美しきこの世界

Rickey

三十二

「誤診やね、それは」
「偶然次の日にこっちから行ったから良かったけど、もし行けてなかったら最悪ですね」
「確かに」
「でもまぁ今の所、あそこに行くしかないんで。だからあえて何も言ってません」
「そこは苦しい所やね。でもそれは賢明な判断だったと思います」
「その代わり、向こうが勝手にこっちに良い様にするやろし」
「うん」
「でも、ほんま、何もなくて良かったです」
 呟くように話すケンシは、少し浮腫んだおばあさんのあくび顔を見つめていました。

「ありがとうございました」
 家を出る医師にそう声を掛けると、ケンシは玄関のドアを閉めました。
 おばあさんは今日の午前に退院をし、それに合わせて訪問診療を行いに主治医が来ていました。退院に合わせた臨時の訪問なのでカニューレ交換といった定期的な事は行わず、入院に関する報告や今後の対応、薬や栄養剤等の確認や量の調整を行いました。
「やっぱり誤診って言っとったな」
 暖簾をくぐって部屋に戻ってきたケンシに、ケンジは力の入った声でそう言いました。微かに頬を上げたケンシはケンジの方へ視線を向けて「うん」と頷くと、深く息をしたケンジは自分の手元に視線を戻し、おばあさんの昼食を再開しました。ケンシはテレビを見ているおばあさんの横顔に目をやり、そのまま台所へ入って行きました。
「薬出すわ」台所からケンシの声が聞こえました。
「頼む」ケンジは台所まで聞こえるようにそう声を上げました。そしておばあさんに笑顔を向けて「ばあちゃん、これで終わりな」と声を掛けると、残りの昼食をゆっくりと流し込んで行きました。ベッドで座った状態のおばあさんはケンジに視線を寄せました。
 台所に入ったケンシが一分ほどで出てくると、「要るもん全部机に置いとうから」とケンジに伝えました。ケンジは「分かった」と返事をすると、そのまま続けて話しました。
「わしらの事は気にせんと何でも言えよ。お前に頑張らせてもたからな」
 ケンジの優しくて真剣な顔を見たケンシは、嬉しそうな笑みをこぼして頷きました。
「今でも充分や。ありがとう。心配せんでも頼む事一杯あるよ」
 ケンシはそう言うと、大きな笑みを見せました。
「任せとけ」
 ケンジはおばあさんを見つめながら笑みを浮かべ、そう声を上げました。
 するとケンシは「あ」と声を漏らし、壁に掛かった時計に目をやりました。
「もうすぐで夢が来るわ。サトの病院の話。けんちゃん時間ある?」
「おう。話聞くわ」
「分かった。後で色色決めたい事もあるし。ちょっとそれまで買い物行ってくるわ」
「おう、行ってこい」
 ケンシは「じゃあ頼むわな」と返事をすると、おばあさんの顔に視線を向けました。テレビを見ているおばあさんは真顔でいつもの時代劇に夢中でした。入院中は患者衣ではなくいつも着ている服で過ごしたりとなるべく家と変わらないようにしてきたのですが、やっぱり家が一番のようです。ケンシが今感じているほんの数秒のおばあさんとのコミュニケーション。それは、ケンシの張り詰めていた心に温かい安心感を与えてくれました。

 それから一週間。今日の午後は夢とフミがおばあさんの側に居ます。三人の昼食は終わり、夢とフミはおばあさんの左右で膝をついて座っています。サトの街の病院へ行く日が決まり、夢達は以前の日常に戻ろうとしていました。ただ、結石の問題を抱えたままでの退院だった事もあり、順調には行きませんでした。退院後のおばあさんの様子はそれほど変わらなかったのですが、排出される尿量が少なくなる不安定な日が時時あったのです。そのため、再開した訪問看護で採血をし、血液検査で状態を確認する事になりました。
「どれ見たいかな? ばあちゃん」
 夢にそう聞いたフミはテレビのリモコンを操作し始めました。画面には、これまで録っておいた番組のリストが並んでいます。
「んー、ドラマとか喋るだけの番組は分かりづらいし、あ、これが良いかもしれないわ」
 夢が画面を指差しそう言うと、フミは「ミーアキャット」と書かれた番組を再生させました。アフリカの大地で生きるミーアキャットと動物達のドキュメンタリー映画です。
「テレビで放送してたの。前に映画館でやってて、おば様が観たいって言ってたから」
 夢はそう話しながら、おばあさんにそっと視線を寄せました。するとおばあさんはその視線に気付いたのか夢に振り向くと、ほんの少し頬を上げました。微かだけど精一杯の、そんなおばあさんの笑顔に、幸せな気持ちが夢の全身を流れて行きました。
 おばあさんはゆっくりテレビに視線を戻し、少し待って夢もテレビの方へ向きました。
 現地の音だけが流れているテレビには、砂の大地の上で愛らしく戯れるミーアキャットの子供達。おばあさんと夢はいつの間にかその姿に見入っていました。
「夢」フミが小さな声で夢にそう呼び掛けました。夢はフミの方へ振り向き「はい」と返事をしました。
「夢が前にさ、介護の事であったらいいのにって言ってた事覚えてる?」
 思いもしなかった話に夢は驚いてしまいました。
「うん」
「嫁さんの友達が話してみたいって、夢と」
「私と?」
 フミの話に夢は目と口をポカンと開けたまま固まってしまいました。
「百貨店で働いてる女性なんだけど、遠く離れた所に住んでいるお母さんが歳でね、夢と同じように思った事があったみたい」
 フミの話を聞いた夢は視線を落とすと、自然と過去を思い巡らせていました。
 病気の診断を受け、手探り状態で始まったおばあさんの介護生活の中で出会えたのは、手を使って気持ちを表現する姿。口元にハンドタオルを当てながら吸い飲みでお茶を飲む姿。唾液をどうにかしようと口の中にティッシュを詰め込んで取れなくなった時の笑顔。そんな、ベッドの上で頑張って生きるおばあさんに出会えるたびに、夢達の心は温かくなりました。
 しかし、ALSが進むに連れ、とても大きな困難も見えてきました。それは、おばあさんに生きる喜びを感じてもらうにはどうすればいいのか、でした。自力で何かをする事が難しくなったおばあさんは、色んな事を諦めなければいけなくなり、生きるための最低限の事だけを夢達に伝えるようになってしまいました。そこには、あまりにも悲しい現実があったのです。
 そしてこの世界では、重い病気になったが最後、最低限の衣食住で暮らすことになってしまいます。もちろん資金があればそれらを満たすことは出来るのですが、おばあさんを含め多くの人はそうではありません。それでもおばあさんには、おばあさんの人生を喜びで満たそうと心で動く夢達が居ました。ただ、やはりそれは、偶然周りの環境がそうであったに過ぎません。
 夢がその事に気付けたのは、一人で頑張る障害者や、一人で頑張る介護者の存在を知れたからです。もしかするとこんな世界でも探せばその困難を乗り越える事が出来る、何か、があるのではないか、夢はそう想えた事もありました。しかし、夢の考える介護生活に必要なものは、介護の世界のどこを探しても見つけることは出来ませんでした。だから夢達はおばあさんの、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、これらを満たし生きる喜びを感じてもらおうと独自に考え行ってきました。
 そうやってきた夢がふとフミに話した「介護の事であったらいいのに」。それは、生きる喜びを感じる手助けをしてくれる事業があればいいのに、そんな想いから出た言葉でした。きっと、介護のための製品や制度はこれからももっと充実して行きます。病気の人や介護者の負担が減れば、お互いの心にも目を向ける余裕が出てくるのかもしれません。ただ、直接的なものが必要だと夢達は感じていました。
 例えば、寝たきりの状態でテレビを見るにはどうすればいいのか。これに気付くには、体位変換の度に行うテレビの移動、整理しづらい有線のコード、移動スペースや床の状態等、普通であれば行き渡る事のない所にまで意識を広げなければいけません。
 例えば、入院生活で感じる苦痛。あの白い部屋に唯一あるのは小さなテレビだけです。固定されているので、体位変換をしたり姿勢を変えると見えなくなる事が多多あります。
 例えば、現在の視力や見え方を確認する方法が一般には無い事。他にもメガネやコンタクトレンズといった補正する器具の調整や装着感等、視覚に関する問題だけでも数え上げれば切りがなく、さらにその事を認知症や病気で伝えることが出来なくなった時、生きるからこそ持つ沢山の想いが闇に消えるのです。
 そうして、楽しむ事から生まれる喜びを病気になった多くの人が失って行きました。もしそれらを補う製品が存在し、利用する事が出来れば。もしそれらを補う技術や知恵が存在し、得たり借りたりする事が出来れば、病気になった人の心を救えるんだと夢は強く想ったのです。毎日、ずっと、壁や天井を見続けるだけの地獄のような現実の中で苦しんでいる人がこの世界には沢山居る。その事に気付いた夢はその時からずっと、自分でも何か出来ないかと考えていたのです。
 そして今、思わぬタイミングでそれは夢の前に舞い降りてきました。フミが言うには、既に十人ほどのメンバーが集まっていて、話が形になろうとしながらも、現時点ではまだまだ手探りの状態なのだそうです。まずはボランティアという形から始め、同時に新しいメンバーも集めて行こうと考えているそうで、特に夢が得てきた経験や知識はとても大きな力になると言っていたそうです。
「介護と自分の時間を最優先して、空いた時間でいいので是非手伝ってくれないかって」
 フミにそう言伝をしたのは主要メンバーの一人の女性でした。
「私からも是非!」
 瞳をキラキラキラと輝かせながらそう返事をした夢に、迷いなどありません。少しでも自分が役に立てれば、夢はそう考えただけでトクントクントクンと胸の奥で心が高鳴るのを感じました。何かが始まりそうな予感、自分に何が出来るのか、そんな不安が夢をワクワクさせたのです。
「壁から世界へ、天井から宇宙へって言ってた。白い壁の向こうへ、て言う名前だって」
「素敵だわ!」
 さらにキラキラキラと輝き出した夢の瞳には、テレビを見ているおばあさんの横顔が映っていました。夢はおばあさんの手を優しく強くギュッと握り、「おば様」と囁きました。するとおばあさんも夢に視線を寄せ、真っ直ぐな瞳で見つめました。
「おば様。不謹慎かもしれないけれど、私、」
 言葉はそこで止まり、夢は唇をグッと閉じました。そして、少し涙のこもった声でゆっくりと言葉を紡ぎました。
「おば様。側に居てくれて、ありがとう」
 涙を堪えた夢の瞳はおばあさんの笑顔を映し、キラキラキラと輝き出しました。

 ケンシは部屋の隅のデスクに置いてある携帯音楽プレイヤーを手に取りました。プレイヤーに付いている桜色のストラップはインターネットで購入したケンシのお気に入りです。そのストラップに付いたスナップフックを腰のベルトに取り付け、イヤホンを首に掛けると電池の量を確認しました。残り半分でしたが、距離から考えれば充分です。
 ケンシは今日サトの街の病院へ行きます。予約している時間は午前十時なので、夢にはいつもよりも少し早めに家に来てもらいました。ケンシはレジ袋を広げ、必要な物が入っているか確認し始めました。
 その時、森のくまさんの曲の電子音が部屋の中に鳴り響きました。その音の正体は、小さな茶箪笥の上に置いてある電話機の呼出音でした。台所にいた夢が急ぐように出てくると、「出るわ」ケンシに声を掛けました。ケンシは「ありがとう」と返事をすると、卓袱台の上にある財布をレジ袋に入れ、壁に掛かった時計に目をやりました。午前九時を丁度過ぎた所でした。出掛ける支度を終えたケンシは夢が受話器を置くのを待ちました。
 電話の相手に返事だけをしていた夢が、「はい、居ます」と答えると、ケンシに視線を向けました。自分への電話だろうと気付いていたケンシは、自然と目に力が入りました。夢は最後に「はい」と答えると、受話器のマイクに手を当て、ケンシに声を掛けました。
「先生から。訪問の」
「先生?」
 思わず声が出たケンシは眉間にしわを寄せ、見当が付かないような表情のまま夢から受話器を受け取りました。
「もしもし、代わりました」
 そのままケンシは「はい。はい」と短い返事を繰り返しました。夢は、体を起こした状態のおばあさんの隣に膝をついて座ると、尿道カテーテルを持ち上げました。それを切っ掛けにして尿が流れ始めました。不安定だった尿の出は、カテーテルの詰まりがないか定期的に確認をしたり、膀胱内にある凝固した不純物が尿の排出を妨げないよう体位変換の間隔を短くしたりと出来る限りの事をしていたおかげなのか、安定したいつもの状態に戻り、尿路が閉塞した時に見えていた唾液の減少や目の前のものに反応しないというような事もそれほど強く現れていませんでした。
 おばあさんは眠たそうにウトウトし始めました。そんなおばあさんを頬笑みながら見つめる夢の顔には、少しだけ不安の色がありました。
「え? 今からですか?」
 夢は聞こえた言葉が気になりケンシの方へ振り向きました。宙をにらんだケンシはそのままうつむくと、深くて音の無いため息をつきました。そして部屋に広がる重い数秒の沈黙。それは、事の重大さを表していました。指にレジ袋をぶら下げたままのケンシ。その姿から視線を遠ざけた夢は、虚しさや悲しみが胸の奥から込み上げてくるのを感じました。ケンシは深く考えるような表情で、「んん」と困惑した声をもらしました。そのまま少し間を置くと、おばあさんに視線を寄せ、どうにか出来ないかと話し出しました。
「サトの病院じゃだめですか? 見た感じ大丈夫そうに見えるんですけど」
 期待を込められない声でそう聞いたケンシは少しの沈黙の後、手を乗せていた茶箪笥に上体を預け、また深くて音の無いため息をつきました。どこを見るでもなく、ただ視線を止めていた夢も、電話に出た時から良くない予感はしていました。
「分かりました」
 医師の言葉を受け入れたケンシは、レジ袋を卓袱台の上に置きました。
「はい。お願いします」
 ケンシはそう返事をすると、力無く握っていた受話器を元の場所に戻しました。そのまま壁の時計をしばらく眺めたケンシは、おばあさんの側にやって来ました。ケンシは悔しさのにじむ表情でおばあさんを見つめながら夢に話し掛けました。
「病院行く事なった」
「え? どうして?」
 良くない予感はしていても、想像出来なかった状況に夢は戸惑ってしまいました。
「血液検査の結果が良くないみたいやねん。病院で診てもらった方がいいって」
「尿の事?」
「はっきりとは分からんみたいやけど、数値上では診てもらった方がいい状態らしい」
 夢は言葉を出すことが出来ないまま、ただ小さく何度も頷いていました。
 ほんの数分前までは期待で胸を膨らませていた二人。それが全て不安に変わり、全く前に進むことが出来ない、そんな虚脱感が二人を包んで行きました。
「簡単に言うてくれるなぁ」ぽつりとそうつぶやいたケンシには、心の疲労が微かに表れていました。夢は何も言わず、ただおばあさんを見つめていました。
 その時、眠たそうな顔をしていたおばあさんが大きな口を開けてあくびをしました。とても無邪気なその仕草。夢達の大好きな瞬間の一つです。
「何もないように見えてしんどいんかもしれん。早い方がいいな」
 ケンシの言葉に頷いた夢は、すっと立ち上がりました。
「夢、介護タクシー呼んでくれへんか? 俺は要るもん用意するわ」
「分かったわ」
 夢はそう声を上げると、卓袱台の上に置いている携帯電話を取りました。ケンシは壁に掛けている新品のレジ袋の束から数枚取ると、入院の準備を始めました。
 夢とケンシ、心が折れないよう、頑張って行動に移しました。
 何度でも。何度でも。

 カチッ。
 夢は玄関の鍵を閉め、部屋の中に戻りました。おばあさんとケンシは介護タクシーで病院へ向かい、夢は家で待機することになりました。
 部屋の中で夢は立ち尽くしています。音の無くなった家には、直前まで居たおばあさんの姿があざやかに残っています。
 少し乱れたベッドの上。
 夢は頬を袖で拭い、部屋の片付けを始めました。

 ベッドで横になるおばあさんを見つめながら、ケンシは立ち尽くしています。救急病棟に移動した後、おばあさんの髪だけは整える事が出来ました。いつもならケンシはそこからおばあさんの姿勢や身の回りを整え、家での日常と変わらないよう病室内を構築して行きます。しかし今は、どうやっても体が動かないのです。未来を見ていた心の色を落としてしまっているのです。希望という心の力が抜けてしまったのです。今のケンシには、後戻りするという現実を受け入れる事で精一杯なのです。
 ケンシはおばあさんを見つめ、その心に寄り添いました。ばあちゃんこの姿勢じゃしんどいかもしれん。テレビつけんと苦痛かもしれん。不安やんな。怖いやんな。ばあちゃんごめんな。そう想いながらおばあさんを真っ直ぐ見つめていると、ケンシは心の中に満ちてゆく力を感じました。
「ばあちゃん」
 ケンシの心の声が言葉となって溢れました。
 おばあさんは周りを警戒しているのか苦しいのか、目蓋を閉じたまま力の入った表情をしていて、ケンシはそんなおばあさんを見つめていると、一体自分は何をしているのか、そんな気持ちに駆られました。
「よしっ!」
 ケンシはその掛け声を切っ掛けにして、強い意志と気合で動き出しました。
 もう一度ここから始めるのです。

「おば様、少しだけ我慢してね?」
 夢はおばあさんに笑みを向け、壁に掛けてあるナースコールを押しました。ここは神経内科の病棟です。四日前の来院時に検査を行い救急病棟に入ったのですが、そこに居たのは一日だけで、すぐにいつもの病棟に移動出来ました。今は丁度おむつの交換が終わったところで、後はおむつを閉じてステテコをはくだけなのですが途中で止めています。ナースコールを押した夢はおむつを軽く閉じ、そのまま毛布を掛けました。
 五分ほどすると「失礼します」と女性の声と同時にカーテンが開きました。夢が会釈をすると、カーテンを閉めた担当の看護師はドアを開けて入ってきました。
「大丈夫ですか? 始めますか?」
 看護師がそう尋ねると、夢は「はい。お願いします」と答えました。今から膀胱と採尿バッグをつないでいる尿道カテーテルの交換を行います。膀胱内にある沈殿物で管が閉塞してしまう事が度度あったので、それを防ぐため現在使っている尿道カテーテルよりも一つ上のサイズの尿道カテーテルに変更するのです。
 夢は出入り口に目をやり、カーテンが隙間無く閉まっている事を確認すると、看護師が準備をしている間におばあさんの足元に掛けていた毛布をめくり、おむつを開きました。
「じゃあ、始めましょうか」
 看護師はそう声を掛けると、手際よく留置している尿道カテーテルを抜去しました。おばあさんが抱いているALSは筋肉が萎縮する事以外は全て健常者と同じです。それはつまり、カテーテルや気管カニューレの挿入や留置や抜去、注射、吸引等、それらを行う時に技術や愛がなければ、おばあさんには苦痛になってしまうという事です。ただ、技術や愛があったとしても、時には緩和出来ない苦痛が存在する事も現実です。そしてその瞬間、堪え難い苦痛を受けている、おばあさんはそんな表情になるのです。夢は、その瞬間のおばあさんの全てを自分の瞳に焼き付け、最後まで見届けます。そして夢は可能な限りその瞬間は、おばあさんの視界の中に居るようにしています。
 そんな夢にも、介護が始まった頃は見ているだけで辛くて悲しくなり目を背けそうになる事が沢山ありました。しかし、絶対に逃げてはいけない、そう心に決めているのです。おばあさんの痛みを瞳に焼き付け、大切な瞬間を分かち合い、おば様は一人じゃない、そう感じてほしかったからです。
 だから夢は、カテーテル交換の処置が終わり看護師が病室を出た瞬間、堪えきれずぽろぽろぽろぽろ涙を零したのです。
 それは、新しいカテーテルを尿道から膀胱内へ通そうとした時の事でした。尿道カテーテルの交換をしている丁度そのタイミングで、おばあさんの気管カニューレ内に痰が上がってきてしまいました。夢はすぐにカニューレ内の吸引を行ったのですが、気管切開からの吸引は痰の量に比例して、おばあさんの苦痛も強くなってしまいます。おばあさんはその吸引の苦しさで全身に力が入り、自然とおならが出ました。おばあさんの顔は、カテーテルの挿入と吸引の苦しさで赤くなり、表情には苦痛が滲んでいました。介護の上でおならは一つの情報であり、ガスが出る事は生きる上で当然起こり得る事なのですが、どうしても恥ずかしさがあります。そして、おばあさんは女性なのです。夢は、おばあさんと二人だけになるまで、涙が零れぬよう堪えました。
「大丈夫、吸引、終わったよおば様。もうちょっと頑張ろうね」
 夢は笑みを向け、おば様は一人じゃない、精一杯その気持ちを込めて言いました。それほど夢にとってこの瞬間は、とても辛いものがあったのです。難病中の難病と言われるALS、突然利用する事になったおむつ、カテーテルを挿入するためにとっている姿勢、切開した気管からの苦しい吸引、「おばあさんはこれらを背負い唯でさえ苦しいのに、人前でおならを出させてしまった。恥ずかしい想いをさせてしまった。しかもそれは気管の吸引の苦しさで力んでしまって出たものだった」夢の心の中のそんな色んな想いが涙となって溢れてしまったのです。もちろん看護師にとっては日常的な事で、その時は何も反応しませんでした。しかし夢は、おばあさんのこの現実はあまりにも残酷だと感じたのです。
 おばあさんと二人になり、なんとか気持ちを落ち着かせた夢は涙を肩で拭い、おむつを丁寧に閉じてゆきました。おばあさんの足を上げてステテコを通してゆきました。そのステテコのデザインは青系の深い色がベースになっていて、可愛いネズミのキャラクターが笑っています。おばあさんの見える世界が優しく温かく楽しいものであってほしいという夢達の想いが溢れています。それは服装だけでなく、おばあさんの家もそんな想いで一杯です。家にある時計のデザインはほとんどが可愛いアニメのキャラクターで、木彫りで出来ているので温かみもあります。壁に飾ったカレンダーは、おばあさんの視力が落ちていたとしても見えるようにと大きなサイズにしています。その中でも絵の大きなものを選んでいて、アニメのキャラクター達が四季やその月ごとのイベントを楽しんでいる姿が描かれています。誕生日や母の日やクリスマス、バレンタインデーやひな祭りや正月、一年にある様様なイベントを、おばあさんへのプレゼントも添えて楽しみます。家のベッドから見える部屋の食器棚には、アニメのキャラクターが描かれた花瓶やコップや可愛い容器が並んでいます。それぞれには、母の日に夢がおばあさんへ送ったカーネーションが入っていました。おばあさんの家は、夢達の温かな想いで溢れているのです。
「おば様、おつかれさま。すごく頑張ったわ」
 声を掛けた夢の瞳はほんのりと赤く、今の心とは裏腹に涙の色を残しています。
 夢はおばあさんの体に毛布をそっと掛けました。
「少し休んだらお昼ご飯にしましょう、おば様」
 夢は頬笑みながらそう言うと、おばあさんの手を優しく包み込むように自分の手を重ねました。たくさん働いて、たくさん頑張ってきたおばあさんの手です。
 おばあさんを見つめていた夢が、「フフフ」と嬉しそうに笑いました。おばあさんのあくびです。子供や動物のような無邪気な顔で、大きな口を開け、大きなあくびをしました。おばあさんのあくびが終わるまで、頬笑みながら見守っていた夢が話し出しました。
「お昼が過ぎたらはっちゃんが来るわ。そう! 今日は子供達も一緒なの!」
 その言葉を聞いたおばあさんは、頬を微かにフワッと上げて頬笑みました。
 二人だけの、温かな涙と素敵な笑顔の朝になりました。

 入院してから八日が経ちました。午後九時を過ぎた病棟は消灯の時間に入り、それぞれ病室は廊下から漏れるほのかな明かりだけになります。
 ケンシはパイプ椅子に座りながら膝に置いたノートパソコンの画面を見ていました。
「ふぅ」
 ため息をついたケンシは椅子の背もたれにギィシッと体を預けました。曲作りがひと段落ついたようです。ケンシは曲のファイルを保存し、ノートパソコンを閉じると肩の力を抜いて宙を見つめました。そして、ぐっすりと眠るおばあさんに視線を寄せました。
 おばあさんは今日の午後、気管カニューレの交換と尿管ステントの抜去を行いました。おばあさんに何か処置をする時夢達は必ず側に居るようにしているので、何度もこの瞬間を見てきました。しかし、切開した喉に管を押し込んで挿入するカニューレ交換だけは何度見ても辛くなります。同時に尿管ステントの抜去も行ったのですが、その時泌尿器科の担当医師に現状についても話がありました。新しい腹部の画像を見ると、元元尿管にあった結石が腎臓付近にまで移動していたので、もう一度閉塞状態を解消する手術を行う事になったそうです。今まではステントを留置した状態で退院していたのですが、今回は何も無い状態で帰ることになりました。結石が尿管から無くなるのであれば、体の負担となるステントを留置させずにすみます。ケンシは別の病院で治療を行う事も考慮し、同意しました。ただケンシは、いつも自分の判断で手術する事を決定し、おばあさんに辛い思いをさせている、そう感じていて、手術のたびにベッドで運ばれるおばあさんの不安そうな表情を見ていると胸が苦しくなり、どうしても自分を責めてしまうのです。なのでケンシは手術を終えたおばあさんが病室に帰ってきたら、乱れてしまっている髪やおむつや服を直しながらのんびりと話をし、おばあさんの心を包んでゆきます。しかし今回は手術だけでなく、その後に気管カニューレの交換もありました。さらにその交換もいつも行っていた四十代後半の神経内科の医師ではなく、前回来院した時にERへ来た若手の神経内科の医師でした。今回の入院はその若手の医師がおばあさんの担当になったのです。どういった経緯でそうなったのか説明はありませんでしたが、ケンシはそれほど気にしませんでした。むしろケンシが不安に感じていたのは、気管カニューレの交換を行うその若手の医師の手際の方でした。そして案の定、ケンシが懸念していた通りになってしまったのでした。それは医師が気管カニューレを喉元へ挿入しようとした時のことです。医師は緊張していたのか、カニューレを持つ手は震え出し、どの角度で挿入すればいいのか分からず戸惑ってしまい、人工呼吸器の外れた状態が十秒ほど続いてしまいました。その時の若手医師の様子は明らかな経験の少なさを物語っていて、初めて交換したのではないかというぐらいの手際の悪さでした。直径一センチほどの硬いプラスチック製の管を、切開した気管の中に挿入する、それは想像しただけでも辛くなるような事です。おばあさんの表情からも、その苦痛が伝わってくるのです。だからこそ交換に掛ける時間は出来るだけ短くしたいのですが、これではケンシがいくら頑張っても意味がありません。
「ばあちゃん」
 ケンシはおばあさんには聞こえないよう、そっと、ささやくように呼びました。何か用があるわけではなく、起きてほしいわけでもない、ただ、名前を呼ぶ事ができる幸せを感じていました。
「頑張ろな」
 小さな声と大きな愛が、おばあさんを包み込んで行きました。

「これ足したら二リットル以上になりますよ?」
 六十代の女性看護師にそう言ったケンシは、あきれたような笑みを向けました。看護師が持って来たメモをケンシに返された看護師は、怪訝な顔をしてそれを受け取りました。看護師が日勤から夜勤に変わり、その挨拶をしに病室へ来ているのですが、交代の際に医師から指示があったようで、それが書かれたメモを看護師がケンシに渡したのです。
「そんなはずないですけどね。計算されてると思うんで」
 そう返答した看護師は「とりあえずこれは置いときます」とメモをサイドテーブルの上に置くと、「先生に聞いてきます」と言い残して病室を後にしました。
 今日は入院十一日目。夕日に染まる雲一つない空、六月はそんな晴れの日が続きます。おばあさんの状態は良くなってきたので、薬の投与と同時に行っていた輸液を胃瘻からの補充に変更する事になり、看護師が持ってきたのはそれに関するメモでした。水分や電解質等の補充、それに栄養素等を加えた経口摂取の代替等、様様な状況に合わせて輸液は行われるので、点滴の時間が減ればおばあさんの負担も軽くなります。ただ、それだけであればケンシがメモを返す事はありません。一日に摂取する水分量を医師が看護師に指示し、そのままその数値を看護師がケンシに伝えたのですが、メモに書かれているその数値に相違があったのです。入院中ケンシは医師とも直接話をするので、その事についての報告は受けていました。だから当然その時医師が話した内容と看護師が伝えてきた数値は一致していなければいけないのです。ただ問題なのは、こういったことが起こる割合は少なくないということです。そしてケンシはその間違いに気付くたびに看護師に伝えるのですが、それを指摘された看護師は自分達は正しいという前提を持っているのか、反論にあう事が多多ありました。医師に再度確認した後ならまだしも反射的に反論する様子から、変化なくルーティーン化した業務によって固定された観念が、自分達は正しいという潜在的な前提を生んでいるのかもしれない、ケンシはそう感じていました。
 しかし問題はそれだけではなく、計算されているはずの数値そのものが間違っていたのです。単純な計算間違いだったのかもしれませんが、その間違いは入院中のおばあさんにとって負担になり、治療を逆行させる事にもなってしまいます。実際そういった事で、治療に悪影響を及ぼした事もありました。入院が始まり、今の担当と同じ泌尿器科の医師の指示で輸液を行う事になったのですが、摂取した全体の水分量が一日に摂取出来る限度を超えてしまった事がありました。その結果、おばあさんの肺には大量の水分が溜まってしまいました。さらに手足や体はむくみ、眼球の白目は水膨れのようになり、顔や目蓋のむくみが影響して目を開く事が出来ない状態になってしまいました。おばあさんの場合、点滴で輸液を補充するとこういった症状が強く現れてしまうので、看護師には事前に知らせていましたが何もされず、医師や看護師はおばあさんの状態に気付いても対応しませんでした。ただ、このままで良いはずがないので、胃瘻からの補充に変えてもらおうとケンシはその現状を医師に伝えたのですが、不機嫌そうな顔を浮かべただけで中中対応せず、数日経ってやっと変更されました。しかし問題はそれだけではなく、肺に水が溜まっているという報告を病院側から受けたのは一度だけで、肺に水が溜まった原因や深刻さの程度等について医師は一切説明しませんでした。さらに輸液の点滴を止めてから数日後、突然胸部のレントゲン撮影が予定に入り出し、それは退院するまで二、三日置きに継続して行われました。このレントゲン撮影に関しても、何故行うのか、説明を受けた事は一度もありませんでした。
 日が経つに連れておばあさんの表面的なむくみは取れてゆきました。顔全体はまだむくんでいるものの、いつもの目の状態に戻りました。しかし、入院中に出来た肺の水は退院後も残り続けました。訪問診療のたびに聴診してもらい、それが軽減されたと診断が出るまで数か月掛かりました。結果的にこの出来事は、その医師への信頼の消失に繋がりました。ただ、これらの事が影響したのか、入院中のそういった管理は夢達が任されるようになりました。病院が放棄したと考えてもよいのですが、自分達で管理し、自分達が責任を持つ、それが出来た分、おばあさんの側に近づけたような、そんな気持ちになれました。

 六月九日。金曜日の天気は晴れ、降水確率ゼロパーセント。
 そう表示された携帯電話の画面を見たケンシは「よし」とつぶやくと、パイプ椅子にもたせ掛けていた背中をグッと伸ばしました。
 入院してから十三日が過ぎました。今年のクイナは梅雨入りが遅いらしく、春を背にした今でもまだ、気温も湿度も最適な晴れの日が続いていて、誰もが活動的になっていました。そんな素敵な日が続くと、夢達はどうしてもおばあさんと出かけたくなるのです。夢にメールを送ったケンシは携帯電話をスリープ状態にすると床頭台に置き、そのまま立ち上がるとおばあさんに笑みを向け、「歯磨きしよっか」と声を掛けました。
 日は沈み始め、花葉色に夕焼けてゆく空の光が病室の壁一面を照らしました。
 そんな綺麗な空の下、オレンジ通りも同じ光に照らされています。
「他には何か言ってたかい?」
 夢が携帯電話をリュックサックにしまうと、隣に居たオッカはそう話し掛けました。
「ううん、退院の日だけ。金曜だからタクシー予約しといてって」
 夢はそう話しながらリュックサックを肩に掛けました。そして二人はまたオレンジ通りを歩き始めました。
「時間は?」
「十一時五十分。大丈夫オッカさん、私が行くわ!」
 夢が笑顔でそう言うと、オッカは「ありがとう」と笑顔で返しました。
「毎日行ってあげたいんだけどね」
 オッカが寂しそうにそう言うと、夢は少し驚いた表情で「そんな」と声を上げました。
「オッカさんはほとんど毎日おば様に会ってくれているわ! そんな事言わないで、簡単な事じゃないもの。おば様も幸せそうだもの」
 そう話した夢は自分の言葉に照れてうつむき、唇をグッと閉じて笑みをこぼしました。オッカはオレンジ通りの遠くを見つめ、そして優しく頬笑みました。
「ありがとう。それにあたしには役目があるからね」
「役目?」
 頬笑みながら夢に視線を寄せたオッカは、一言だけ答えました。
「いつか」
 オッカが見せた大きな心の笑顔に、「そっか」とつぶやいた夢は、オッカに満面の笑みを向けました。

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