの声が聞こえる。
そりゃそうなるだろう、壁ドン(隣人からの愛情が込められていない方の)ならぬドアドン(悲鳴付き)で応対される経験をした人類なんてそうそういない。
応対したこちら側も初経験だったのだし。
「あの! だ、大丈夫ですかっ!?」
ドアに額をくっつけたまま益体の無いことを考えている私に対して、ドアの向こうの声の主は一足早く驚きから解放されたらしい。
私の無事を確かめる声がかけられる。
しかし、返事をしようにもそれどころではなかった。
「ぁ、ぁぁぁしぁしあしあししししっ!!」
とにもかくにも、今の私は足が地獄のように痺れていた。
ずっと慣れない正座なんてしていたから。
少し足を動かそうものなら――っ!!
「ぁぁぅぅう゛!!」
そのビリビリに、たまらず吠えた。
「ほ、本当に大丈夫ですか!?!?」
大丈夫じゃない。
全然大丈夫じゃなかった。
しかし、このまま言葉になっていない応答ばかりしていたらまた今朝のように通報されそうになるんじゃないかという不安が私を突き動かす。
私は痺れる足をなるべく動かさないように体の向きを変えて、あらかじめ用意して積んであったチラシの中から『その節はご迷惑をお掛けしました。もう大丈夫です』と裏紙にしたためているものを抜き出して、ドアの郵便受けの隙間からスルリと外に出した。
「わっ!?」
これはコミュ障考案の対人応対方法その1とその2、『壁越し』で『筆談』の術だ。
これならば対面というハード過ぎる展開を避け、また言葉がどもってしまうという弱点を補うことができると考えた。
これで正面切って痴態を晒すことはなくなるはず……ドア前の少女にはすでに充分に恥ずかしい様子をうかがわせてしまった気もするが。
外にいたその声の主は郵便受けから突然吐き出された白い紙に多少面食らったような反応をしたものの、そこに書かれている文章を読んで安堵の息を漏らしたようだった。
「よかったです、今朝はなし崩し的にここを離れちゃったから……」
それが義務なわけでもないのに、生真面目に人の心配をしてくれるその声の主の女の子――今朝、私の『自殺者のお報せ』チラシを見て私を気にかけてくれた女子高生、あかりちゃんは私の思った通り、夕方に差し掛かる少し前のこの時間帯、学校帰りに私の部屋へと立ち寄ってくれた。
『心配してくれて、ありがとうございます』
続けて出したチラシに、あかりちゃんはクスリと笑う。
「あんなチラシを見ちゃったんだもん、心配しますよ……。それで、もう本当に大丈夫なんですか? もう……あんなことしようと思わないですか?」
続けての質問に私は慌て予備のチラシに返事をしたためて、また外へと出す。
『大丈夫です。多分もうしないです』
その返事に何を思ったのか、少し考えるように時間を置いて、あかりちゃんは口を開いた。
「えっと、その……。私に何ができるわけでもありませんが、話を聞いたりすることぐらいはできると思いますので……」
その声はとても優しい感情を灯していて、芯から私の心配をしているんだということが分かって、心が少しほだされるのがわかる。
「もしまた何か思い悩むことがあるようなら、自殺、なんて考える前に私に相談してほしいです。自分で言ってておこがましい、って思うんですけど、ほっとけないっていうか……」
1つ1つ言葉を選んで紡いでいるのがわかり、しっかりしているなぁと言葉を掛けられている当人にも関わらず他人事のように感心した。
私はこの歳の頃こんなにしっかりしていたかな? なんて考えて、いやずっと引きこもってたわと比較対象にもならないことに気づいて軽く落ち込む。
「えっと、なので何か私にでもできるようなことがあれば力を貸しますので、自分1人で考え込まないでください!」
思いがけずも掛けられたその言葉に、体がピクリと反応する。
まさに渡りに船、大チャンス到来と思ったのだ。
自分からどう切り出そうかとあれこれ思案していて、さっきまでも肩の重荷になっていた悩みが1つ解決した。
私はあらかじめ用意してあったチラシの中から再びそろりと文面を外に出す。
『いきなりで失礼なのは承知の上ですが、実は折り入ってのお願いがあります……』
「へっ?」
そんないきなりの展開に、ドア越しにもあかりちゃんの首を傾げる空気が伝わってきた。
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