美味の囚人

観楽

席にお座りください。



 雪原のように白いテーブルクロスの上に銀製のナイフとフォークが整然と並べられている。席に腰かけた私は羽のように柔らかいナプキンを手に取り、自分の膝の上にかけた。

 まず運ばれてきたのは透き通るようなフリュートのシャンパングラスに注がれたロゼ・シャンパンである。モエやドン・ペリニヨンと比べると知られていないが、ローラン・ペリエ・ロゼほどの強い辛口でないと私の舌は物足りなく思えてしまうのだ。母の腕にも似た厳しくも柔らかい酸味と果実のような爽やかな味わいはマセラシオン方式によって手間をかけたからこそ生まれる奇跡である。黒葡萄の果皮をワインに呑ませることで得られることのできる淡い桃色の中で湧き立つ泡が弾ける心地よい音がグラスを叩き、『美しく青きドナウ』を生み出したヨハン・シュトラウス二世がロシアのサンクトペテルブルク近郊にあるパブロフスクで作曲した『シャンパン・ポルカ』の軽やかで陽気なリズムを思い出させる。涼やかさを湛えたグラスを手に持って鼻を寄せれば恋のように甘やかな香りが鼻孔を擽り、愛らしいドレスを纏ったうら若き令嬢の手にそっと口づけをするようにグラスの縁に唇を乗せて流し込むと、清涼な辛口が頭の中で弾けて火花を散らし、私の強欲な臓腑の目を覚まさせた。腹の奥底から美味を求める獣の唸り声がホルンのような重低音を響かせている。私は闘牛士のようにその食欲の獣を抑えつけた。欲望を好き放題に暴れさせるのは紳士として歓迎すべきことではない。

 続いて持ち込まれたのはひと口ほどの大きさの、小さなパンナコッタである。黄色みがかった玉座の上にはそっと緑色の王冠を被った香草が優雅に腰かけていた。唇に触れさせると、まるで自ら私の口の中に入り込むかのようにクリームの風味と青々としたハーブの香りが泉のように流れ込んでくる。蕩けるような甘味の中に混ざりこむのはイタリアチーズの王様と名高いパルミジャーノ・レッジャーノの塩気であった。なるほど、玉座こそが王であったか。私は内心で舌を巻いた。「偉大なシェフにとってアミューズブーシュは自分のアイデアを小さな一口で表現できる格好の手段なのだ」という言葉はジャン=ジョルジュ・ヴォンゲリヒテンの言葉であるが、まさしくその通りと言えよう。料理とは音楽や絵画と並ぶ高尚な芸術作品であり、シェフは言わば芸術家である。皿に載せられたアミューズブーシュの姿は、そのままシェフの美意識そのものなのだ。手間を惜しんでオリーブを何個か乗せただけの皿を出したり、黒いタブナードを一盛りだけ出したりするようなシェフは、いつまでも二流の域を出ることはない。

 続いて皿に乗って現れたのはいくつかのカナッペであった。薄く切られたフランスパンの長椅子には細かくすり下ろされたホースラディッシュの雪が積もったローストビーフが腰を据えて鎮座している。その隣にはオリーブの輪が親しげに肩を寄せており、ローストビーフはほんのりと顔を鮮やかに赤く染め上げていた。歯を立てるとシルクのように薄く切られた肉の中から肉汁が溢れてフランスパンの生地に染みこんでいく。かすかに滲むオリーブの苦みが肉汁の甘さを強く引き立てていた。料理の冒涜とも言うべきイギリス料理において、ローストビーフは唯一まともなものである。彼らは一週間のうちの一日だけ、茶葉をこよなく愛する狂人ではなく人間として至上の幸福を噛み締めたのであろう。

 続くスープはコンソメの冷製スープのようである。コンソメは常に乙女の如く純真であり、濁ることが許されない。それはさながら天井から舞い降りる天使のようだ。風味豊かでありながら満腹感を感じさせないコンソメはスープとしては最良であろう。しかし、コンソメは湯気の立つ熱いスープを喉に注ぎ込むのが良い。それが少し残念だ。私はそう思いながらスープを覗き込んで驚愕した。その夕焼けのように澄んだ琥珀色の底には清純な乳白色の雲が沈んでいるのである。パリ・ソワールか! ヴィシソワーズと冷やされてゼラチン質になったコンソメスープを交互に注ぐことで出来上がる冷製スープだ。器の底に広がるのはまさしく名前通りパリの夕暮れそのものである。私はスプーンですくい取り、思わず目を閉じて音を立てず流し込んだ。これは、コンソメ・ドゥ・ボライユだな。鶏肉の淡白でありながら愛情深い風味がスープの形をとって私を抱きしめている。味蕾を突き刺すように濃厚なその味はしかし、その後に続くポタージュのジャガイモの優しさが抱きしめるように包みこんだ。かすかに香るポロネギの上品な味わいが、さながら白い日傘をさした淑やかな令嬢を思わせる。私は彼女の手を取りワルツを踊るように、テーブルの上に現れたパリの夕空を飲み干した。

 ポワソン。スズキのムニエルである。ムニエルという言葉は「製粉業者のおかみ風」という意味があるが、言葉通りに美しい白身の柔肌に小麦粉の白粉で整えられている。塩胡椒の芳香と香ばしいバターに、私は思わず唾を呑みこんだ。ナイフの刃を立てると、少しだけ固くなった外観の奥にすっと沈み込むように銀色が受け止められていく。彼の肌を固くしているのは程よく焦げ目のついた小麦粉によるものであるが、それはまるで乙女が緊張に身を引き締めているいじらしさをすら覚える。口に入れて歯で噛み締めると、歯ごたえを感じる最奥に潜むのは溶けるように崩れ落ちていく白身であった。豊かなバターの香りはそのあっさりとした淡白な風味を邪魔することなく引き立て、さながら口の中でワルツを踊っているかのようだった。かすかに漂う酸味はレモンの果汁であろうか。それもまた、穏やかなピアノの中に紛れ込む鋭い音感のごとく自然に混じり合っている。スズキは上品な味わいが魅力的な魚である。味付けを濃くしていないのは、その魅力を最大限まで引き出すためであろう。料理人の多くが一流にまで至れないのは、彼らが食材そのものの味を信頼できず、雑多な味付けに頼り切った挙句に食材を活かさず殺してしまうからである。

 ポワソンの次はソルベ。運ばれてきたのは透き通った器に慎ましく入れられたトマトのソルベであった。頭の上にはミントの葉の髪飾りを添えて、恥ずかしげに顔を赤く染めている。スプーンですくい取り、口にそっと入れると涼やかな冷たさとトマトの爽やかな酸味が口の中に広がり、残っていたムニエルの風味を森の中を流れる小川のように洗い流していった。日本ではソルベとシャーベットが同じものとされているが、私から言わせてみれば言語道断である。ただ英語読みというわけではなく、牛乳や砂糖、クリームなどで甘く味付けをしたのがシャーベットだ。対してソルベは、野菜や果物を凍らせただけのものである。何の味もつけられていないからこそ、そこには食材本来の甘みが濃縮されており、氷の冷たさがより強く感じられる。しかし、何と言ってもソルベの魅力は他の味を邪魔しないことだろう。爽やかな甘みは後を引かずに冷たさの余韻だけ残して我が喉奥へと飛び去って、跡にはひとつとして残さない。その慎ましい純粋な気高さはさながら泉に佇む白鳥である。

 続くヴィアンド。待ちに待ったメインディッシュである。運ばれてきたのは厚みのある牛フィレのステーキ肉だ。ミディアムレアの絶妙な神の火に晒されて刻まれた網目状の焼き印の上には、恥じることのないと言わんばかりに堂々とした佇まいのフォアグラがずっしりと重い腰を据えていた。薄く刻まれたトリュフが星屑のように散りばめられ、ひとつひとつでも圧倒的な存在感のあるそれらを、格子状にかけられたバルサミコソースがひとつの料理として完成させている。それはさながら名将の集う円卓を統括するアーサー王のよう。ごくりと息を呑み、ナイフをそっとフォアグラの滑らかな皮膚に添わせると、まるで吸い込まれていくようにナイフの刃先がフォアグラの中へと沈み込んでいく。露わとなる断面に、私は思わず見惚れた。時の権力者であるカエサルをして魅了せしめた絶世の美女、クレオパトラの肌にも劣らぬ美しく滑らかな肌。それは美味が髄まで隙間なく詰められていることの、何よりの証明であった。しかし、フォアグラの美しさの影には、人間のエゴに満ちた罪がある。ガヴァ―ジュと呼ばれる伝統的なフォアグラの作り方はユダヤの悲劇をも思わせる凄惨な虐殺だ。ガチョウの臓腑に強制的に餌を流し込み、体内に巨大な脂肪肝を生み出す。それこそがフォアグラなのである。死者の血を吸った桜の花が薄桃色の蠱惑的な美しさを持つのと同じように、フォアグラもまた、人間の大罪をその身に呑み込むことで美味となる。エデンの園に美食はなく、無数の屍の積み重なった命の階段の頂上にこそ至高の美味は生まれるのだ。フォアグラの下に敷かれている牛フィレのステーキは何の抵抗もなくナイフをその身に受け入れる。よく火の通った外皮とは裏腹に艶やかな赤身の断面にはうっすらとワインレッドの美酒が滲み出て、ナイフを艶めかしく濡らしていく。小さく切り分けて、フォークの先に突き刺したそれらを、高揚感に襲われながら自らの口へと運び込む。歯を噛み締めたその瞬間、あまりの甘美に私の意識が美食という檻の中に囚われた。私を閉じ込める足枷は、はるか昔から人々を捕らえては二度と離さない人類の永劫の夢である。噛み締めた歯の隙間から肉汁がとめどなく溢れ出し、肉はまるで口の中で溶けてなくなってしまうかのようだった。いなくなっていくその姿を優しく抱きしめるのは、あまりにも濃厚なフォアグラの甘みであった。甘さと酸っぱさの入り交じるバルサミコソースが口の中でさながら鎖のようにその存在を繋ぎ止めて引き締めている。名残惜しみながらもそれらを食道の奥へと嚥下すると、後に残るのはトリュフの芳醇な残り香である。それは、木漏れ日の差す森の中で目を閉じて一体となっているかのような、偉大な大自然の香りだ。ガストロノミーの祖であるサヴァランの『美味礼賛』において、トリュフは『台所のダイヤモンド』と称されている。濃厚な肉の旨味をその類稀なる匂い立つ輝きによって照らし出すその姿は、まるで花嫁の薬指に燦然と輝く慎ましい指輪のよう。牛フィレのステーキの上にフォアグラ、そしてトリュフの添えられたそれは、美食家でもあったイタリアの作曲家であるロッシーニの芸術作品である。『ウィリアム・テル序曲』のように様々な音色が口の中で紡がれて、胃の中に荘厳な音楽が鳴り響いている。

 続いて運ばれてきたのはリヨン風のサラダである。鮮やかな葉野菜の緑色の中に花が咲くように鮮やかなトマトとクルトンが散りばめられている。葉野菜のダブルベッドの上にはピンク色のベーコンと真っ白なポーチドエッグがまるで蜜月を迎えた後の夫婦が寄り添うように寝そべっていた。その姿を見ていると、幼い頃の記憶がよみがえる。軽やかな鈴の鳴り響くクリスマスの前夜。父から手渡された真っ白な箱のプレゼント。赤いリボンの紐をわくわくしながらほどいているあの頃のように、ポーチドエッグをフォークでそっと裂くと、弾けるように黄身の運河が溢れ出してサラダの上へと降り注いだ。黄身がよく絡められた葉野菜を掬いとり、そのまま口に運ぶと、黄身の濃厚な甘みが野菜の仄かな苦みをその腕で温かく包み込んで、母の胸の中のような優しさに満ちた味が口の中に思い出とともに広がっていく。懐かしさに浸りながら柔らかさを歯で味わっていると、音を立てるクルトンとベーコンの食感がアクセントとなって、まるで口の中に人生そのものが再現されているかのようだ。母の胸の中で感じていた優しさと、父の腕に抱かれて感じた厳しさを味わいながら、私はそのサラダを人生を味わいように咀嚼していく。

 フランス料理は世界三大料理のひとつとして知られている。その歴史の誇るフレンチガストロノミーはどこから始まったのか。それは美女の肢体を思わせる滑らかな白肌と、女神の接吻のように濃厚な味わいを秘めている。人はそれをチーズと呼んだ。運ばれてきたその美しい姿を見て、私は内心で歓声を上げた。チーズと聞くと、やはり『チーズの女王』たるカマンベールチーズの隣りに立つ者はない。ウィーン会議において『チーズの王』と定められたのは上品な味わいを持つブリー・ド・モーであるが、私はより濃厚な風味を誇るカマンベールチーズを愛していた。ブリー・ド・モーの上品でありながら濃厚な味わいはまさしく至高と呼ぶにふさわしいのだが、カマンベールの周りを引き立てる淑女らしい慎ましさが私は好きなのだ。それはまさに誰よりも気高く、誰よりも美しく、愛した国によって蔑まれながらも最期まで国を愛し続けて断頭台の露と消えたマリー・アントワネットを思わせる。その陶器のような白肌に舌を這わせ、口の中で優雅なワルツを踊るその姿はまさに女王と呼ぶにふさわしい気品に満ちていた。会議が議題を放り出して踊るのも、やむを得ない話なのかもしれない。

 アントルメはフランス料理のコースにおいてメインディッシュであるポワソンやヴィアンドに劣らないほど重要だとされている。一流の場所には必ずと言っていいほど一流のパティシエがいるものだ。それは一流という誇りにかけても決して手を抜いてはならない。運ばれてきたのはタルト・タタン。今や世界中で愛されているその菓子はホテル『タタン』から始まった。アップルパイを作ろうとしていたステファニーは、リンゴを焼きすぎて焦がしてしまう。慌てた彼女はその上にタルト生地を乗せて、そのままオーブンへと入れた。それが始まりである。タルト・タタンは失敗から生まれた奇跡だ。キャラメリゼされたリンゴは砂糖の焦げた香ばしい芳香を放っていて、私は思わず唾を呑む。口に運ぶと、リンゴの酸味と砂糖の甘み、そして焦げのかすかな苦みが交じり合い、胃の中で美しいハーモニーを奏でていた。それとともにタルト生地が奏でる心地よい食感の音色が、バターの風味に乗って私の心を満たしていく。もしも彼女がアップルパイを作るのに成功していたとしたら、この味がこの世に現れることはなかったのだろうと思えば、運命の女神というものは大層舌が肥えているに違いない。

 世の中には手を加えれば加えるほどに良くなっていくと考えている人が多いだろう。しかし、時として、人が手を下さないからこそ愛されているものもある。フランス人は調理された果実よりも、木に育っている果実をそのままもぎ取り、皮を剥いて食べるのが好きだった。それは自然の本質である。自然そのものが失われているからこそ、果実の与えてくれる大自然の施した恵みには感謝してもしきれない。フランスで愛されている果実にミラベルというものがある。丸い黄金色の、小さな果実だ。一見すれば派手好きの傲慢な果実にも見えるだろう。しかし、それはまるで宝石であった。果肉から溢れ出る黄金の泉は甘美そのもので、爽やかな清々しい食感がある。それは朝の到来を告げるヒバリのように、この至福に満ちた時間にも終わりが近いことを教えてくれる。

 幕を下ろすのは、桃色のマカロンと、デミタスカップに満たされたエスプレッソだ。以前、日本のカフェテリアで、コーヒー好きを自称する男が恋人であろう女性に講釈を語りながらエスプレッソをそのまま何も入れずに飲んでいるのを見て思わず目を瞠ったことがある。イタリアやフランスにおいて、エスプレッソをそんな飲み方で飲む人間なんて見たことがない。私はスプーンで二杯ほど、砂糖を掬ってカップに入れる。芳醇な香りを放つ黒い液体に、白い砂糖が沈み込んでいく。かき混ぜるのもそこそこに、鼻を寄せてその香りを味わった後、ひと息に喉の奥へと流し込んだ。砂糖の甘みが口の中に広がって、苦みが尾を引くように追いかけてくる。その苦みを慰めるように、カップの隣に座るマカロンを齧った。口の中で欠片に少し舌を這わせて、吸い込むと甘いシロップが滲み出てくる。それはまさに幸福の結晶であった。エスプレッソを飲み終わった後のカップの底には、茶色く染め上げられた砂糖が残されていた。それをスプーンで掬って口に運ぶ。舌を擽る砂糖の心地よい食感と、仄かなエスプレッソの苦みが染みこんだ甘みが花が咲くように胃の中へと落ちていった。それがこの美味を巡る、長いようで短い旅の行き着いた終着である。

 終わりは新たな始まりだという。皿が下げられれば、また新たな美味が運ばれてくる。それはまるで終わりのない夢のよう。私は美食という何よりも強固な檻に囚われた、ひとりの哀れな囚人である。舌に繋がれた枷ほどに、この世に愛おしいものはない。

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