彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版

高見 梁川

第十八話  トランシルヴァニア侵攻その2

トランシルヴァニアの主要都市は南部に集中している。
北と西を二千メートル級の山脈に守られた天然の要害だが、南部の標高はそれほどではないうえ、距離的にも近いのでワラキアからはそれほど大きな侵攻の障害とはならない。
心配があるとすればトランシルヴァニアの地形は西に向ってはなだらかな平野が続いており、ハンガリーからの速やかな援軍が得られるという点であった。
 

シエナの諜報によればヤーノシュは予定通りヤン・イスクラに拘束されており、トランシルヴァニア兵の半ば近くが従軍中とある。
留守を守るのは後にヤーノシュの遺志を継いでハンガリー王位に昇りつめたマーチャーシュ一世ではなく兄にあたるフニャディ・ラースローであるらしい。
フニャディ・ラースロー。
ヤーノシュの死後、父の専横に対する反動から反対派貴族と国王ラディスラウスに暗殺された悲劇の公子である。
弁舌さわやかで美男であった彼は後世に悲劇「フニャディ・ラースロー」という戯曲の主人公になるほど将来を嘱望された人物でもあった。
 

――――――まあ、いずれにしろ倒すだけだがな。
 

索敵の軽騎兵が本隊を追いぬいてカルパチアの山並みに消えていくのが見えた。
斥候の軽騎兵はヴェネツィアのジョバンニにも贈った望遠鏡の量産型を装備している。
ハンス・リッペルスハイが望遠鏡の特許を取得するのは1609年のことだからこの時代では非常に大きなアドバンテージを得たと言えるだろう。
偵察任務にとってはかけがえのない品だ。
しかし斥候として散る軽騎兵の任務は敵の動向を探るばかりではない。
味方の行動を秘匿するため、目撃者を消すということも重要な彼らの任務なのだ。
それがたとえ何の罪もない名もない村人たちであるとしても。
 

 

ブラショフの城壁の上で灯火が振られていた。
城壁から数百m離れた小さな林でも、同じように灯火が振られている。
まるでそれをリレーするように数百m離れた街道でも再び灯火が振られる…………。
彼らは無言のままに取り決められた合図を送り続けた。
ブラショフの街が宵闇のまどろみを享受しているころ、カルパチア山脈を越えてきたワラキアの兵団が街道に姿を現そうとしていた。
 

「…………トラ・トラ・トラというところかな」
 

ブラショフに駐留する守備兵がワラキアの侵攻に気がついた様子はない。
そもそもワラキアに攻められることなど夢想すらしたこともないのだろう。
しかしこの世に絶対的なことなど何一つもありはしないのだ。
 

「トラトラトラとはどういう意味でございますか?」
 

不思議そうにベルドが尋ねてきた。
状況が状況であるだけに何か重要な意味があると考えたのかもしれない。
ほんの前世の悪戯心にすぎないのだが……。
 

「―――――東洋の言葉で、我奇襲に成功せり、という意味さ」
 

ブラショフの城壁が見えてくる。
どうやらシエナが組織したルーマニア人組織は城壁の見張りの無力化に成功した様子であった。
 

如何に見張りのほとんどを無力化し得たにしろ、さすがに数千の軍勢が攻めよせる音を隠しきることはできない。
地鳴りにも似た低く這うようなどよめきと地響きが、城壁に立つ兵士に遅すぎる破局の到来を察知させた。
 

「て、敵襲!!」
「いったいどこの………まさか……オスマンがこんなところにまで?」
「いや、あれは………うそだろ?ワラキア公国軍!?」
 

敵の襲来を告げる鐘が打ち鳴らされ、仮眠していた傭兵たちがおっとり刀で飛び出してきた時、戦いはすでに始まっていた。
ヤーノシュがトランシルヴァニア公に就任してからというもの、ハンガリーの事実上の支配者の領地として安眠を貪ってきたツケは大きかった。
彼らは戦況を把握する暇さえ与えられずワラキアの猛攻にさらされることとなったのである。
 

 

 

「ワラキアが……ワラキア軍が攻めてきたぞーー!」
 

マルティン・ロペスに率いられた火縄銃の一隊が城門の兵士に向かって一斉射撃を浴びせる。
闇の中に轟く火縄銃の轟音はただでさえ士気の低い傭兵部隊の士気を一気にうち砕いた。
 

「冗談じゃねえ………こんなところで死ねるか!」
「おいっ!待て!逃げるな!」
 

傭兵部隊の壊乱が始まるともはやブラショフの守備をめぐる混乱は収拾のめどを失って破局への坂を転がり落ちるしかなかった。
見苦しく右往左往するブラショフ守備兵は、なお一部の勇気ある騎士によってかろうじて城門を維持していたが、それを打ち砕く止めの一撃が放たれる。
苦労して山道をけん引してきた砲架式の青銅砲であった。
天をつんざく大砲の轟音とともに城門は至近距離から放たれた巨大な砲弾の運動エネルギーによって見るも無惨な瓦礫に姿を変えられた。
もはやワラキア軍を阻む障害となるものは何一つ残されてはいなかった。
 

「突撃!」
 

戦機を読み取ったゲクランの雄たけびとともに、ワラキア公国軍歩兵がついにブラショフ市内へと突撃を開始した。
攻城が始まってわずか一時間を保つことなくブラショフの陥落が決定した瞬間であった。
 

 



 

 

「こんな………こんな馬鹿な話があるか………!」
 

バルドイは自分が信じていた何かに裏切られたような思いで一杯だった。
ワラキア程度の小勢がトランシルヴァニアに侵攻してくるなどということがあって良いものか。
 

まったく物の道理をわきまえぬ馬鹿ものめが…………!
 

トランシルヴァニアがワラキアに攻め込むことはあってもワラキアがトランシルヴァニアに攻め入ることはありえない。
なんとなればトランシルヴァニアはハンガリー王国摂政フニャディ・ヤーノシュの領地であり、ワラキアの貧弱な軍勢に数倍する大軍を用意することが可能だからだ。
嫌がらせに山賊まがいな略奪を働くことはできても、れきとした軍事侵攻を行うことなど自殺行為に他ならないはずであった。
その暴挙の意味するところは退くことのできない全面戦争をハンガリー王国を相手に仕掛けることに等しいのだ。
 

…………それがわからぬほどの愚か者だというのか、ヴラド・ドラクリヤ………!
 

しかし世界を支配するルールはバルドイの思うほどに不変なものではない。
ただのプレイヤーには変えることはできなくとも、ゲームを支配するマスターの手にかかるといくらでも都合よく変更されてしまうのがこの悪しき世界の現実なのであった。
 

「くそっ!家財を持っていく余裕はないか………全く忌々しいことだ…………」
 

喧噪が街の中心部にまで広がりつつあるのがもはや肌で感じられるほどだ。
女子供の悲鳴があがり、どさくさにまぎれて味方であったはずの傭兵までがブラショフの財産から火事場泥棒を働こうとしている。
すでにブラショフは断末魔の瀬戸際にあった。
逃げるのにもう一刻の猶予も許されない。財産は惜しいが全ては命あっての物種なのだから。
 

「…………ワルトー!ワルトーはいるか!?」
 

バルドイは長年に渡って仕えてきた初老の執事の名を呼んだ。
ルーマニア人ではあるが実直で有能であるために重宝して使っていた男であった。
 

「いいか、金を急いで地下室に隠すのだ。倉の商品はもはやどうしようもないが現金だけは守り抜け。援軍が来るまでさほどの時間はかからん。決して地下室の存在を
ワラキアの田舎者に気取られるなよ?」
 

そう言いつつもバルドイはこの老執事に全ての後事を託すつもりは毛頭ない。
金の運び込みが終わったら別口の奴隷に後始末をさせてしまうつもりでいた。なんといっても死人は口を割らないのだ。
 

「お言葉ながらそれは無理でございます、旦那さま」
 

今まで肯定の言葉以外を口にしたことのない執事の思いもかけぬ反抗にバルドイは思わず目を剥いた。
破産するか、命を失うかの瀬戸際だというのに、この期に及んで部下の我がままに付き合う余裕などない。
バルドイはただ了承の言葉だけを求めているのだ。
 

「貴様………何を言ってるかわかっているのか?」
 

長年の部下とはいえ人権思想などないこの時代のこと、使用人の命など所詮替えのきく消耗品にすぎない。
ワラキアの暴走に愚かにもくだらぬ夢を抱いているというのならこいつはもう用無しだ。
 

「誰かある!この者を……………!!!」
 

今度こそバルドイは絶句した。
玄関ホールに集まった屋敷内にいる数十人という使用人のほとんどが、憎々しげな眼差しを自分に送っていたからだった。
そこには普段主人の怒りを恐れてビクビクと怯えている卑屈な下僕たちの姿はなかった。
たった一夜、ひとときの暴挙が彼らを羊から狼へと変えていた。
 

「お気づきになりませんか?旦那さま、当屋敷の使用人はほぼ九割以上がルーマニア人でございます」
 

ルーマニア人は下層労働者に。
それがこの国を支配する階級の定めた伝統であった。
まさかそれが覆る日が来るなどということをバルドイは考えられずにいた。
 

「しゅ、しゅ、主人を裏切るというのか、使用人にすぎぬ貴様らが!」
 

「今日この日より我々がトランシルヴァニアの新たな主人となるのです………貴方ではなく」
 

使用人たちが包囲の輪を狭めてくるのをバルドイは悪夢を見る思いで震えながら頭を振った。
 

「考え直せ!このような無法をヤーノシュ様が許すと思うか!こんな馬鹿げたことは一時のことに過ぎないのだ!それが何故わからん!」
 

ヤーノシュがハンガリーの全軍をあげて奪還に動けばワラキアなど尻尾を巻いて逃げかえるしかないのだ。
そうなれば主人に反抗した奴隷には相応の報いが与えられることだろう。
死を望むほどに残酷で容赦のない罰が。
それをどうやって納得させようか、必死で脳を振り絞るバルドイを嘲笑うようにワルトーはひきつった甲高い声をあげた。
 

この日を待っていた。
いつ虫けらのように殺されるか。
いつ壊れた道具のように捨てられるか。
そんな日々に怯えつつ復讐の機会が訪れる日が来ることを神に祈ってきた。
貴様らサス人がいったい何様だ?
我々ルーマニア人がどれだけの忍従に耐え、どれだけの血と涙を流してきたことか。
今こそ貴様らはその代価を払う時が来たのだ!
 

ゴロリと無造作にバルドイの息子と妻の首がバルドイの足元に転がされる。
そしてバルドイは絶望とともにもはやこの狂気の悪夢から逃れる術が完全に失われたことを悟った。
 



「おお………………………神よ」
  

 



 

バルドイが家僕にその命を奪われているころ、ヴラドを敵とする盟友であったヴラディスラフもまたワラキアの侵攻に恐慌をきたしていた。
ヴラドに対抗するための貴重な御輿である彼は、ともに逃亡していた貴族たちに守られながら慌てて屋敷を出てブラショフの裏門を目指していた。
 

噂に聞く串刺しツェペシュのもとに降伏することなど思いもよらない。
どう考えても自分を生かしておく理由が見つからなかった。
逃げなければならない。
しかしどこへ、どうやって逃げればよいのか。
狂乱の巷を右往左往しながら、ただただワラキア兵から遠ざかるべくヴラディスラフは必死に足を動かしていた。
 

なぜこのようなことになったのか。
たかだか16歳のオスマンの人質であった小僧がヤーノシュ公を撃ち破り、しかも逆にトランシルヴァニアに侵攻してくるなど。
そんなことがあるはずないと思っていた。
ワラキアの未来はハンガリーとオスマンの勢力の均衡とキリスト教国の力の結集にあると信じていた。
ヴラディスラフの政治姿勢はこの時代の小国の君主としては決して的外れなものではない。
むしろ手堅く優秀な政治家の部類に入るであろう。
しかし既にルールが変わったのだ。
ヴラドという時を越えてやってきた異分子の明確な意志の介在によって。
 

「……………大公殿下」
 

「な、何かいい知恵でも浮かんだか?」
 

一縷の望みを託すようにヴラディスラフは父の代から仕えてきた古い家柄の侯爵に問いかける。
このままではシギショアラまで逃げるどころか裏門を突破することさえ難しいだろう。
傭兵か、ハンガリー兵か、誰でもいいから頼れる戦力が必要であった。
そんなものが簡単に手に入れば苦労はしないのはわかっていたが。
 

「貴方という土産さえあれば、きっと串刺し公も私を悪いようにはしますまい…………」
「な、何を馬鹿な………!?」
 

かの串刺し公がそんな寛容な人物であれば今頃卿たちはここにいないはずではないか。
彼の男が目指しているところは旧来の貴族権威の否定であり、大公の専制体制の確立なのだ。
裏切りの手土産を持って行ったところで褒美に首を刎ねられるのがオチだろう。
 

「我が一門はワラキアでも屈指の名門……あの男でも粗略に扱うはずがない………手柄さえ、手柄さえあれば………!」
 

精神の均衡を失った侯爵の狂気が伝染したように取り巻きであったはずの貴族たちが虚ろな目を向けてくるのがわかる。
誰もがあまりに絶望な状況に冷静さを失っているのだ。
それほどに串刺し公が彼らに与えた恐怖は深刻なものであった。
こんな見え透いた幻想に頼らなければならないほど、誰もが追い詰められていたのである。
 

「ふはははは…………まさかこのような結末を迎えようとは、な」
 

 どうやら自分も前大公のように味方に殺される運命を免れないようだ。
もしかしたらヴラドならばこのワラキアの悪しき宿唖を撃ち破ることができるのだろうか。
そうであるとするならば自分はいったい何のために戦ってきたことか……。
せめてワラキアの未来に幸あらんことを祈ってヴラディスラフは侯爵の向ける剣に向かって逍遥と首を垂れ、奇しくもバルドイと同じ言葉を口にした。
 

 



「おお……………神よ」
 


「彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「歴史」の人気作品

コメント

コメントを書く