アラフォー社畜のゴーレムマスター
第百二十八話 悪魔の誘惑
インガル伯爵家の公邸は、迷宮管理所の利権を一手に握るハインツの権勢を誇示するかのように贅を尽くしている。
見たことのない意匠の巨大な門。幾重にも弧を描く噴水と華麗な花園。どれをとっても王家以外には真似のできぬ見事なものだ。
新進気鋭の探索者として目をつけられたシェリーは、貴重な秘宝の貸与などの優遇と引き換えに、迷宮管理所のためにスパイのような活動を何度も依頼されていた。
なかでも探索者同士の強盗殺人事件に関しては、首謀者の暗殺まで引き受け実行したという経験がある。
それだけならシェリーもここまでハインツを嫌ったりはしなかっただろう。
シェリーがハインツを心底嫌う理由は、彼の魂の根源にある人に対する悪意だ。
人の苦しむ姿が見たい。
苦しんだ結果ハッピーエンドになっても別に構わないが、とりあえず苦しんで苦しんでもがいて欲しい。
絶望して引きこもるような人間ではつまらない。生きている限りあがいてあがいて諦めないような人間こそ鑑賞に値する。
そう言い切ったハインツの酷薄な冷笑は、今もシェリーの瞼に鮮烈に焼きついていた。
シェリーに松田を内偵することを命じたときもそうだった。
任務と松田に恩返しをしたいシェリーの葛藤を、実に面白そうに眺めていた。
手を切りたい嫌な男ではあるが、マリアナとともに迷宮で修行している今、無視できる相手でもない。
むしろ下手に敵対すれば、眉一つ動かさずに歯向かうおもちゃなら壊すと言いかねない男だ。
(――――それでもマツダは……)
松田ならそんな理不尽に敢然とノーを突きつけるだろう。
実際に軍務卿や五槌を相手に、有無を言わさず己の主張を押し通した。
シェリーにはできない。
普通の人間であれば、理不尽を嘆くだけで逆らうことなど思いもよらない。
己の意志を貫くだけの力が、松田にはある。
たった一人の個人で、国家すら敵対を躊躇させるだけの巨大な力が。
(私にもその力があれば……)
きっと胸を張って松田にもついていけた。
自分が悪いとわかっていても、疑いの目で松田に見られる自分が許せない。
ではどうしたらあんな疑いの目を向けられずに済むのか?
――――それは強さだ。
何者にも揺るがされぬ強さがあれば、松田だって裏切りを心配せずに済むはず。
だが現実はこうしてハインツに呼びつけられている。
その理想とのギャップに、シェリーは重いため息を吐いた。
「どうしたんだい? ご機嫌斜めじゃないか」
見るからにうれしそうにハインツが姿を現したのはそのときであった。
どうせさっきから見ていたくせに、とはシェリーは言わずに「迷宮の攻略で疲れているんです。要件を早く言ってください」と答えた。
下手に言葉を交わせば交わすほど、ハインツのペースに乗せられるのがわかっていたからだ。
「随分と成長したと聞いているよ。もう宝石級の実力があるらしいじゃないか」
「まだ王女殿下にも及びませんよ」
「王女殿下にも、とは言ってくれる。彼女は我が国で将軍に次ぐ実力で、間違いなく五本の指には入る強さがあるんだよ? いったい君の目指す強さはどのあたりなのだろうね?」
どこまでも嫌らしい男だ。
シェリーと松田の関係など、とうの昔に知っているはずなのに。
ここで反応すればハインツを喜ばせるだけだ、とシェリーは必死に怒鳴りたいのをこらえた。
「そんなことを言うために私を呼びつけたのですか?」
シェリーの反応を興味深そうに見守りながら、ハインツはパンパン、と手を叩いた。
「うん、素晴らしい。君の努力は敬意に値するよ。それが無駄だということを除けば」
「――――何が言いたい!」
伯爵に対する敬語も忘れて思わずシェリーは叫んだ。
それはシェリーがもっとも痛切に感じ、目を背けたい事実であった。
いつか松田に追いつこうと熱望しながら、心の奥ではそんな才能など自分にはないとわかっていた。
「――――強くなりたくはないかい?」
「な――――」
なりたいに決まっている!
強く、もっと強く、強さだけを追い求めてそれ以外の幸せを放り投げてきた。
いったいどれほどシェリーが強さを望んでいるか、ハインツには到底わかるまい。
しかしどうして今、そんな問いがなされるのか。
不可解であると同時に、シェリーの強さに対する妄執が、一筋の期待を覚えずにはいられなかった。
「実はその機能が不明だった古代の秘宝がひとつ解明されてね。といってもそれが全てかはわからないのだが」
迷宮で発見される秘宝は、中にはどんな効果があるのか全く不明なものが存在する。
鑑定でも解析できないそうした効果不明の秘宝を、失われた秘宝という。
往々にしてそうした秘宝こそが、信じられないような強力な秘宝であったりすることをシェリーは知っていた。
しかもフェイドルの迷宮の秘宝は、強制的に買い上げられてしまうために稀少性が高い。
「――――その効果はどのような?」
ハインツにいいように操られている。それを自覚しながらもシェリーはその先を聞かずにはいられなかった。
「基礎身体能力が劇的に向上する。倍ではきかないだろうね。三倍か四倍か。それからかなりの魔法抵抗力も付与されるようだ」
「三倍か四倍…………?」
戦士系のスキルには神速や縮地など、身体能力を上昇させるものがある。
基礎能力があがれば、当然スキルの効果も乗算で上昇していく。
「それがどうかしましたか?」
「つれないね。君は欲しくないのかい?」
「欲しいか欲しくないかと言われれば欲しいです。でもそんな伝説級に近い秘宝、私にいただけるはずがないでしょう?」
「――――ところがそうでもない」
ハインツの言葉にざわり、とシェリーの胸は騒いだ。
(本当にこの秘宝が手に入る?)
この秘宝の効果をもってすれば、確実にシェリーは松田と肩を並べるほどの力を手にすることができるだろう。
正直な本心をいえば、喉から手が出るほどに欲しい。
「なぜならこの秘宝には致命的なデメリットがあるからです」
「代償型、ということですか?」
魂食いのように、一定時間内に生物を殺害しないと、自分の魂が食われる、というような代償を求める秘宝も数は少ないが存在する。
しかしそれがなんだというのだ。
強さを得ることができれば。何者にも揺るがせられない強さがあれば、そんな代償などどうにでもできるのではないか。
シェリーの心の均衡が、自分でも自覚できぬままに秘宝へと吸い寄せられていた。
「代償型ともいえる。しかし必ずしも代償は必要ではない」
「意味がわかりません」
「実験では、二割の確率で代償は発生しない。しかし八割の確率でなんらかの代償が支払わされる。困ったことに、その代償が一定しない」
実験が何を意味するのか、多少なりとも迷宮管理所の裏に関わったシェリーには想像がついた。
表に出すことができない闇から闇へ処分される無法者たちを、体よく実験台に使ったのだろう。
「発狂するもの、声が出なくなるもの、目が見えなくなるもの、血が止まらなくなるもの、くしゃみが止まらなくなるなんて面白い奴もいたね。何日かして死んだけど」
「それはお気の毒に」
常時くしゃみが止まらくなれば、話すことも食事することも、睡眠をとることもできなくなるだろう。地味に見えて致命的な代償だった。
「まあ、安心したまえ。代償を払わなくとも三割程度の向上効果はある。それだけでも十分な効果だろう?」
「…………そうですね」
身体能力三割向上といえば、かなり高位の秘宝である。もしシェリーがお金で手に入れようとするなら、蓄えてきた財産を全て吐き出す覚悟が必要なレベルだ。
普通の人間なら大喜びで代償のないほうを選ぶ。
八割の確率で探索者を続けられないような代償を払うくらいなら、確実な代償なしを選択するのは当然だ。
(でもそれでは並みの宝石級探索者を超えることはできない)
――――二割、無視できぬ数字だ。
だが探索者としては踏み越えてはいけないリスクだということもわかる。
リスク管理のできない探索者は、決して長生きすることはできないからだ。
「私は君に期待している。是非役に立ててくれ」
そう言ってハインツは、うれしそうに一振りの剣を差し出した。
禍々しい紅の鞘。
しかし確かに感じられる隠しきれぬ強者の威。
ほとんど無意識のうちにシェリーはハインツから剣を受け取っていた。
(――――これさえあれば)
「要件はそれだけだ。明日も王女と迷宮に潜るのだろう? 早く帰って身体を休めたまえ」
実に楽しそうなハインツの表情を、シェリーは忌々しく思いながらも、剣を大事そうに胸に抱え込んで無言で頭を下げた。
もう剣を絶対に手放すつもりはなかった。子供が大事なおもちゃを守るように、シェリーはそそくさとハインツの公邸を後にした。
二階の窓から小走りに去っていくシェリーを見下ろしたハインツは、愉快そうに嗤った。
「さて、君はいつまで耐えられるだろうね? そうそう、伝えるのを忘れていたよ。その剣の銘は――独占というそうだ」
意図的にハインツは語らなかったが、代償を支払った実験台にはひとつの共通点があった。
それはその人間がもっとも心を寄せる者に対する過度な執着と独占欲である。
現在シェリーが執着している人物を知らぬハインツではない。
その結果何が起きるのかも、十分に承知している。
「楽しみだね。君の頑張りが報われることを祈っているよ?」
翌日、初めて迷宮内で独占――彼女はその銘を知っているわけではないが――を抜いたシェリーは歓喜した。
かつて感じたことのない身体の軽さ、そして全身を駆け巡る活力。
こんな力を望んでいた。
今の自分はかつての弱かった自分とは違う。
この迷宮のなかで、明らかに強者とよべる存在となったはずだ。
昨日の倍近い速度でケルベロスをせん滅していくシェリーに、マリアナが呆れたような声をあげた。
「いったい何があった? 昨日とは別人だぞ?」
「ちょっとよくない傾向ですね……」
「どういうことだ?」
ナージャは珍しく深刻そうに眉を顰めてシェリーを見つめていた。
その理由がわからず、マリアナは首をひねる。
「姫様のように生まれながらに強い人は稀です。ほとんどの人は弱者から始めて強さを得ます。ときに弱者が己の身に過ぎる強さを得ると、力に酔います」
「シェリーが弱者とは思えんが」
「彼女は自分を強者だなどと考えたことはありませんよ。絶対に」
虎は強くなるために努力はしないという。弱者は強さに飢えるが、強者は強さに飢えたりしない。
シェリーの強さに対する渇望は、彼女が己を弱者だと思えばこその反応である。
「……酔うとどうなる?」
「強さを試したくなります。戦う以前の心構えとして必要以上の危険は犯さない。これができなくなる」
そうして万能感に酔い、限界を見失って、本来なら格下を相手に命を落とす。
弱者としてマリアナの理不尽に振り回されるナージャだからこそわかることであった。
確かに今のシェリーは強い。
しかし本人が、まだその強さを計りかねているような危うさがある。
「…………どうすれば治る?」
「困ったことに、失敗して自分を顧みないことには自覚できないものなんです」
「ならば考えても仕方ないな」
「えええっ!」
マリアナのあまりに思い切りのよい結論に、思わずナージャは抗議の声をあげた。
「要するに失敗したところをフォローして帰還すればよいのだろう? その辺の判断は任せた!」
「それって私に投げっぱなしってことですよね?」
「そうともいう」
「ひどいっ!」
どうせ失敗しなくては止まらないのなら、あえて失敗させてしまったほうが覚悟できていい。
この決断ができてしまうあたりがマリアナの強者たる所以であり、強者であるということは、必ずしも武力が強いというだけのことではないのだ。
「――――スキル真空刃」
昨日までのシェリーなら、かろうじて皮膚を引き裂くだけだったはずのスキルで、容易く魔物たちの首が落ちていく。
この調子なら今日は三百二十階層を目指せるかもしれない。
前に来たときは松田の通ったあとで、冷え固まった溶岩や、巨大なクレーターしかなかったものだが、はたしてどんな魔物が出るものか。
「うん?」
どうやらフロアボスのお出ましらしい。
九つの首に巨大な竜の胴体。ヒュドラである。
強靭な生命力と毒のブレスを持つ恐るべき魔物で、よほどの深層でもないと出現しない。
昨日までのシェリーなら、万全の状態でも勝利することは難しい相手だった。
にもかかわらず、シェリーは一瞬の躊躇もなくヒュドラに向かって突っ込んだ。
「シェリー! 無謀だぞ!」
マリアナの防御力であればまだなんとか耐えられる。王家伝来の鎧の効果だけではなく、マリアナ自身もレベルアップして防御系のスキルも充実していた。
前衛のマリアナ、遊撃のシェリー、後衛のナージャというのが理想的なパーティーのフォーメーションであったはずだった。
「スキル貫通!」
ヒュドラの眉間をめがけてシェリーは刺突を放つ。
威力があがった今なら、たとえヒュドラでも恐れるに足りない。
そんなシェリーの思い上がりは、最悪の結果によって報われることになる。
ヒュドラが硬身を使用した。
往々にしてフロアボスはスキルを使用することがあるが、まさに今のヒュドラがそれであった。
シェリーもそれを知っていたはずなのに、力に酔った万能感がそれを忘れさせたのである。
あっけなく剣を弾かれた無防備なシェリーを、丸太のような尾が襲う。
避けようのない空中で、まともに尾の打撃を受けたシェリーは、襤褸くずのように吹き飛んだ。
身体能力が底上げされていなければ、この時点でシェリーは死んでいただろう。
「ナージャ! シェリーの治療を頼む!」
「は、はい!」
「こいっ! ここからは私が相手だ!」
治療と言われてもナージャは専門の回復職ではない。聖騎士としてある程度の応急措置の心得があるだけだ。
この世界の本格的な治癒魔法は神聖魔法しか使えない。
かろうじて聖騎士には体内活性のスキルがあるので、一時的に抵抗力を高めることができる。
「シェリーさん……」
ひどい有様であった。腕と足がおかしな方向を向いていて、おそらくは内臓もいくつか破裂している。
口からは鮮血が溢れていて、意識があるのが不思議なくらいだった。
「気を強く持ってくださいシェリーさん」
「…………私は弱いな」
ヒュドラ程度であっさり死の淵に立たされてしまうなんて、平凡な宝石級探索者と何も変わらない。
強くなったと思った。
しかしそれは幻想で、もともと弱かった女が少しばかりの力を得て舞い上がっているにすぎなかった。
「生きてさえいれば、また強くなれます」
そう言いながらもナージャは内心でそれは不可能だろうと思っていた。
これほどの怪我では回復しても後遺症が残るだろうし、長いリハビリが必要になるだろう。
長い間現場を離れれば勘が鈍る。リハビリをして勘を取り戻すころにはいったい何年経っていることか。
いや、そもそもナージャの所感では、シェリーが助かる可能性はそれほど高いものではない。
「生きてさえいれば、か」
ナージャの言葉が嘘であることをシェリーは知っていた。
もし助かったとしても、シェリーはあのヒュドラには勝てない。
シェリーの持つ力とはその程度だ。
「生きているだけでは強くなれない」
レベルアップもそろそろ頭打ちになる。
いくら迷宮で戦っても成長期を過ぎた探索者は、多少技が練れるだけでステータスはあがらない。
シェリーの求める強さは、もう永遠に近く失われてしまった。たったひとつの例外を除いて。
「――――接続」
もういい。
もう安全なんて求めない。
「封印解除権限認証」
こうなることもハインツの予想通りなのだろう。
業腹ではあるが、強くなるためには些細なことだ。
「全解放」
シェリーの手に握られたままの独占が、爆発したように光り輝き、腹部の奥から途轍もない活力があふれてくるのをシェリーは感じた。
見たことのない意匠の巨大な門。幾重にも弧を描く噴水と華麗な花園。どれをとっても王家以外には真似のできぬ見事なものだ。
新進気鋭の探索者として目をつけられたシェリーは、貴重な秘宝の貸与などの優遇と引き換えに、迷宮管理所のためにスパイのような活動を何度も依頼されていた。
なかでも探索者同士の強盗殺人事件に関しては、首謀者の暗殺まで引き受け実行したという経験がある。
それだけならシェリーもここまでハインツを嫌ったりはしなかっただろう。
シェリーがハインツを心底嫌う理由は、彼の魂の根源にある人に対する悪意だ。
人の苦しむ姿が見たい。
苦しんだ結果ハッピーエンドになっても別に構わないが、とりあえず苦しんで苦しんでもがいて欲しい。
絶望して引きこもるような人間ではつまらない。生きている限りあがいてあがいて諦めないような人間こそ鑑賞に値する。
そう言い切ったハインツの酷薄な冷笑は、今もシェリーの瞼に鮮烈に焼きついていた。
シェリーに松田を内偵することを命じたときもそうだった。
任務と松田に恩返しをしたいシェリーの葛藤を、実に面白そうに眺めていた。
手を切りたい嫌な男ではあるが、マリアナとともに迷宮で修行している今、無視できる相手でもない。
むしろ下手に敵対すれば、眉一つ動かさずに歯向かうおもちゃなら壊すと言いかねない男だ。
(――――それでもマツダは……)
松田ならそんな理不尽に敢然とノーを突きつけるだろう。
実際に軍務卿や五槌を相手に、有無を言わさず己の主張を押し通した。
シェリーにはできない。
普通の人間であれば、理不尽を嘆くだけで逆らうことなど思いもよらない。
己の意志を貫くだけの力が、松田にはある。
たった一人の個人で、国家すら敵対を躊躇させるだけの巨大な力が。
(私にもその力があれば……)
きっと胸を張って松田にもついていけた。
自分が悪いとわかっていても、疑いの目で松田に見られる自分が許せない。
ではどうしたらあんな疑いの目を向けられずに済むのか?
――――それは強さだ。
何者にも揺るがされぬ強さがあれば、松田だって裏切りを心配せずに済むはず。
だが現実はこうしてハインツに呼びつけられている。
その理想とのギャップに、シェリーは重いため息を吐いた。
「どうしたんだい? ご機嫌斜めじゃないか」
見るからにうれしそうにハインツが姿を現したのはそのときであった。
どうせさっきから見ていたくせに、とはシェリーは言わずに「迷宮の攻略で疲れているんです。要件を早く言ってください」と答えた。
下手に言葉を交わせば交わすほど、ハインツのペースに乗せられるのがわかっていたからだ。
「随分と成長したと聞いているよ。もう宝石級の実力があるらしいじゃないか」
「まだ王女殿下にも及びませんよ」
「王女殿下にも、とは言ってくれる。彼女は我が国で将軍に次ぐ実力で、間違いなく五本の指には入る強さがあるんだよ? いったい君の目指す強さはどのあたりなのだろうね?」
どこまでも嫌らしい男だ。
シェリーと松田の関係など、とうの昔に知っているはずなのに。
ここで反応すればハインツを喜ばせるだけだ、とシェリーは必死に怒鳴りたいのをこらえた。
「そんなことを言うために私を呼びつけたのですか?」
シェリーの反応を興味深そうに見守りながら、ハインツはパンパン、と手を叩いた。
「うん、素晴らしい。君の努力は敬意に値するよ。それが無駄だということを除けば」
「――――何が言いたい!」
伯爵に対する敬語も忘れて思わずシェリーは叫んだ。
それはシェリーがもっとも痛切に感じ、目を背けたい事実であった。
いつか松田に追いつこうと熱望しながら、心の奥ではそんな才能など自分にはないとわかっていた。
「――――強くなりたくはないかい?」
「な――――」
なりたいに決まっている!
強く、もっと強く、強さだけを追い求めてそれ以外の幸せを放り投げてきた。
いったいどれほどシェリーが強さを望んでいるか、ハインツには到底わかるまい。
しかしどうして今、そんな問いがなされるのか。
不可解であると同時に、シェリーの強さに対する妄執が、一筋の期待を覚えずにはいられなかった。
「実はその機能が不明だった古代の秘宝がひとつ解明されてね。といってもそれが全てかはわからないのだが」
迷宮で発見される秘宝は、中にはどんな効果があるのか全く不明なものが存在する。
鑑定でも解析できないそうした効果不明の秘宝を、失われた秘宝という。
往々にしてそうした秘宝こそが、信じられないような強力な秘宝であったりすることをシェリーは知っていた。
しかもフェイドルの迷宮の秘宝は、強制的に買い上げられてしまうために稀少性が高い。
「――――その効果はどのような?」
ハインツにいいように操られている。それを自覚しながらもシェリーはその先を聞かずにはいられなかった。
「基礎身体能力が劇的に向上する。倍ではきかないだろうね。三倍か四倍か。それからかなりの魔法抵抗力も付与されるようだ」
「三倍か四倍…………?」
戦士系のスキルには神速や縮地など、身体能力を上昇させるものがある。
基礎能力があがれば、当然スキルの効果も乗算で上昇していく。
「それがどうかしましたか?」
「つれないね。君は欲しくないのかい?」
「欲しいか欲しくないかと言われれば欲しいです。でもそんな伝説級に近い秘宝、私にいただけるはずがないでしょう?」
「――――ところがそうでもない」
ハインツの言葉にざわり、とシェリーの胸は騒いだ。
(本当にこの秘宝が手に入る?)
この秘宝の効果をもってすれば、確実にシェリーは松田と肩を並べるほどの力を手にすることができるだろう。
正直な本心をいえば、喉から手が出るほどに欲しい。
「なぜならこの秘宝には致命的なデメリットがあるからです」
「代償型、ということですか?」
魂食いのように、一定時間内に生物を殺害しないと、自分の魂が食われる、というような代償を求める秘宝も数は少ないが存在する。
しかしそれがなんだというのだ。
強さを得ることができれば。何者にも揺るがせられない強さがあれば、そんな代償などどうにでもできるのではないか。
シェリーの心の均衡が、自分でも自覚できぬままに秘宝へと吸い寄せられていた。
「代償型ともいえる。しかし必ずしも代償は必要ではない」
「意味がわかりません」
「実験では、二割の確率で代償は発生しない。しかし八割の確率でなんらかの代償が支払わされる。困ったことに、その代償が一定しない」
実験が何を意味するのか、多少なりとも迷宮管理所の裏に関わったシェリーには想像がついた。
表に出すことができない闇から闇へ処分される無法者たちを、体よく実験台に使ったのだろう。
「発狂するもの、声が出なくなるもの、目が見えなくなるもの、血が止まらなくなるもの、くしゃみが止まらなくなるなんて面白い奴もいたね。何日かして死んだけど」
「それはお気の毒に」
常時くしゃみが止まらくなれば、話すことも食事することも、睡眠をとることもできなくなるだろう。地味に見えて致命的な代償だった。
「まあ、安心したまえ。代償を払わなくとも三割程度の向上効果はある。それだけでも十分な効果だろう?」
「…………そうですね」
身体能力三割向上といえば、かなり高位の秘宝である。もしシェリーがお金で手に入れようとするなら、蓄えてきた財産を全て吐き出す覚悟が必要なレベルだ。
普通の人間なら大喜びで代償のないほうを選ぶ。
八割の確率で探索者を続けられないような代償を払うくらいなら、確実な代償なしを選択するのは当然だ。
(でもそれでは並みの宝石級探索者を超えることはできない)
――――二割、無視できぬ数字だ。
だが探索者としては踏み越えてはいけないリスクだということもわかる。
リスク管理のできない探索者は、決して長生きすることはできないからだ。
「私は君に期待している。是非役に立ててくれ」
そう言ってハインツは、うれしそうに一振りの剣を差し出した。
禍々しい紅の鞘。
しかし確かに感じられる隠しきれぬ強者の威。
ほとんど無意識のうちにシェリーはハインツから剣を受け取っていた。
(――――これさえあれば)
「要件はそれだけだ。明日も王女と迷宮に潜るのだろう? 早く帰って身体を休めたまえ」
実に楽しそうなハインツの表情を、シェリーは忌々しく思いながらも、剣を大事そうに胸に抱え込んで無言で頭を下げた。
もう剣を絶対に手放すつもりはなかった。子供が大事なおもちゃを守るように、シェリーはそそくさとハインツの公邸を後にした。
二階の窓から小走りに去っていくシェリーを見下ろしたハインツは、愉快そうに嗤った。
「さて、君はいつまで耐えられるだろうね? そうそう、伝えるのを忘れていたよ。その剣の銘は――独占というそうだ」
意図的にハインツは語らなかったが、代償を支払った実験台にはひとつの共通点があった。
それはその人間がもっとも心を寄せる者に対する過度な執着と独占欲である。
現在シェリーが執着している人物を知らぬハインツではない。
その結果何が起きるのかも、十分に承知している。
「楽しみだね。君の頑張りが報われることを祈っているよ?」
翌日、初めて迷宮内で独占――彼女はその銘を知っているわけではないが――を抜いたシェリーは歓喜した。
かつて感じたことのない身体の軽さ、そして全身を駆け巡る活力。
こんな力を望んでいた。
今の自分はかつての弱かった自分とは違う。
この迷宮のなかで、明らかに強者とよべる存在となったはずだ。
昨日の倍近い速度でケルベロスをせん滅していくシェリーに、マリアナが呆れたような声をあげた。
「いったい何があった? 昨日とは別人だぞ?」
「ちょっとよくない傾向ですね……」
「どういうことだ?」
ナージャは珍しく深刻そうに眉を顰めてシェリーを見つめていた。
その理由がわからず、マリアナは首をひねる。
「姫様のように生まれながらに強い人は稀です。ほとんどの人は弱者から始めて強さを得ます。ときに弱者が己の身に過ぎる強さを得ると、力に酔います」
「シェリーが弱者とは思えんが」
「彼女は自分を強者だなどと考えたことはありませんよ。絶対に」
虎は強くなるために努力はしないという。弱者は強さに飢えるが、強者は強さに飢えたりしない。
シェリーの強さに対する渇望は、彼女が己を弱者だと思えばこその反応である。
「……酔うとどうなる?」
「強さを試したくなります。戦う以前の心構えとして必要以上の危険は犯さない。これができなくなる」
そうして万能感に酔い、限界を見失って、本来なら格下を相手に命を落とす。
弱者としてマリアナの理不尽に振り回されるナージャだからこそわかることであった。
確かに今のシェリーは強い。
しかし本人が、まだその強さを計りかねているような危うさがある。
「…………どうすれば治る?」
「困ったことに、失敗して自分を顧みないことには自覚できないものなんです」
「ならば考えても仕方ないな」
「えええっ!」
マリアナのあまりに思い切りのよい結論に、思わずナージャは抗議の声をあげた。
「要するに失敗したところをフォローして帰還すればよいのだろう? その辺の判断は任せた!」
「それって私に投げっぱなしってことですよね?」
「そうともいう」
「ひどいっ!」
どうせ失敗しなくては止まらないのなら、あえて失敗させてしまったほうが覚悟できていい。
この決断ができてしまうあたりがマリアナの強者たる所以であり、強者であるということは、必ずしも武力が強いというだけのことではないのだ。
「――――スキル真空刃」
昨日までのシェリーなら、かろうじて皮膚を引き裂くだけだったはずのスキルで、容易く魔物たちの首が落ちていく。
この調子なら今日は三百二十階層を目指せるかもしれない。
前に来たときは松田の通ったあとで、冷え固まった溶岩や、巨大なクレーターしかなかったものだが、はたしてどんな魔物が出るものか。
「うん?」
どうやらフロアボスのお出ましらしい。
九つの首に巨大な竜の胴体。ヒュドラである。
強靭な生命力と毒のブレスを持つ恐るべき魔物で、よほどの深層でもないと出現しない。
昨日までのシェリーなら、万全の状態でも勝利することは難しい相手だった。
にもかかわらず、シェリーは一瞬の躊躇もなくヒュドラに向かって突っ込んだ。
「シェリー! 無謀だぞ!」
マリアナの防御力であればまだなんとか耐えられる。王家伝来の鎧の効果だけではなく、マリアナ自身もレベルアップして防御系のスキルも充実していた。
前衛のマリアナ、遊撃のシェリー、後衛のナージャというのが理想的なパーティーのフォーメーションであったはずだった。
「スキル貫通!」
ヒュドラの眉間をめがけてシェリーは刺突を放つ。
威力があがった今なら、たとえヒュドラでも恐れるに足りない。
そんなシェリーの思い上がりは、最悪の結果によって報われることになる。
ヒュドラが硬身を使用した。
往々にしてフロアボスはスキルを使用することがあるが、まさに今のヒュドラがそれであった。
シェリーもそれを知っていたはずなのに、力に酔った万能感がそれを忘れさせたのである。
あっけなく剣を弾かれた無防備なシェリーを、丸太のような尾が襲う。
避けようのない空中で、まともに尾の打撃を受けたシェリーは、襤褸くずのように吹き飛んだ。
身体能力が底上げされていなければ、この時点でシェリーは死んでいただろう。
「ナージャ! シェリーの治療を頼む!」
「は、はい!」
「こいっ! ここからは私が相手だ!」
治療と言われてもナージャは専門の回復職ではない。聖騎士としてある程度の応急措置の心得があるだけだ。
この世界の本格的な治癒魔法は神聖魔法しか使えない。
かろうじて聖騎士には体内活性のスキルがあるので、一時的に抵抗力を高めることができる。
「シェリーさん……」
ひどい有様であった。腕と足がおかしな方向を向いていて、おそらくは内臓もいくつか破裂している。
口からは鮮血が溢れていて、意識があるのが不思議なくらいだった。
「気を強く持ってくださいシェリーさん」
「…………私は弱いな」
ヒュドラ程度であっさり死の淵に立たされてしまうなんて、平凡な宝石級探索者と何も変わらない。
強くなったと思った。
しかしそれは幻想で、もともと弱かった女が少しばかりの力を得て舞い上がっているにすぎなかった。
「生きてさえいれば、また強くなれます」
そう言いながらもナージャは内心でそれは不可能だろうと思っていた。
これほどの怪我では回復しても後遺症が残るだろうし、長いリハビリが必要になるだろう。
長い間現場を離れれば勘が鈍る。リハビリをして勘を取り戻すころにはいったい何年経っていることか。
いや、そもそもナージャの所感では、シェリーが助かる可能性はそれほど高いものではない。
「生きてさえいれば、か」
ナージャの言葉が嘘であることをシェリーは知っていた。
もし助かったとしても、シェリーはあのヒュドラには勝てない。
シェリーの持つ力とはその程度だ。
「生きているだけでは強くなれない」
レベルアップもそろそろ頭打ちになる。
いくら迷宮で戦っても成長期を過ぎた探索者は、多少技が練れるだけでステータスはあがらない。
シェリーの求める強さは、もう永遠に近く失われてしまった。たったひとつの例外を除いて。
「――――接続」
もういい。
もう安全なんて求めない。
「封印解除権限認証」
こうなることもハインツの予想通りなのだろう。
業腹ではあるが、強くなるためには些細なことだ。
「全解放」
シェリーの手に握られたままの独占が、爆発したように光り輝き、腹部の奥から途轍もない活力があふれてくるのをシェリーは感じた。
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