世界を渡る少年

高見 梁川

第七十二話

司祭の男はベルファストと己の名を告げた。
ストラトが武神である以上、高位の司祭が非常に高度な武人であることは周知のとおりだが、目の前の男も十分以上に強者であることは確実だった。
頑強に鍛え上げられた野太い首とあごがそれを証明している。
四肢や胸筋と違い鍛え上げることが難しく、しかもなかなか強さの実感を味わえぬ部位だが、ある水準以上の武人はそうした部位こそが生死を分かつことを知っているものなのだ。
もしもフィリオが平静な状態であれば真っ先に勝負を申し出ているはずの男であった。
 

しかしもはやフィリオの頭の中にそんな思考は存在しない。
強い男と勝負をしたかったのは過去の話であり、今のフィリオには真人に勝つことだけが全てであった。
真人に勝つためには尋常な力ではない、言うなれば人ではないそれ以上の何かの力が必要なのだ。
その考えをケルドランの戦い以前の自分であれば決して認めることはないであろうことにフィリオは気づいてはいなかったが。
 

「さあ、こちらにございます」
 

ベルファストに促されてフィリオが招かれたのはストラト神殿でもごくわずかな高位な司祭しか立ち入ることを許されぬ神域であった。
豪壮な神殿とは裏腹に、神域は実のところ巨大な神像以外には何も置かれてはいない簡素な場所である。
広大な空間にわずか八名ほどの司祭が神像の傍らにひっそりと佇む光景は幻想的な色彩を帯びてフィリオの網膜を焼いた。
これがストラトの教徒であれば感涙の涙を流すであろう光景なのだろうが、フィリオにはそれほどの感慨ももたらすものではない。
ただ、神像の足元に安置された剣の神々しい輝きに気づいた瞬間、もはやフィリオの魂は剣に囚われてしまっていた。
 

それこそがおそらくは神代の宝剣バルゴなのであろう。
溢れる膨大な魔力
どんな名工も真似することの出来ぬ煌びやかな輝き
そして何より、戦士の魂を惹きつけて離さぬその底知れぬ魔性!
 

誰よりも個人としての強さに惹かれた戦士、アセンブラの猛虎が堕ちた瞬間であった。
 

「………フィリオ殿………この宝剣バルゴあらば、かのマヒト・ナカオカミを打ち倒すこと必ずや叶いましょう」
 

 

フィリオは口元にねじけた笑みを貼り付けてバルゴをその手にとった。
司祭たちが表情を消したその奥に嘲りの色を浮かべていることに気づかぬままに。
 

「すげえ!………この力だ……!この力さえあれば…………!!」
 

魔力か気力か定かではないが、ただ体内に力が際限なく溢れてくることをフィリオは実感していた。
それは修行では味わうことの出来なかった人を超える何かに違いなかった。
 

「マヒト………!オレは貴様に追いついたぞ………!」
 

 

 

 

 

 

「…………今なんと仰られた?」
 

ほぼ同時刻、もう一人の司祭であるライオットはアウフレーベの予想外の答えにうろたえの色を隠せなかった。
 

「聞こえなかったのか?私には十二将軍としての責務がある。神の一兵卒となる余裕はないのだよ」
 

ライオットが瞠目した理由はただ申し出を断られたことにのみあるのではない。
むしろ目の前の女傑がどうやら神宝を託されるということの真実に気づいているということにこそあった。
すなわち、神の宝具の担い手は最終的に神の操り人形と化すのだということに。
 

「………マヒト・ナカオカミは我々神殿の助力なしに倒すことはかないませぬぞ?」
 

ライオットの脅しも軍の中枢たる十二将軍相手にはいささか迫力の欠けたものにならざるをえない。
なんといっても武力組織として神殿は決して軍に対抗しえるものではないからだ。
 

それにしてもアウフレーベがいともあっさりと神殿の秘中の秘を見破ったのが不審であった。
神の宝具は本来人間の手に扱えるものではない。
ゆえに宝具は担い手を人ではない何かに担い手を変えてゆくのだ。
亡国の危機が迫ったときのみに使用を許される神殿の切り札であり、その機密に触れられるのはわずか八人の大司祭と最高司祭の九人に限られるはずなのだが。
 

「司祭が疑問を感じるのは当然だがエルドリムの悪夢から祖国を救った英雄ウェールズについて研究した歴史家の間ではすでに有名な話だぞ。連合軍を打ち破ったとき、
もはやウェールズに人としての意識がなかったということは」
 

かつてアウフレーベは軍で軍事史を研究していたときに、高名な歴史家ルーンファスと交友する機会を得た。
エルドリムの悪夢と呼ばれる大連合軍を相手に、亡国の一歩手前からブリストルが逆転勝利を収めたことは長く軍事史上の謎とされてきた。
兵数において十倍以上の差をつけられ有能な指揮官の多くを討ち取られたブリストルが逆転する可能性は限りなく低かったはずなのだ。
圧倒的優勢を誇った連合軍がたった一人の青年によって敗れ去るなど誰が考えよう。
しかし連合軍五万が一人の青年に五千以上の戦死者を出して壊滅させられたことは紛れもない事実であった。
そして常軌を逸した損害に怯えた連合軍は、いまだ戦力の七割以上を保持しながらもたちまち本国へと退却を開始したのである。
全身に矢傷と刀傷を負い、精根尽き果てたウェールズは戦場で息絶えて全ては伝説の彼方へ消えたかに思われていた。
 

「一人の武で五万に立ち向かう。人の身でなしえることではない。では誰がなしたというのか?神が介在したと考えるべきであろう」
 

歴史学者の間でウェールズの戦いぶりが真実であるか否かは長く論議の対象となってきた。
いわく、ウェールズが剣を振ればその衝撃波で十人以上が吹き飛んだ。
いわく、歴戦の老将軍の鎧をまるで臓腑を引き裂くように容易く真っ二つにした。
いわく、肺や心臓に致命傷を負っているはずなのになお戦い続けた。
それは英雄譚にありがちな脚色なのか、あるいは真実であるのか歴史学者の間でもなかなかにその答えを導き出すことが出来ずにいたのである。
 

しかし歴史学者ルーンファスはかつて有能な軍人であったこともあり、軍部でウェールズに関する良質な資料に目を通す機会に恵まれていた。
彼はウェールズが神の啓示を受け、そのまま神殿の奥で最高司祭の手で洗礼を受けている事実に着目した。
すなわち、英雄は神殿によって人為的に作り出されたものなのではないか?
高位の司祭は神の力を自らに憑依させ、その命を犠牲に巨大な力を行使することが可能であるという。
選ばれた特殊な人間ならばさらに巨大な力を振るえる可能性は高い。
英雄ウェールズはそうして選ばれた哀れな生贄なのではないか?
 

ルーンファスの仮説はアウフレーベの中でケルドランでの神殿との共闘を経て確信に近いものとなっていた。
 

神代の宝具を手にマヒト・ナカオカミを倒す。
 

確かに魅力的な提案ではあった。
しかしアウフレーベは真人を倒すことを欲しているが、それを観測するアウフレーベという主体がいなくなっては意味がない。
十二将軍たるアウフレーベが、その意思と力によって真人を倒してこそケルドランで散った泉下の英霊に対して顔向けが出来るというものであった。
意思のない神という名の現象に成り果てることはアウフレーベの誇りが許さなかった。
 

「ならばあのマヒト・ナカオカミにどうして対抗するというのです?明らかに人を凌駕するあの男に!」
 

おそらくは真人の武は英雄ウェールズと性質を同じくするものであろう。
それは人の身では決して超えることの出来ぬことを意味する。
人は神に勝てはしない。否、勝ってはならないのだ。
 

「マヒト・ナカオカミは神ではない………奴は正しく人であり、人によって打倒されなければならないのだ」
 

困惑するライオットにアウフレーベは莞爾と微笑んだ。
本来アウフレーベを説得し、神殿に連れ帰らねばならないライオットが思わず見惚れるほどの笑みであった。
経験のないライオットにはわからない。
時として生死の観念を越えた武人が見せる透徹な笑みが、どれだけ人を惹きつけるかということを。
 

 

 

 

 

「…………よろしいのですか?」
 

ライオットが遂に説得をあきらめ野戦指揮所を辞するのと入れ替わりに入ってきたのは全軍の軍師であるフェルナンド卿であった。
彼にとっても神殿の協力は不可欠であるだけにアウフレーベの対応に無関心ではいられないのだ。
 

「それでは私が神殿の傀儡になったほうがよかったか?」
 

「よしてください。ただでさえ信頼できる野戦指揮官は少ないのですから」
 

マヒトとの決戦を前に神殿の協力が不可欠であると考えるフェルナンドですら、アウフレーベが神殿に引き抜かれるのを容認することはできなかった。
野戦指揮官は特殊な才能を必要とするだけに十二将軍のなかでも得意とする人間は数少ないのである。
もちろん得意でないからといって彼らが水準からすれば突出した指揮官であることは間違いないのだが、やはり流動的になりがちな野戦には戦機を読む独特の勘が
絶対に必要であった。
フェルナンドの見るところそれを備えているのはジェラルド卿とマンセル卿とライオン卿のほかにはアウフレーベあるのみであったのである。
何より強大ではあるが制御不能な兵器など、フェルナンドにとってはナンセンスなものでしかない。
戦に勝つためにはむしろそうした不確定要素は出来うるかぎり排除するべきものなのだ。
 

「勝てるか?あのマヒト・ナカオカミに」
 

「勝ちましょう」
 

二人は顔を見合わせておかしそうに笑った。
マヒト・ナカオカミの武は限りなく神に近しいことはわかっている。
しかし彼の意思は紛れもなく人としてのそれであった。
彼もまた人ならば人の身で超えることの出来ぬはずがない。
人はかくも強き生き物なのだ。
その強さは人のままにあるからこそ価値がある。
 

 

「結局のところ戦とは国家がその国益のために行う政治の亜種にすぎません。彼もまた人である以上そうしたしがらみから逃れることはできないのですよ」
 

 

たとえば、真人が一人でゲリラ戦を展開すればこれを捕捉することはおよそ不可能に近い。
個人で戦ったほうがむしろ真人のような超絶の武力を持った人間は安全なのだ。
またオルパシア王国が和平を選択すれば真人もまたそれに従わざるをえないだろう。
今もって真人はオルパシア国王アルハンブラの臣下であり、率いる兵の大半はオルパシア王国兵であるからであった。
真人の力は決して全能なものではない。
その選択肢をさらに限定することができれば連合軍の打倒は可能であるはずだった。
 

ある意味ではフェルナンドは敵将であるマヒト・ナカオカミを誰よりも信用していると言ってよい。
マヒトは個人的な心情を国家利益に優先することのない極めて理性的な人物である。
これ以上の戦闘に利益がないとわかれば迷わず兵を退く。
もちろんマヒトを直接打倒することをあきらめているわけではないが、最悪戦いに利あらずと思わせるだけの手はずは整えていた。
 

一抹の不安があるとすれば神殿の動きが見えないということであろうか。
アウフレーベに断られた以上、神殿が他の生贄を探す可能性は高かった。
神の依り代となる人間がそうそういるはずはないが、もし見つかれば神殿が投入を躊躇する理由はなにもない。
 

「………神は信仰の対象でありさえすれば良いのですがね………」
 

生きるということは自分の意思で何かを為すということだ。
神に対する信仰心がないわけではないが、人としてこの世に生を受けた以上人として最善を尽くすべきであった。
フェルナンドもアウフレーベもわずかばかりともそれを疑うつもりはなかった。
 




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