守銭奴にも武士の魂 ~札束風呂の元祖、岡定俊の貫いた武士の一分~

高見 梁川

第二十三話 竹永兼次

 桃生郡中津山(現在の宮城県石巻市)に神取山という標高四十メートルほどの小さな山がある。かつてはこの地域を支配した葛西氏の城が築かれ、関白秀吉の奥州仕置きによって蒲生氏郷に攻め落とされた過去を持つ。
 今は往時の面影も少なく、大山祇を祀った神社がかろうじてその名残をとどめている。そんな神取山のふもとに、最近剣術の道場が開かれたことが中津山では密かに噂になっていた。
 中津山は後に仙台藩の直参足軽が家屋敷を与えられ、集団で北上川流域藩境を警備することになるが、今の時点ではごく鄙びた田舎町である。とはいえ、仙台藩と南部藩は先代の伊達政宗と南部利直の時分から折り合いが悪く、藩境にはいまだ少なからぬ兵が配置されていた。
 そんなところに物好きにも道場を開いた男がいる、しかも今では将軍家指南役として天下第一の剣として名高い柳生新陰流の免許皆伝を受けてきたという。
 たちまち道場には藩境警備の足軽たちが列をなして、道場主――竹永兼次を見定めようと訪れた。
 そこにいたのは、身の丈五尺にも届かぬ、およそ四十も半ばほどの僧侶のように柔和な男であった。もっともその表情とは裏腹に腕の冴えはすさまじく、たちまち道場には足軽たちが門人となって溢れた。
 柳生心眼流の特徴は剣のみならず体術や柔術を体系化して修行に取り入れているところにあり、非常に実践的なものであった。当然修行は過酷なものとなったが、師である兼次は試合であろうと稽古であろうと、その柔和な微笑を絶やすことはなかった。否、かつて一度だけ、後に一番弟子となり二代目柳生心眼流継承者となる吉川市郎右衛門と試合った際には、決して消え去ることのなかった兼次の笑顔が消えたという。
 師の笑顔を消し去るには、師に匹敵する腕を身につけるしかない、と弟子たちが発奮したのは当然の成り行きであった。
 そのためか吉川以後も優秀な剣士を輩出した柳生心眼流は仙台藩に確固とした地位を築き、仙北を中心に隆盛を極めることになる。
 剣士としては何の不足もない人生であろう。すでに活躍の場である戦場を失った江戸の世であればなおのことだ。
 ――――それでもそこに満足できないのが兼次という男であった。
 そもそも満足しているのなら、わざわざ黒脛巾組の闇仕事を請け負ったりしない。剣士は人を斬ってこそ剣士だという思いが兼次にはある。黒脛巾組の依頼を受けるのは殺人のための体のいい言い訳であった。
 飽くなき強さへの憧れは、兼次が心眼流を修めた後も首座流、神道流、戸田流、柳生新陰流と渡り歩いてきたことにもよく表れている。
 しかし最後の柳生新陰流を学んだことをきっかけに、兼次は懊悩していた。柔和な微笑は、この懊悩を人に知られまいとする兼次必死の強がりなのであった。
 剣一筋に生きてきた。だからこそ兼次は、いかに剣というものが人を効率的に殺すために培われた技術であることを知っている。もちろん主君への忠義や信仰への帰依などの規律はあったが、その本質は古来より変わったことはなかった。
 ところがその剣の概念が変わろうとしている。柳生但馬守宗矩という一人の怪物の手によって。
 宗矩は『兵法家伝書』のなかで殺人のための剣術は活人剣と名を変えて、人を生かすために振るわれ最終的には禅と同じ境地に至ると説いたのである。


『兵法の、仏法にかなひ、禅に通ずる事多し。 中に殊更着をきらひ、物ごとにとどまる事をきらふ。 尤も是親切の所也。とどまらぬ所を簡要とする也』


 所謂「剣禅一如」であった。さらに


『兵法ひとつに限るべからず、よろずの道此の如き也』


 すなわち、相手の先を読みあらゆる変化に対応する柳生新陰流の奥義『まろばし』の思想は、剣だけではなく治国に際しても有用であるとした。柳生新陰流をして『活人剣・治国平天下の剣』と呼ぶゆえんである。


 いかに平常心や精神性が勝負を左右するといっても、それまでの剣術とは相手に勝利するため、相手を倒すための技術であった。この点に関しては柳生石舟斎の師匠にあたる剣聖上泉信綱も、生涯不敗の不世出の剣士塚原卜伝ですら、剣が殺人術であることを否定しなかった。
 柳生但馬守宗矩が目指した思想性が、当時どれほど破格で常識外のものであったかわかるであろう。
 当然こうした綺麗ごとに関して反発する剣士は多く、兼次もまたその一人だった。あるまじき偽善であると思ったのだ。
 兼次自身、両手では利かない数の敵を斬ってきた。今さら天下の剣、活人剣と言われても納得できないのは当然である。
 所詮は将軍家紐付きの成り上がり者、政治の世界にうつつを抜かして剣の道を誤ったと兼次は信じた。
 そんな兼次に宗矩は免許を与えると同時に短く言葉を贈った。
「生きよ。武士はその死にこそ価値を見出すものだが、剣士には生き続けた先にしか見えぬものがある」
 その生きよという意味が、いまだ兼次には理解できずにいる。
 死すべきときに死なぬ武士は恥である。勝負に際して命を惜しむ剣士は剣士ではない。そうした生死の境を超えた場所に剣の理想というものはあるのだ、と兼次は信じていたし、そう教えられてきた。
 だからこそ宗矩の言葉が理解できず苦しんでいるのである。苦しまず間違っていると断言するには兼次は柳生新陰流の術理に惚れこみすぎていた。
 合理的にして繊細、正しく天下第一の剣と誉れ高いだけのことはある。さらに免許持ちには門外不出の初見殺し、影太刀もまた伝授されていた。そんな究極の殺人技まで伝承しておきながら、なぜ宗矩は生きよと言うのか。


 ――――実はひとつの答えから兼次は無意識に目を逸らし続けている。
 この戦のない太平の世で、昔ながらの殺人術などもう誰も必要としていないことを。
 戦人が、忍びが、キリシタンがこの世界から居場所を失っていくように、剣士もまたその居場所を失おうとしていた。宗矩はたとえ形を変えながらも、剣の道は未来へと存続していかなければならないと言っているのだった。
 同時に、変わることを受け入れられないものは滅びゆくしかないのだ、と。
 確かにこの太平の世で、人を斬ったことのない剣士がほとんどとなるまで、それほどの時間はかからないであろう。それにいったい何の価値があるのかと兼次は思う。
 剣とは人を斬るためにこそ存在するのだ。ごく短い期間をのぞき、生きるために敵を殺すのが当たり前の時代が続いていた。剣の術理もその歴史のなかで発展してきたのである。特に戦国期以降の発展には目覚ましいものがあった。
 しかしこのままでは、剣は斬りあいではなく、試合での見栄えと技巧を競うだけの踊りと化すことは目に見えている。
 はたしてそんなもののために自分は人生を懸けて強さを求めたのか?
 人生も残りを数えるような歳になった。今さら違う生き方などできるはずがないと思う。だが自分より年上のはずの宗矩は見事に変わって見せた。
 ――――わからない。自分が何をしたいのか、どうするべきなのか、いくら考えてもわからない。
 いつの間にかとっぷりと日が暮れ、誰もいなくなった道場で兼次は時間を忘れて瞑想していた。蛙の鳴く声がやけに耳について離れないのは、瞑想に没頭していた後遺症のようなものか。
「――――何か御用かな?」
 片目だけを開けて兼次は道場の隅に蹲る陰に向かって声をかけた。
「ふん、もう耄碌したのではないかと肝を冷やしたぞ」
 黒い影がぬらり、とまるで液体のように不安定に動いたとみるや、黒装束の男が立ち上がった。横山隼人である。
 もちろん兼次の懊悩の理由を隼人が知るはずもないが、様子がおかしいと察せられるほど兼次は没入していたらしい。剣士としてありえぬ不覚だ、と兼次は密かに己を恥じた。
「腕が鈍ってはいまいな?」
「試すか?」
 剣士にとって試すということは試合うということだ。そんなことをすれば隼人などひとたまりもないことは明白だった。そもそも兼次に勝てるくらいなら最初から隼人はここに来ていない。
「無用だ。口惜しいが我が腕では試しにならぬ」
「ほう…………」
 珍しく隼人が吐いた弱音に兼次はひどく興味をそそられた。この操り人形のように淡々と任務をこなすだけだった隼人とは思われぬ変化であった。
(何があった?)
 いや、考えてみればこの男がわざわざ道場まで足を運んだのだ。殺してほしい人間がいるのに決まっていた。それも隼人では勝てないと判断した者が。
「どうや相手はよほどの腕利きとみえる……」
「まあな、正直なところ戦人というのを侮っておったわ」
 戦人という隼人の言葉に兼次はわずかに眉を顰めた。宮本武蔵がそうであるように、剣士の大半は戦場で功名をあげることを目的として腕を磨いている。ところが彼らはほとんど戦場で活躍をすることができぬままに太平の世を迎えていた。 
 だからこそ――戦人なにするものぞ。我が腕は決して戦人に劣らぬという屈折した思いが兼次にもあるのだった。
「横山、お主負けたな?」
「おう、逃げたこともしくじったことも両手に余るが、負けたと思ったのは初めてのことよ」
 直接戦ったわけでもない。まだアダミを誘拐するという任をしくじったというわけでもない。それでも隼人の心にははっきりと敗北の二文字が刻まれていた。
「面白い」
 つい先ほどまでの懊悩が、嘘のように晴れていく。それがなぜか天啓のように兼次には感じられた。剣士の悩みは、剣士らしく戦いのなかでその答えを出すべきである、と。
「貴様にそう言わせるほどの強者とはいったい誰だ?」
 たちまちまだ見ぬ敵に恋情にも似た熱い思いを募らせる兼次に、隼人はほんの少し口の端を吊り上げて嗤った。やはり隼人の見込んだ通り、兼次は戦いの中でこそ生きる意味を見出すことのできる剣の鬼であった。この男であれば、あの恐るべき戦人に対抗すること能うであろう。
「蒲生家中、岡越後守定俊。貴様に斬ってもらいたいのはその男だ――――」
「岡……定俊」
 兼次の広い肩がぶるりと震えた。岡定俊といえば、伊達に仕える者にとっては悪魔にも等しい嫌な名であった。同時に、敵に回せば恐ろしい男であるという認識がある。
「よいのか?」
「構わぬ。どうせ我らが斬らなければ伊賀組か蒲生家の誰かが斬るだけのこと」
 隼人にとって、定俊を誰が斬ろうと知ったことではないが、定俊を斬った者こそがアダミを手にするであろうという確信がある。それに伊賀組が動いたことが明らかになれば、幕府に忖度する蒲生家が定俊をただでは置かないだろう。
「その仕事――――引き受けた」
 もうそこにいつもの柔和な微笑を浮かべている道場主の姿はなかった。強者と相まみえることに歓喜する剣の鬼が、獰猛な薄笑いを浮かべているのだった。 

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