世界を渡る少年

高見 梁川

第二十四話

 



 



「それは本当ですの?お父様!」


 



アナスタシアは驚愕にその美しい翠色の瞳を見開いた。


 



「勅命だ。私は明日ケルドランに発つ。」


 



ブリストル帝国との最終交渉に赴き王国に譲歩なき和平を、しからずんば宣戦の布告を与えよ。


先刻の王室会議の最終決定は下った。事実上帝国との開戦が決定した瞬間でもあった。


国王陛下の勅命とあらばラスネール・ティレース・ノルド・シェレンベルグ侯爵も深いため息とともに己が運命を受け入れるしかなかった。


 



………こうなる予感はしていた。


度重なる王室会議での紛糾にもかかわらず遂にこれまで決定的な対策を講じることができなかったツケを払わされる時がきたのだ。


 



「どうしてお父様が犠牲にならなくてはいけないの?これもみんな内務卿や財務卿がくだらない駄々をこねるからじゃありませんの!」


 



「たとえそれが事実であったとしてもわが身の職責を全うするのが誇り高きシェレンベルグ家の勤めだ」


 



………とはいえ内心忸怩たるものがあることは否定できない。


これが1年以上まえ…メイファン王国の陥落前であったならまた別の交渉が可能だった。


メイファン王国侵攻直後ならさらに多くの選択肢が存在した。


そもそもその時点でラスネールは一度は対ブリストル戦の開始を提言している。


軍部の権限拡大を嫌った門閥貴族どもに否決されてしまっていたが。


戦争になれば莫大な費用がかかるのが彼らには気に入らないのだ。


予算が減れば己の権限……つまりは富の源泉が減るということなのである。


門閥貴族を頂点とする巨大な官僚組織は時として組織の都合を国家の都合に優先させるがこの場合がまさにそうだった。


戦争に負ければ元も子もないはずなのだが…………。


 



それからメイファン王国の陥落以後オルパシア王国を取り巻く情勢は悪化の一途をたどっていた。


仮にブリストル帝国とオルパシア王国が開戦にいたった場合ネルソンやロドネーといった小国がオルパシア側にたって参戦する見込みは限りなく零に近い。よくて好意的中立、下手をすればブリストル側について参戦するかもしれない。


それもこれもオルパシアがメイファンが陥落するのを手をつかねて傍観したせいだった。


オルパシア王国は小国にとって頼りがいのある大国ではなくなっていたのだ。


 



……すでに間諜からの知らせではブリストルは旧メイファン王国からの部隊の移動を完了したとある。


それすら脳みその温かい連中には軍事統治がひと段落して占領軍にいったん休暇をとらせるためだと思えるらしい。


確かに人間には休暇が必要だが、こと軍隊に関しては通常ではありえない無法がまかりとおるのが常識ではなかったか。


 



ブリストル帝国の辺縁部であるケルドランで最後の交渉を行うという帝国の意図はみえみえだ。


ひとつは宣戦にいたる外交的儀礼を形だけとはいえ満たすこと。


そしてより重要なひとつはオルパシアの外交の中枢たる自分を捕縛あるいは抹殺すること。


長年に渡って培われてきた各国とのパイプ……熟練の交渉術と外交センスはひとえにラスネール一人の担うところだった。


ラスネールを失えばオルパシアが外交交渉で優位にことを進めることなど不可能といっていいだろう。


それが降伏の交渉であるにしてもだ。


 



それがわかっていてもなお、和平に一縷の望みをかける国王陛下の期待に背くことはできない。


マンシュタインやタンネンベルグのような門閥どもの思惑など取るに足らないが、陛下は真実国民を戦に駆り立てることにお心を痛めておられるのだ。


ならば万に一つもない可能性ではあるが自分も非才なる身の全力をあげるのが臣下たる己の本分であろう。


 



ラスネールが悲壮な決意を固めたその時だった。


 



「そうですわ!」


 



アナスタシアが喜色も露わに立ち上がった。


 



「………いったいどうしたのかね……?」


 



ラスネールはいささか娘の教育を誤ったと感じずにはいられなかった。


この日あることを予想してラウンデル子爵とお見合いをさせてみたものの全く相手にすらしようとしなかった。


子爵はえらく肩を落としていたが本当にかわいそうなことをしたと思う。


確かに親の欲目なしに美しく聡明に育ってくれたと思うのだがいかんせん理想が高すぎた。


しかも空想癖があるのか現実を物語の一部のように捉えている節がある。


残念ながら現実は娘の思うようにドラマティックなものではなく泥臭く侘しいものなのだ。


 



「あの方がいらっしゃるじゃありませんか!」


 



…………あの方?


呼び方から察するに個人名らしいが帝国領土に単身赴いて無事にすむ一個人がいたら合わせて欲しいものだ。


 



「お父様………確か外交官には侍従武官を一人選任する権利がございましたわよね………」


 



国を代表する使節団には慣例として軍から護衛の武官が派遣されることになってはいる。


多くの場合無礼を働かないよう教養ある貴族の子弟を外務省が指名していたが……それがどうしたというのだ?


 



「ハースバルドの小娘に借りをつくるのは癪ですけど……王国騎士千人の護衛より頼もしいお方を紹介していただけるはずですわ」


 



王国騎士千人だと……?


 



ラスネールはまた娘がありもしない夢想を語りだしたと考えていた。


一個人が千人に敵することはありえない。戦において数の論理は絶対である。それはこれまでの数多の戦が証明している。


一部の傭兵の間で百人に匹敵する武を持つものがいるなどと噂されているがラスネールに言わせればそれはごく限定された環境でたとえば一対百ではなく、一対一が百回という地の利を得た場合でのみ成立する話である。


互角の条件で戦えば数の多い方が勝つ。ゆえに互角の条件で戦わないために数々の戦術が存在するのだ。


そんなあたり前のことを愚直に守ることこそラスネールがウーデットを高く評価する所以だった。


 



「信じられぬのも無理はありませんわ……敵国の真っ只中から無事抜け出そうというのですもの……」


 



ふふふ……とアナスタシアは妖艶な笑みを浮かべて舌なめずりをした。


 



かつてこれほど娘から女を感じたことはない。


雄を惹きつける引力が女であるとするならアナスタシアは今こそ女の中の女であるに違いなかった。


今までどんな男にも見向きもしなかった娘がいったい………?


 



 



「それでも妾は見ましたのよ。大陸でも指折りの暗殺集団冥き残月がたったひとりの男に手も足も出ずに全滅されましたの。それも指ひとつ動かすことなしに………ですわ。」


 



「……そんな報告は受けていないぞ!流れの傭兵に助けられたとしか!」


 



ラスネールの背中がじっとりとした冷や汗に濡れようとしている。


確か冥き残月の構成員は二十人を超えていたはずだ。それを指ひとつ動かさずに…とは魔術を使ったということか?


いや、それはありえない。魔術の行使には集中が欠かせない。乱戦で連射できるものではないのだ。


 



「ねえお父様…彼を……真人様を護衛に首尾よくお戻りになった暁には真人様を当家にお迎えするのはいかがかしら?我ながら名案だと思うのですけれど」


 






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