春琴

観楽

鳥籠の中



 庭園に狆の鳴く声が響いた。それは切なげな色を孕んだ悲痛な声である。喧しく騒ぎ立てる彼に、煩いとでも咎めるように、頭上の鸚鵡が一声鋭く鳴いた。しかし、猶も喚き立てる狆に、世話役の男衆が怒声を上げて叱り飛ばしている。パシン、と風を切るような鞭のしなる音に怯えたように狆が鳴き声を収めた。彼の首に恐怖という名の首輪が巻かれ、視界に映らぬ紐がその首を締め付ける。もしも、その戒めを解き放つことが出来たとしても、狆の短い足ではこの妓館を取り囲む高い塀を越えることは到底無理であろう。彼は永久にこの固く閉ざされた鳥籠から出ることは許されない。
 春翠は鴇母から与えられた部屋の中で、必死に逃げ出そうとしている狆のか細い声を聞いていた。自由を求める物悲しい叫びは彼女の胸を締め付ける。部屋に焚かれた高級な香炉から放たれる穏やかな香木の香りでも、その息苦しい痛みを癒すことは出来ない。彼女の閉じられた瞼から伸びる長い睫毛は痛みを堪えるように小刻みに震え、下女に整えられた眉は悲しげに顰められていた。
 私もあの狆と同じ。自由を奪う見えない首輪が春翠の喉を締め付け、繋がれた紐の先は妓館の支柱に固く結ばれている。いざ逃げようとすれば紐が彼女を縛り付け、鴇母は躾にと厳しく折檻するであろう。この鉄格子のない妓館という名の牢獄こそが春翠にとっての世界の全てだった。
 「春翠、時間だ。早く来なさい」
 「はい、鴇母様」
 宴の始まる時間を迎え、呼びに来た鴇母の声に、春翠は小さな声で答えた。

 今宵の客は若い青年達である。一握りの傑物しか受かることの出来ない狭き門である科挙の試験を終え、見事に合格を果たしたらしい。いずれは国政をその若き背中に背負っていくことになるであろう彼等の声は未来への希望に満ち満ちていた。将来、金払いが良くなるであろう彼等を今の内に顧客として捕らえておきたい鴇母もまた、平時以上に気合を入れて媚びた世辞を述べているようだ。高級な酒の芳醇な香りや豪勢な料理の食欲を誘う香りが春翠の座している妓女達の末端の席にまで届いてくる。彼女等が奏でる笛や月琴の音色が互いに絡み合い、それらは流麗な曲調を象って広間にいる人々の鼓膜を揺らして、香りの隣へと添えられた。ふと、酒を飲んで騒いでいた男の一人が言う。
 「そういえば、風の噂に聞いた話ではこの妓館には建康一と名高い月琴の奏者がいるらしいではないか。よもや、今奏でているこの女達がそうであるのではあるまいな?」
 それは何処か挑発的な響きを孕んだ声色であった。その根底には妓女を見下しているような思いがあるのだろう。身体を売る仕事をしている妓女を自らよりも格下の存在として侮ったような態度を取る男はそう少なくない。
 「ええ、如何にもこの者達ではありません」
 「そうか、ならば勿体振らずにその噂に聞く月琴の音色を果たして本当に噂に違わぬかどうか、我等に聴かせてくれまいか」
 その言葉を聞いた周りの男達もやいのやいのと騒ぎ立て、美麗な曲に不協和音を織り交ぜていく。しかし、そこはやり手の鴇母である。男達がそう言い出してくるのを予期していたかのように手を叩き、下女を呼んだ。
 「これ、春翠に月琴を手渡してやりなさい。春翠、話は聞いていただろう」
 「はい」
 答え、改めて背筋を伸ばす春翠に、傍らに侍る物静かな下女が月琴を丁寧に手渡した。そんな彼女達の様子に、幾つもの怪訝そうな視線が突き刺さる。
 「何故、あの妓女は先刻からずっと目を閉じたままなのだ?」
 「あれは盲目で御座いまして」
 「ほう、めくらであるか。そんな女が月琴の名手とは。やはり、噂は噂であったか」
 鴇母と男が交わす言葉を、春翠の耳が拾い上げる。男の声に侮蔑の色が混ざっていた。周りの男達もまた、彼の言葉に追従し、春翠を侮るような発言や嘲笑を零している。しかし、そんな無粋な雑音は彼女が月琴の絃を弾いた瞬間に、薄らみ、消えていった。
 今まで妓女達が奏でていた美麗な曲がたった一つの月琴の下に束ねられる。軽やかな笛の音が、透き通るような楊琴の音が、まるで付き従うように春翠の月琴に導かれ、宴会場を包み込んだ。白魚のように細い指が龍のように暴れ回る絃を抑え込み、獣を躾けるように弾くその様たるや、まるで技を究めた馴獣師のようだ。細糸のように虚空に散らばる無数の音色が彼女の指で一所に纏められ、一匹の巨大な神龍と化して人々の耳を駆け巡る。力強くとも優しい、揺れる湖畔の水面を静かに駆けるような幽玄な雅曲が客達の鼓膜をたおやかに撫で上げ、骨抜きにした。先刻まで騒ぎ立てていた男達は幽かな音すらも立てることなく、惚けたように響く音に耳を傾けている。
 最後の絃を春翠が叩き、曲が終焉を迎えても、暫し誰も声を上げなかった。まるで透き通る白龍のような曲の残滓が未だ彼等の頭の中を飛び回っていたからである。胸中に刻み込まれた余韻の与える寝台のような心地好さに、彼等は浸っていたかったのだ。しかし、その長いようで短い静寂の帳は静かな水面に戯れに投げ込まれた一石の起こした波紋によって脆くも崩れ去る。男の一人が手を叩いたのだ。あの挑発めいた言動の男である。
 「いやはや、確かに良い腕だ。妓女にしておくには勿体無いほどだな」
 その態度に、その言葉に、会場にいた妓女達や客達は絶句する。それはあまりにも傲慢で礼を失した態度であった。言葉は元より、演奏の後に手を叩くのは美しい音色の余韻を壊す無粋な行為として嫌われている。高貴な人々は決して拍手はしない。その時点で、男の程度が如何ほどのものか知れる。しかし、自らで自らの位置付けを下げたことに男は気付かず、そのまま言葉を続けた。
 「おい、部屋を用意しろ。今宵はあの妓女に、俺の相手をしてもらおう」
 「わかりました。春翠、聞いての通りだ。この方のお相手をしなさい」
 「……はい」
 流石というべきか、鴇母はすぐさま判断を下し、そつ無く下女に部屋の用意をさせた。春翠は盲目であることから妓女の中でも下位である。男がもしも今後の利益になりそうな人物だったならば、別の妓女を薦めていただろうが、彼女を宛がったということは男には大した価値がないと判断したようだ。春翠は立ち上がると、一礼を残して宴会場を後にする。数瞬の後、再び甦ったざわめきが彼女の背中を追いかけた。

 客用の部屋は妓女の部屋よりも遥かに広い。その部屋の中央に一枚だけ敷かれた柔らかな蒲団の上に座している春翠の身体に、男は舐めるような視線を這わせた。薄い夜着をその身に纏っただけの肢体は細く儚げで、肌は陶器のように滑らかだ。微かに膨らみを帯びた胸が女であることを控えめに主張している。春翠は齢十四、未だ幼さの残る少女の顔に幽かに薫る女の色香は男の醜い欲望を擽り、逆撫でした。彼がほんの少し力を込めるだけで彼女は導かれるように蒲団へとその身体を横たえる。
 春翠は自分の上に圧し掛かる男の欲情に満ちた荒い息遣いを肌に感じて身を震わせた。身体を撫で回す無骨な腕は乱暴で、大蜘蛛が這っているかのようだ。彼女はその手から逃れるように、心を遠く離れた所へと隠した。男には決して手の届かないほど遠く彼方に。
 「ふん、感謝しろよ、女。この俺が抱いてやっているのだからな。お前のようなめくらを抱いてくれる男など他にいないだろう」
 吐息が互いに触れ合うほどに近くから響く男の声には盲目の妓女に向けた侮蔑と優秀な自分を誇る自信が込められていた。科挙を合格したことで、増長した結果であろう。しかし、彼が宴会場で仕出かしたことから予想するに、彼は今日を境に落ちぶれていくに違いない。人を見る目を養ってきた鴇母の予想は今まで外れたことがないのだ。もうこの男がこの妓館を訪れることはない。いい気味だ。春翠は見えない眼で男を冷たく見据え、胸中で冷笑を浮かべた。
 春翠が夜の客を取り始めたのは十三歳の頃からである。今まで相手をしてきた男達の中には彼のような男など何人もいた。盲妹でありながら優れた月琴の奏者である春翠が気に入らず、彼女を屈服させようと乱暴に扱う彼等の行為には優しさなど一露すらもない。まるで物のように扱われ、蔑まれ、時には殴られたり蹴られたりしながら過ぎていく時の中で、何時しか春翠は自らの心を殺すようになった。
 「おら、もっと声を上げろよ」
 そう笑って激しさを増す男の腰の動きに揺らされながら、春翠は庭園から遠く聞こえる蛙の鳴き声を薄ぼんやりと聞いていた。

 庭園から狆の鳴く声が響く。男が去り、下女の手によって汗に濡れた蒲団が片付けられた後、春翠は自分の部屋に戻り、一人佇んでいた。
 「鳥みたいに、羽があればよかったのにね、私も、貴女も」
 騒がしく鳴き喚き、男衆に鞭で叩かれている狆に、彼女は思わずといったようにそっと呟く。空を自由に飛び回る鳥のように、この背に羽があったなら、この妓館を囲む高い塀など物ともせずに、軽く飛び越えていけるのに。欲して止まない自由を手に入れることが出来るのに。
 春翠はいつも肌身離さず身につけている雛罌粟の髪飾りに手をやり、大切な宝物のように胸に抱く。外界の音が薄れ、彼女の耳に声が響いた。彼女が十三の時、初めて閨を共にした男の声である。重く低く、けれども優しい響きを孕んだ力強い声だ。その声は春翠が知らない塀の外の世界、年に一度開催される祭りのことや賑わう市場、見たこともない世界で繰り広げられる冒険の数々を楽しそうに語り、最後に彼女の耳元で囁いた。
 『いつか、朕が其方に外の世界を見せてやる。それまで待っていろ』
 彼の優しい声は今もまだ、春翠の胸の中で響き続けている。広い空を飛ぶ一羽の鳥が、その声に応えるように一声鳴いた。

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