世界を渡る少年
第五十三話
冷徹をもってなるジェラルド卿ですらが目を剥いた。
十二将軍の軍議に神殿が臨席すること自体異例であるのだが、それはあくまでも軍に対する無言の圧力だと思っていたからだ。
あくまでも開戦以来はかばかしいとは言えない戦況に奮起を促しに来たのだと、そう考えていたのだが………。
 
「我々神殿はマヒト・ナカオカミの存在を軍以上に脅威と考えております。なんとなれば彼の者はストラト神の神殿において信仰に対する重大な脅威として我が神の神託が下された者であるからです」
 
神殿補佐官であるクルナッフ・ラナート・コーネリアス正司祭の言葉が与えた影響は甚大だった。
国教であるストラト神殿がマヒトを信仰の敵として認めたということは、過去の事例からいってそれは国家存亡の危機に瀕していることに他ならないからだ。
そもそも神託はストラト神殿の秘中の秘であって、こうして公開されること自体がありえない。
例外をあげれば二百年前、エルドリムの悪夢と言われ、国土の半分を連合国によって蹂躙されたとき以来のことであった。
それにしてもブリストルほどの巨大な帝国が、たったひとりの若者によって左右されることなどあり得るものなのだろうか?
 
将軍たちの空気を察したのかクラナッフは続けた。
 
「………たった一人の人間に……とお考えですか?ではもう一度考えて見てください。彼がいなかったときのオルパシア王国の状況を。外務卿と捕らえられ南部穀倉地帯を奪い返せず、メイファン王国の残存勢力を扱いかねる………本来ならばオルパシア王国は本年中には陥落してしかるべきであったはず」
 
そういわれて見れば改めてマヒトの成した功績には目を見張るものがある。
そしてもっとも恐るべきは、それが彼以外の何者にも成しえなかったという点にあるであろう。
国家間戦争ではたまたま役割を与えられただけの偶然が生んだ英雄がまま存在するが、マヒトの代わりを成しうる人間を誰も想像することができないのだ。
 
「これは我々も考え方を変えてかからねばなりませんね………」
 
フェルナンド卿の言葉が列席していた将軍たちの気持ちを代弁していた。
これはもはや通常の戦ではない。
兵と兵の戦いこそが戦いの帰趨を決めるというのは有能な指揮官には常識といってよい。
だが、今回に限っては兵たちよりたったひとりの指揮官をこそ万難を排して倒さなければならなかった。
今まさに求められているのは、優秀な戦術指揮官であることよりも獲物を追い詰め、罠を張り、しとめるためにはいかなる労も厭わない、老練な狩人であることなのだ。
 
 
「よろしい、では狩りを始めるといたしましょう。戦神ストラトへ捧げられる生贄は、誓って彼のマヒト・ナカオカミでなければならないのですから」
 
 
 
 
 
 
 
外務卿シェレンベルグはロドネー王国・ワルサレム王国といった隣国の要人と極秘に会見を重ねつつ、王国の戦力的劣勢を挽回するための手段を練っていた。
しかし結局のところあるひとりの人物の活躍に期待するしかない現実を味合わされる結果に終わっている現状が歯がゆくてならない。
これでは外務卿である自分はただの交渉窓口なだけではないか!
 
「………まったく………私は情けない義父だな………」
 
ロドネー王国もその他の隣国も軍事支援に踏み切るための答えはひとつ。
マヒト・ナカオカミが率いる軍集団が、ブリストル帝国軍に対して決定的な勝利を収めること。
開戦以来、善戦しているとはいえオルパシア王国軍はマヒト以外に目に見える戦果をあげていないうえ、損害は同等かそれ以上というていたらくである。
これで自国の命運を預けられるわけがなかった。
それでもマヒトがメイファン王国の後継者としてシェラフィータ・プリムローゼ両姫と結ばれたことで政治的大義名分はオルパシア王国へと傾いていた。
あとは勝てるという確証さえあればよい。
問題は、その確証を与えてくれる将帥がマヒト以外に見当たらないということなのだ。
唯一軍務卿であるハースバルド卿がマヒトに代わって野戦を任せられる人物ではあったが、彼は軍政上の負担が大きすぎて王都から身動きがとれない。
 
「結局………君だけが頼りだ………マヒト」
 
もちろんそれだけで終わらせるつもりはない。
マヒトの勝利をきっかけにして対ブリストル包囲網を作りあげ、戦局を一気に逆転させるための準備はできている。
それが王国のために戦場へと駆りだし、策略によって息子と呼んだマヒトへシェレンベルグ卿の出来る唯一の償いなのだった。
 
「私としたことが………ずいぶんと情を移したものだな……」
 
近い将来にマヒトとアナスタシアが結ばれて本当の義父となる日を待ち望んでいる自分がいる。
そしてアナスタシアとマヒトの間に生まれる孫にこのシェレンベルグ家を、オルパシアの国を託していけたなら、それはどんなにか幸せなことだろう。
今このときだけは、僚友ハースバルド伯の無骨な頑固さがうらめしいシェレンベルグ侯であった。
 
 
 
 
 
現在オルパシア王国が抱えている戦線は概ね三つに分けられる。
ひとつは南部戦線であり、これは真人がブリストルの南部侵攻軍を打ち破ったことでひとまずの小康を見せていた。
レナセルダ河を挟んで堅固な野戦陣地を築城しており、守勢には定評のあるバンデクリフト王国少将が着任した今、少なくとも防御に関する限り不安はない。
もうひとつは北部戦線である。
こちらも中立を保ったロドネー王国の協力が得られない限りブリストルの侵攻ルートはモールカナル城塞の正面に限定されてしまうため強兵のブリストルをもって
してもはかばかしい戦果はあげられずにいた。
最後のひとつが西部戦線である。
これはブリストル最大の城塞都市ケルドランを戦略拠点としてコラウル山脈を支配し、カーゴイアス丘陵からオルパシア王都へ侵攻しようとするもので、現在最も
ブリストルにとって有力な戦線と目されていた。
しかし開戦当初に真人によって受けた打撃も大きく、ようやく補充と編成を終えたころには南部戦線から転進した傭兵部隊がコラウル山系でゲリラ戦に転じていた。
軽装で戦い慣れた傭兵にフリーハンドを渡されてはさすがのブリストル軍も捕捉は難しい。
基本的に大陸のどの国でも傭兵の運用は硬直化していて被害担当を押し付けるのが常であるせいだった。
本来の真価を完全に発揮した傭兵との不正規戦を誰も体験していなかったのだ。
この西部戦線を戦局の要として認識していたのはオルパシア王国も同様である。
そのもっとも大きな要因はケルドラン城塞を突破して北西の方角に、旧メイファン王国領が存在するためであった。
もしも西部戦線で勝利を収め、さらに旧メイファン王国の解放が実現するならブリストルに対して劣勢であったオルパシアの戦力比は完全に逆転するだろう。
侵攻部隊の総指揮官に真人が任命され、王国の命運を賭けた大部隊が編成されたのはむしろ当然であった。
 
 
 
 
 
「考え直してくれ、シェラ・プリム」
 
天幕の中で真人は唸るような声で懇願していた。
 
「真人様が何と言われようと今回ばかりは聞けません」
 
シェラの言葉に無言でこくこくと頷くプリム、二人とも退く気は微塵もないようである。
 
「戦場では何が起こるかわからないんだ。せめて攻城戦が終わってからにしても………」
 
「この戦はメイファン王国がその主権を取り戻すための第一歩。それに私が同行せずしてどうして故郷に帰れましょう」
 
あれほど王族たる義務から逃げていたシェラとは思われぬ決然とした物言いであった。
シェラの脇に控えたハイデルたち侍従武官も、戦場から彼女たちを遠ざけたいと願いつつも、その志と威風には震えるほどの感動に魂を揺さぶられずにはおれない。
シェラとプリムの献身は決して我が侭ばかりというわけではなく、戦後のメイファン王国の自立という観点からも無視できない要因を含んでいるのである。
しかし真人としてはそんな政治的術策から婚約者を戦場に引き出すような真似は断じて容認できるものではない。
 
「……それにカニンガム子爵との交渉が難航していると聞いておりますよ」
 
真人の否定の言葉よりシェラの追撃のほうが早かった。
このあたりの交渉センスはやはり王族として生まれついたものの経験によるものであろう。
残念ながら真人の真価はその武力にあるのであって、弁舌にあるのではないのである。
それにカニンガム子爵率いるメイファン残党千数百名との交渉が難航しているのも事実であった。
国を見捨てて亡命した旧貴族を旗頭に組織されたオルパシアのメイファン残党軍に対し、彼らは深刻な軽蔑と不信を覚えている。
地下にもぐり多大な犠牲を払いながら亡国から今まで抗戦を継続してきた彼らにとって、オルパシアに逃げた者たちは許し難い裏切り者に見えているのであろう。
その者たちに対し、巫女姫自らが陣頭に立ったという事実はお互いを歩み寄らせるに十分な実績となるはずだった。
 
「メイファンの兵は既に敗戦に慣れてしまっています。心が折れずに戦うためには拠り所が必要なのです。それに………」
 
シェラはここで言葉を区切って微笑った。
 
「私は真人様を信じていますから………」
 
恐ろしいまでの殺し文句である。
真人は深い諦念とともにシェラの説得を断念せざるを得なかった。
まさかここで守りきる自信がないと言うことは、守護者としての真人の矜持が許さない。
 
「まったく先が思いやられるよ………」
 
苦笑とともに真人は敗北を受け入れた。
この世界に来てから自分はいったい幾度敗北してきただろうか。
決して敗北の許されなかったはずの自分だが、この世界で初めて、心許した人に負けるということは心地よいこともあるということを知った。
だからこそ負けてはならないものもいる。
 
 
 
軍議が終わって退席する侍従武官の一人が宿舎に戻ることなく足早に兵站部へと向かっていた。
そして何食わぬ顔で自らの愛馬の世話にかこつけて一人の馬商人を呼びつける。
騎兵隊の飼葉を王都から運んできた温厚そうな商人が、にこやかな笑みを浮かべながら武官のもとへ進み出る様は客観的に見てごく当たり前の情景に見えた。
 
「急ぎ戻って公爵様に伝えよ。軍団の出発は四日後、兵力は二万。メイファンの姫巫女は王都には戻らずに戦場まで同行する。カニンガム子爵との合流はない、とな」
 
服のあちこちに飼葉をぶらさげて、いかにも朴訥な馬商人にしか見えない男だが、目だけは笑わずに頭を下げる。
 
「それはさぞ公爵様がお嘆きになるでしょうな……事を起こすにあの姫巫女は大事な獲物でしたものを………」
 
「余計なことは言わずともよい………いけ!」
 
 
 
 油断なく周囲を見回す男たちの頭上を一羽の川蝉が舞っていた。
 
 
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