美しきこの世界

Rickey

二十九

 春の季節はまるで陽気な心の中のように温かです。そんな四季を少しでも楽しんでほしいと思う夢達は、おばあさんと一緒に映画や番組を見たり、季節に合わせた贈り物をしたりします。おばあさんはその度にとても喜んでくれるのですが、最近また少し表情が小さくなりました。自分の気持ちが自分以外の人に伝わらない、そんな想像を絶する苦しみをおばあさんは抱いています。夢達はなんとかその苦痛を和らげようと、これまで以上に様様な事に挑戦して行きました。
 そしてそんな中、以前見たような変化がまた、おばあさんに現れていました。
「前と一緒?」
 フミがそう聞くと、ケンシは呟くように「うん」と答えました。二人は卓袱台の横に座りながら、昼寝をしているおばあさんに目をやっています。会話の声と同じように、不安な気持ちが二人の表情にも出ていました。
「一回病院行くか」
「うん。その方がええかもな」
 おばあさんは横を向いていてもよだれが出なくなり、目の前で手を動かしても反応しなくなっていました。焦る気持ちが夢達の胸の中でジワリと濁りなく広がって行きました。
 ケンシは部屋の暖簾から顔を出し、台所で洗い物をしていた夢に声を掛けました。
「診てもらおう思うねん」
「分かった。みんなに連絡するわ」
 ケンシは部屋に戻ると、茶箪笥の上にある電話の受話器を手に取りました。

 病院の四階の待ち合い場所。壁に掛かった時計に目をやると、午後二時半を過ぎていました。ケンシはゆっくりと呼吸をし、また地面へと視線を戻しました。病院に着くとすぐに検査が行われ、早い段階でおよその原因は分かりました。腎臓内で形成された結石が、腎臓と膀胱をつなぐ尿管の間で詰まってしまい、尿の流れを止めてしまっていたのです。以前おばあさんは、石の移動で生じた激痛で眼球が上がって行った事があります。その時健常な人であれば激痛を緩和するため悶える事が出来るのですが、今のおばあさんは体を悶えさせる事が出来ないので、激痛を真正面から受けてしまいます。その姿を目の当たりにしていた夢達はどうしてもそれを避けたかったのですが、同じ事が起きてしまいました。その分夢達が受けたショックも大きかったのです。
 検査後の報告が終わるとケンシはこれから行われる手術の説明を受けました。このまま尿が出なければ腎臓の機能はさらに悪化してしまうので、最優先事項として尿管の詰まりを解消し、その回復を目指す事になりました。現状を考慮すると出来る事は限られているそうで、尿管の結石を腎臓内へ押し上げて閉塞状態を解消し、管状のステントを尿管に通す。それが困難な場合は結石を残したままステントを尿管に通す。ただし、場合によっては何も出来ないまま手術が終わってしまう可能性も有るそうです。ただ、手術が成功し無事に終わったとしても、ステントは一時的に尿管の役割を果たすだけの対処療法なので数か月後には抜去します。その後はどうするのか、その重要な課題をおばあさんと夢達は克服する必要があるのですが、今はまず、腎臓の機能の回復と感染のコントロールを優先しなければいけません。それらの説明が終わるとおばあさんはすぐに病院の四階に移され、手術が始まりました。
 ケンシがふと壁の時計に目をやると、いつの間にか午後の三時になっていました。ケンシはゆっくりと息を吸い、再び地面へと視線を戻すと、重い空気を吐き出しました。「俺のせいや」ケンシは心の中で何度もそう言い続けていました。褥瘡の治療に力を注ぐあまり、結石の形成を防ぐために行ってきた事が頭から消えてしまっていたのです。ただ、それに気付いたとしても難しい選択になっていました。褥瘡が出来た場所は仙骨の真上で、ベッドに座ると体重が掛かってしまいます。出来るだけ早く治したいと思った夢達は横向きになってもらう時間を増やし、それが結石の形成しやすい環境だと気付かずに今日まで来てしまったのです。結石が出来ないようにするためには、今までやってきた事を維持する必要があったのですが、褥瘡の治療を始めてからはそれが出来ていませんでした。前回の入院中、おばあさんの状況を診にきた医師が帯同していた研修医の男性に「こうなってしまうと良くなる事はない。退院してもまた悪化し病院に戻って来る事が多い」と教えていました。その会話は、その時そこに居た夢とではなく医療従事者同士のものでした。確かに褥瘡はポケット状になっていて、出来た場所から考えればそうなのかもしれません。しかし夢達は頑張りました。それからの一年、褥瘡の深さは数週間掛けて一ミリ浅くなり、また数週間掛けて一ミリ浅くなり、本当に少しずつですが確実に良くなって行きました。おむつ交換をするたびに褥瘡を洗っていた夢とケンシには、良くなっていると実感出来るものがありました。それを実感するたびに嬉しくなり、少しずつですが未来は明るくなって行ったのです。
 しかし、またこの場所に戻ってきてしまいました。退院するたびに、もう二度とここへは来させたくないと切に思う、そんな場所にです。そしてケンシもまた夢と同様、自分の事に対しても鈍感にはなれません。おばあさんを想えば想うほど、頑張れば頑張るほど、後悔は色濃くなって行くのです。ただ、ケンシの心にあるのは自分を責める言葉だけではありません。後悔するだけではただの自己満足になってしまいます。それらを知識と力に変え、今は行動を取らなければならないのです。
 おばあさんの手術が始まってから二時間が経ちました。事前の説明によると、手術が長引けばそれだけマイナスのリスクが高くなってしまうそうです。
 少しでも良い結果になるように。頑張れ。頑張れ。
 心の中で願う、それが今のケンシに出来る最大で唯一の事でした。

「ミロクさんのご家族の方」
 それから一時間が経ち、おばあさんの手術は無事終えることが出来ました。ケンシは看護師に付いて行き、おばあさんの居るICUに入りました。ICU内に居る患者はカーテンで個室のように区切られた場所で安静にしていて、使われているICUベッドは病棟のベッドと違い機能的で三分の二ほどの大きさです。部屋を横切り一番奥まで進むと、ベッドで横になっているおばあさんが見えました。ケンシはおばあさんの姿を見た瞬間、会いたかった人にやっと会えた、そんな喜びが胸の中で温かく広がりました。
「よう頑張った」
 長い時間頑張ったおばあさんは、少し疲れたような表情をして眠っていました。ケンシは、またこんな苦しい思いをさせてしまった、そんな焦りと悲しみで胸がジワリと痛くなり、このまま瞳を閉じれば、きっと、涙がこぼれてしまいます。しかし、ケンシにはそんな時間はありません。一緒に来た担当の看護師の質問に答え、担当の泌尿器科の医師から手術の結果と今後の治療についての説明を受け、入院の手続きをし、それらの事を夢達に報告し、入院生活に入る準備をする、そうして入院生活が始まるのです。
 担当の女性の看護師とのやり取りが終わったので、医師が来るまでおばあさんの髪や服装等乱れている身の周りを整えてゆくことにしました。ケンシはおばあさんの頭を片手で浮かせ、乱れてしまった髪を手櫛で整えて行きました。体は横向きになっているので頭を浮かせると頬や口が重力で下がります。その表情はまるで赤ちゃんのように無垢で、そんなおばあさんを見ていると悲しみや愛おしさが心の中に染み渡ってきました。おばあさんの頭を枕にそっと戻すと、サイドテーブルに置いた箱からティッシュを数枚引き出して口元に敷きました。
 そうしていると男性の医師がやって来て、ベッドの側に置かれたパソコンでおばあさんの情報を確認し始めました。三十代前半ぐらいの男性医師でケンシと年齢が近そうでした。初めに簡単な挨拶をし、次に現状の説明に移りました。手術の結果については担当の看護師から聞いた話と変わらず、両方の尿管にステントを通す事が出来、尿が流れ始めたとの事でした。ベッドの横に掛けている採尿バッグは血尿で赤黒くなっているのですが、手術による出血なので数日で綺麗になれば良いそうです。ただ、結石については理想通りに行かなかったそうです。左側の尿管にあった小さな結石は除去出来たそうなのですが、右側の腎臓と尿管にあった結石はそのまま残っているそうです。右側の尿管の結石は腎臓の近くにあったので、押し上げて腎臓内に戻そうとしたのですが動かす事が出来なかったそうです。それでもステントは通せたので、左右の腎臓で作られた尿が左右の尿管を通り一つの膀胱に集まる、という流れが維持出来れば腎臓の機能の回復も見えてきます。それと同時に薬を点滴で投与し、感染症の治療も行います。つまり、また抗生物質での治療が始まるのです。数分ほどで医師の説明は終わり、最後にケンシは検査結果について知りたかった事を尋ねました。それで分かったのは、左側の腎臓と尿管にはほとんど結石は無く、右の腎臓に大きな結石が形成されていたという事です。
 やっぱり俺のせいや。ケンシの表情が一瞬ピリッと引きつりました。

 午後の七時。ケンシはICUで話した事を夢に伝え、一階の救急病棟に入りました。ICUに居たのは一時間ほどで、すぐに救急病棟に移動する事が出来ました。ケンシがおばあさんの居る病室に入ると、担当の男性看護師が血圧を測定していました。
「機械でやると低めになりますね」
 看護師はベッド横にあるバイタルサインモニターを見ながらそう言いました。
「人がやると変わるんですよね」
 ケンシもモニターに表示されている血圧の測定値に目をやると、そう答えました。以前からおばあさんは血圧を機器で測ると、手動で測った時よりも低くなる事がしばしばあったのです。両方の測定値の差異は十から二十ほどで問題は起こらなかったのですが、念のため注視してきました。
「終わりました」
 看護師は血圧測定の器具を片付けながらケンシにそう声を掛けました。
「ありがとうございました」とケンシが言うと、看護師は笑顔を向けて話し出しました。
「僕、新人なんでよろしくお願いします。何かあったら何でも言って下さい」
「はい。ありがとうございます。頑張って下さい」
 ケンシも笑顔を返すとそう返事をしました。病院に居ると新人の看護師と接する事があります。ケンシが出会ったどの新人看護師も懸命で明るく、直に接していると初初しさと希望を感じました。
 看護師は二人に「また後で来ます」と笑顔で声を掛けると病室を後にしました。
 ケンシは看護師を見送ると、おばあさんの目の前にあるパイプ椅子に腰を掛けました。まずは落ち着こうとケンシは静かに肺の奥に空気を入れ、全身の力を抜きました。崩した姿勢のままふとおばあさんに視線を寄せると、感情が見えなかった表情は少し柔らかくなっていて、とても落ち着いているように見えました。おばあさんの姿勢もリラックス出来るようにと右向きにしているので、そんないつもの姿がケンシの心にホッとした安心感を与えました。しばらくその姿を眺めていたケンシは、おばあさんに掛けた毛布から出ている右腕に視線を寄せました。腕の筋肉は少しずつ衰えて行き、とても細くなってしまいました。腕の所所で赤黒くなっているのは留置針を刺した痕で、今のおばあさんの皮膚や血管の状態では点滴の針でさえも辛そうです。そして今、そんなおばあさんの腕に点滴の留置針が新しく刺さっています。年を重ね小さくなった体は間違いなく悲鳴を上げているのです。ケンシはまた自分を責め、胸を掻きえぐるような痛みと焦りを感じました。分かってはいたのですが、病気の治療には考慮しなければいけない負の部分も存在するのです。それは表面上だけでなく、おばあさんには治療に関する大きな問題が残っています。抗生物質使用による常在菌への影響と耐性菌出現への関与、そして右側の腎臓に形成された大きな結石です。おばあさんは長い間、大量の抗生物質を治療のために使ってきました。ただ、抗生物質は病原体だけでなく人と共存する常在菌にまで影響を及ぼします。人は菌の力を借りて健康を維持している部分もあるので常在菌は重要な存在なのですが、その常在菌が減少すれば力のバランスが崩れてしまいます。例えばその作用が腸内細菌に及んだ場合下痢になる事があります。そして腸内だけではなくその影響は全身に広がるので、病原体から守ってくれていた常在菌のバランスは崩れてしまい様様な問題を引き起こします。その上、体の免疫力が低下すればその常在菌もまた、感染症の原因になりえるのです。治療中であるおばあさんには体力低下につながるので出来れば避けたい副作用なのです。さらに、抗生物質を使い続ければ耐性菌が出現するというもう一つの問題を生じさせてしまう可能性もあります。病気の原因となる病原体を体内から無くすために抗生物質を使うのですが、その期間も長期に及べば、抗生物質の作用を無効化する力を病原体自身が得てしまう可能性が出てきてしまいます。その力を得た病原体が薬剤耐性菌なのです。さらに耐性菌が出現する原因はそれだけではなく、病気の治療を中断した場合でも、体内で生き残った病原体がその力を得てしまう可能性もあるのです。また、耐性菌の力はそれだけではありません。抗生物質の作用を無効化する力を得た耐性菌は、その力を持たない病原体へその力を伝達する事が出来るのです。そして最悪な事に世界には、複数の薬に耐性を持った多剤耐性菌も出現してしまいました。しかし、抗生物質は多くの命を救ってきました。おばあさんもその中の一人なのです。その薬を使わなければそもそもの治療が行えません。だからこそ薬に頼る事のないようにおばあさんの健康を維持しようと夢達は頑張ってきたのです。しかし、耐性菌はおばあさんだけの問題ではありません。風邪の症状が体に出たのでとにかく抗生物質を処方してほしい、そうしてもらえれば安心する、そういった人が沢山います。適切な処方ではないのですが、その説明を受けてもそれを求める患者、処方する医師、両方に問題はあります。さらに個人の医療費の自己負担が軽いので、薬を出す側も受け取る側も薬への慎重さが薄れてしまっているのかもしれません。必要以上に大量に簡単に出る薬、その現状に対して世界が動き始めているのです。
 そして今おばあさんにある最大の問題が右側の腎臓に形成された結石です。結石は体内にあるだけで危険を伴うので、夢達は結石を除去しようと考えているのですが、それには考慮しなければいけないマイナスのリスクも存在します。それらを含めケンシは他の病院に替える事を考え始めていました。ケンシは入院生活の中で、病院の看護師や業務員への不信感、さらに今回は泌尿器科の医師への不信感を抱いてしまったからです。その医師というのは、少し前にICUでケンシと話した泌尿器科の男性医師の事です。ケンシが男性医師とICUで話した際、自分達が考えているおばあさんの方針について伝えると、根拠を言わずにそれを否定したり、薄らと笑みを浮かべながら答えのない空返事をしたりと、その医師の対応に違和感を覚えたのです。それでもケンシは検査結果やこれまでの介護生活を考慮しながら話し合おうとしたのですが、その後も医師とは全く会話が噛み合いませんでした。ALSのおばあさんにとって、方針、というのは、人生、そのものです。今後の事を決めるという事は、どう生きるかを決めるという事です。病院として今後どうするのか、何が出来るのか、ケンシは質問したのですが答えるわけでもなく、ただケンシの考えを否定する、そんな全く意味の無いやり取りばかりでした。その後ケンシは夢と電話で話したのですが、今までは女性医師が担当をしていたのでその医師の情報はなく、今後を大きく左右するにもかかわらず担当になる医師がどういう人物なのか分からない、さらに一度担当が決まれば簡単に変更出来ないという病院主義もあり、何も出来ない状態が続いていました。そういった必要のない問題に対処するため夢達はセカンドオピニオンを含め今後のことを考えていたのです。

 消灯時間の救急病棟。暗いオレンジ色の常夜灯が眠るおばあさんを照らしています。そしてベッドの隣でパイプ椅子に腰を沈め休むケンシ。その瞳には、おばあさんの体に残る頑張った痕が映っていました。
「ミロクさん、入りますよ。点滴どうですか」
 午後の十時少し前、ペンライトを持って病室に来たのは二十代前半ぐらいの女性看護師でした。今まで何度かおばあさんの担当になった事がある看護師で、明るく和やかな女性なのですが、医療の事になると怖めず臆せず堂堂としてくれるので、夢達にとってとても信頼の出来る看護師です。ケンシは笑顔で会釈をすると「大丈夫だと思います」と小さく声を掛け、座っていたパイプ椅子から立ち上がって道を空けました。看護師も笑顔で会釈をすると、ケンシの前を通り、点滴台に掛けている点滴バッグ内の薬剤の残量を確認しました。そのままベッドの横に掛けている採尿バッグにペンライトの光を当て、おばあさんの状態を確認しました。何も問題は無かったようです。
「じゃあまた来ますね」
 看護師が笑みを向けてそう言うと、ケンシも笑顔で「お願いします」と答えました。
 看護師が病室を出るとケンシはまたパイプ椅子に座り、隣のパイプ椅子に置いていたノートパソコンを膝の上に乗せて開きました。画面から溢れるぼんやりとした青白い光がケンシの顔を照らしました。そこから音楽制作ソフトを起動させるとファイルを読み込み始めたので、ケンシはその間にイヤホンを耳に装着しました。
 ケンシはバンド活動を止めてから、クラシックの音楽を作曲するために楽典や管弦楽法や音楽制作ソフトの操作について勉強してきました。子供の頃から好んでクラシックを聴いていたので触れる事に抵抗は無く、曲を理論的に理解し、その知識を深めて行くに連れて音楽の奥の深さにも魅了されて行きました。ケンシはそんな生活を、おばあさんとの介護生活が始まった今でも変わらずに続けています。
「よし」ケンシは新たな音符を打ち込み始めました。体に流れるメロディーを逃さないように曲を作って行きます。そうやって作曲は順調に進んでいたのですが、ケンシは突然打つ手をピタリと止めました。そしてそのまま宙を見つめ、そっとおばあさんに視線を寄せました。
 ばあちゃんはどんだけの事を諦めてきたんやろ。
 少し疲れの見えるおばあさんの顔を見つめながら、ケンシはそう想いました。介護生活が始まった頃は、上半円の弧を描くように両手を胸元から前へ動かせば背中が熱い、人差し指で片方の目蓋を押さえて目を閉じれば眠たいから寝る薬がほしい、胃瘻のボトルを手で指せばお腹が空いた、何か食べたい物はと聞けば教えてくれたりとおばあさんは色んな事を教えてくれていました。でも今は、そのほとんどの事が表現出来なくなってしまいました。ただ、それは出来なくなっただけでなく、自らそうしなくなったのかもしれません。病気が進み、色んな事を諦めていった結果が目に見えて表れているのです。しかし夢達も決して現実から目を背けず、大好きな仕草が見られなくなったとしても悲観しないようにしてきました。夢達は今を生きるおばあさんと共に一歩一歩踏みしめているのです。

 起床時間の午前六時。人や物の音が次第に増えて行き、朝の空気が広がります。そんな中、一時間ほど前に起きていたケンシが椅子に座りおばあさんの寝顔を見ていると、女性の声が聞こえました。
「顔拭くタオルここに置いときますね」
 病室に来た担当の看護師が、ビニール袋で密封された蒸しタオルを持ってきました。
「ありがとうございます」ケンシが会釈をしながらそう言うと、看護師はサイドテーブルにタオルを置き、「後で血圧とか見にきますね」と伝えました。ケンシが「はい」と返事をすると、笑顔を向けた看護師は会釈をして病室を出ました。
 ケンシは床頭台の上のリモコンを手に取ると、テレビの電源を入れてチャンネルを順番に替えて行きました。おばあさんが決まった時間に起きられるようにと、いつもテレビは朝の六時につけるようにしています。最後にケンシは毎朝見ている情報番組にチャンネルを合わせ、リモコンを床頭台の上に戻しました。音量を下げたテレビの画面の向こうから出演者達の元気な声が聞こえてきました。
「ばあちゃん。おはよう」
 ケンシはおばあさんの顔の前で笑みを浮かべ、囁くように朝の挨拶をしました。眠っていたおばあさんはパッと目蓋を開き、そしてそのまま十秒ほど経つとまた目蓋を閉じてしまいました。
「ばあちゃん」
 また、おばあさんの目蓋がパッと開き、今度は薄らと眉間にしわを寄せて不機嫌そうな表情をしました。ケンシは笑い出しそうになったのを堪えようと唇をキュッと閉じました。寝ているおばあさんを起こすと、時時このような表情になるのです。目を覚ましたおばあさんは「ふわぁーっ」と大きな口を開けてあくびをしました。ケンシは一瞬幸せそうな笑みを浮かべたのですが、その笑みを残しながらも心配そうな表情に変わってしまいました。以前と違い、おばあさんのあくびの瞬間は気を付けて注視しなければいけないものになってしまったからです。今のおばあさんは上の奥歯が無いので、勢いよく口を閉じると、下の前歯がダイレクトに上の歯茎に当たってしまうのです。想像以上に強い力なので、歯茎が傷付いているのではないかと以前から心配していました。そのため夢達は今回の入院中に歯科で診てもらおうと考えています。長いあくびが終わるとおばあさんの目は涙でほのかに赤らみ、唇を閉じたまま頬と口をモゴモゴモゴモゴと動かし始めました。眠りの前後や眠っている時の人の様子は子供のように無垢で、今のおばあさんもそんな表情をしています。
 次にケンシは採尿バッグにつながっている二本の尿道カテーテルを持ち上げました。その作用で膀胱内にあった尿が流れ出てきたのですが、昨日と変わらず血液が混ざっていました。ただ、尿管に通したステントにつながる採尿バッグと、膀胱につながる採尿バッグに排出された量は十分なので治療は順調に進んでいます。
 量の確認を終えたケンシは最後に尿管ステントから出ているカテーテルのチェックを行いました。このカテーテルは今まで使用していた物とは違う形状をしていて用途も違うので、ケンシは不安を抱いていました。体外に出ている部分は直径二ミリほどしかなく、血尿と一緒に排出される凝固した不純物で、カテーテルが詰まりそうになった事があったからです。その上、手術をする直前まで血液をさらさらにする薬を使っていたので出血があると中中止まらず、その出血や感染等が原因で尿が濁り、この二ミリの管の中を尿が流れる際に、凝固したその濁りが管の中で引っ掛かり詰まってしまうのです。
 それぞれのチェックを終えたケンシは視線を上げ、テレビの画面に目をやると六時十分と表示されていました。家の習慣では起床時に行う歯磨き等はもう少し遅い時間から始めるので、それまでの時間はいつもおばあさんと二人でのんびりと過ごすひと時にしています。
「失礼します」
 女性の声と共に入り口のカーテンが開くと、担当の看護師が病室に入ってきました。
「おはようございます。血圧と体温測りにきました」
 ケンシは看護師に「おはようございます」と笑顔で挨拶をしました。
「おはようございます。ミロクさん、体温計挟みますよ?」
 そう声を掛けた看護師は、サイドテーブルに置いてある体温計を手に取り、おばあさんの右脇に挟みました。浅い眠りに入っていたおばあさんは誰かに触れられたと感じ、目を開こうとしたのですが目蓋はピクリともせず、眉が上がっただけでした。その様子を見ていたケンシは綱引き状態になったおばあさんの表情が可笑しくて笑い出しそうになり、グッと唇を閉じて声を喉の奥に押し込めました。
「これ、すごいですね。私見たこと無いですこのタイプ」
 おばあさんの患者衣の袖をまくって血圧を測ろうとしていた看護師がそう言ったので、ケンシが視線を上げると看護師はおばあさんのカニューレに付いている風船状のバルーンを見ていました。気管カニューレの先に付いている風船状のカフと、このバルーンは繋がっています。カフは、空気を入れると気管内で風船状に膨らみ、唾液等の誤嚥が起こらないようにその道を塞ぐ役割をしていて、このバルーンはその空気の量を調節するために付いています。今おばあさんが使っているカニューレはこの病院では取引していない会社の製品なので、入院するたびに家に常備しているカニューレを病院に持ってきているのです。
「そうですよね。目視で調節出来るんで楽なんですよ」
 ケンシがそう答えると、看護師は「へぇー」と何度も小さく頷きました。そのままケンシは「でも」と話を続け、カニューレに目をやりました。
「カニューレって、もっと進化してほしいですよね。喉に入れる時痛そうやし。その回路とカニューレ付け方甘かったら自然に外れるし」
 喉のカニューレと回路の接続部は、筒状のカニューレと、それよりも少し大きな筒状の回路を差し込むだけの構造で、差し込み具合によっては自然に抜けてしまう事があります。その上、定期的に交換するカニューレと回路は、全く同じサイズで全く同じ製品を使っているのですが、その一つ一つに僅かな差があるので、カニューレと回路の接続部の差し具合が毎回変わってしまいます。ケンシはその変化に気付きやすいので、交換の度に差し具合を確かめ、変化が大きければ夢達や訪問看護師に報告をしています。さらに夢達は、訪問看護師が帰った後は必ずその差し具合を確かめるようにしています。看護師がその変化に気付かず、交換前と同じ感覚でカニューレと回路を取り付けてしまい、回路内に流れる空気の圧だけで外れてしまうといった事が何度かあったからです。
「ぽろっと外れたりしますもんね」
 看護師がそう言うと、ケンシは少し頬を上げ「そうですね」と頷き、「誰か作ってくれたらいいんですけどね。絶対売れそうな気がします」と言いました。すると看護師は「じゃあ一緒に事業しましょうか!」と冗談っぽく言ったので、ケンシは思わず笑顔になり、「やりましょか」と冗談に乗って返しました。ケンシは夢達以外の人とこんなふうに話す事はあまりないので少し新鮮さを感じました。
「あ、ミロクさん今日の午後七階に移れそうです」
「あ、ほんまですか? 良かったです」
 看護師が笑みを浮かべそう伝えると、ケンシも笑顔でそう答えました。
「じゃあミロクさん、血圧測りますね」
 看護師はおばあさんの左腕に帯をしっかりと巻き、聴診器を装着すると帯に空気を入れ始めました。おばあさんはまた、大きく口を開きました。

 泌尿器科の病棟に移ってからも、おばあさんは順調に回復して行きました。病室は前回と同じ個室で、今おばあさんは夢と二人でのんびりと過ごしています。
「おば様、はい」
 ベッドの頭を上げて座った状態のおばあさんは、そう声を掛けた夢の顔を見つめながら口を開きました。夢はスプーンでほんの少しだけすくったプリンをおばあさんの口の中にそっと運び込みました。おばあさんは表情を変えずにモゴモゴモゴと口を動かしました。実際に食べるわけではないので、少量を舌の上で味わっています。
「おいしい?」
 頬笑んだ夢がそう聞くと、おばあさんはフンフンと声を漏らしながら小さく頷きました。このような食事はいつも行っていた事ではなく、今日が初めてです。少しでも脳に刺激が行けば認知症の進行が遅れてくれるのではないか、そしてそれだけでなく、今を楽しんでほしい、夢達はそう想ったからです。
「取るね、おば様」
 夢はコップの中の水に浸しておいたスポンジブラシを手に取り、おばあさんの口の中を丁寧に拭って行きました。
「今度はキャラメル多めでどうかしら?」
 夢がニコニコと笑いながらそう言うと、おばあさんは「あっ」と口を開きました。夢は「はい」と声を掛け、スプーンで少しすくったキャラメルソースをおばあさんの口の中にそっと運び込みました。またおばあさんの口はモゴモゴモゴと動き出し、夢はそんなおばあさんを嬉しそうな表情を浮かべながらそっと見つめました。
 そんな穏やかな時間を過ごしていると、「失礼しまーす」と担当の女性の看護師の声が聞こえました。そして病室に入った看護師は二人を見るなり笑顔になり「あ、三時のおやつですか?」と言いました。夢は看護師に笑みを向け「はい」と答えました。
「美味しそうですねぇ。甘い物好きなんですか?」
 すると夢は「うーん」と宙を見つめ、どう答えようか悩んでしまいました。
「特別ってわけではないんですけど、でも最近は昔よりも食べています。プリンが好きみたいです」夢が笑顔でそう言うと、「へぇー」と看護師は何度も頷きました。
「あ、どうぞ」夢は看護師にそう声を掛けると、スッとパイプ椅子から立ち上がり、通る道を空けました。
「あ、ありがとうございます」
 看護師は会釈をしながらそう声を掛けると、夢の前を通ってベッドの横にやってきました。看護師はおばあさんの尿道カテーテルを持ち上げ管の中の反応を確認しました。変化が無いと分かると今度は採尿バッグを傾け、排出された尿の量を確認しました。
「良かったですね。色も良くなって、もろもろも大分無くなりましたね」
 看護師がそう話し掛けると、夢は「良かったです」と答え、嬉しそうに頬笑みました。
「じゃあ後でおしっこ取りにきますね」と看護師が夢の前を通りながら二人に声を掛けると、夢は「はい、お願いします」とおばあさんの顔を見つめながら返事をしました。
 次にベッドの反対側に移動した看護師は、習慣付いたように腰に掛けているポーチの中の容器に手をやり、そのポンプを押して液体を手のひらに出しました。
「アルコールですか?」
 ふと気になった夢はその容器に目をやりながら看護師にそう尋ねました。
「そうなんですよ。保湿してくれるんで荒れないんですよ」
 看護師はそう答えながら両手全体にアルコール製剤を擦り込んでゆきました。
 夢は初めて知ったその製品を見つめながら「へぇ」と頷き、そのままパイプ椅子に腰を掛けました。アルコール製剤に保湿剤を含有すれば、石鹸等を使用して洗った場合よりも手が荒れにくくなります。
「石鹸で洗うよりも今はこっちの方が良いんですよ」
 看護師がそう言うと、夢は感心したように「へぇー、そうなんですか」と何度も小さく頷き、初めて聞いた話でアルコール製剤と石鹸に対するイメージが変わりました。
 世界保健機関、WHOが出した手指衛生に関する指針によると、手洗いには石鹸等よりもアルコール製剤を使用した場合の方がメリットは大きいそうです。ただ、目に見える汚れがあった場合は石鹸等での手洗いが必要で、また、一部のウイルス等についてはさらに違った方法を取らなければいけないそうです。
 しかし、夢が聞いた看護師の話やWHOの指針の一部を見ただけでは、手が荒れるまで頑張らなくてもアルコール製剤だけで良い、むしろアルコール製剤の方が効果的なので緩和する、と理解してしまうのですが実際はそうではありません。こういった手指衛生のためのガイドラインが存在するのは、先進国や後進国である開発途上国の過半数の人が行なっている手指衛生がそもそも不十分で不適切であるからです。そのため、丁寧に手洗いを行ってきた人であれば手荒れを回避出来る喜ばしい指針になるのですが、それが不十分で不適切だった過半数の人にとっては手指衛生の意味を再確認するようにと指摘された指針となるのです。

 入院してから三週間が経ちました。入院と同時に開始した薬剤での治療には不安もありましたが、おばあさんが頑張ってくれたおかげでそれも無事に終わり、退院出来る事になりました。いつもなら、治療が終われば晴れた気持ちで退院する日を迎えるのですが、今回は問題を残したままとなります。さらに今後の事について行う病院側との協議もまだ残っています。
 午後六時。少し早めに仕事を終えたケンシがおばあさんの居る病室へ帰ってきました。泌尿器科の医師が今後の事について話し合いに来ると夢から聞いていたので、ケンシはおばあさんの歯磨きや水分補給等を早めに終わらせると、ベッドに腰を掛け、体や手足の関節をマッサージしながら、いつ来るか分からない医師を待つ事にしました。
「この前リハビリの先生がな、自発呼吸がな、良く出るようになったって言っとったで。良かったな、ばあちゃん」
 おばあさんは天井に目をやりながら、ケンシが行う背中のマッサージでゆらゆらと揺れています。体を動かせて気持ちが良いのか、動物の様に大きなあくびをしたり、閉じた口元をモゴモゴと動かしたりしていました。
「ばあちゃん頑張ったな。スゴいなばあちゃん」
 おばあさんを見つめながら頬笑むケンシの心の中は、感謝の気持ちで一杯です。
「絶対治そなばあちゃん。一緒に頑張ろな。ごめんな。頑張ろな」
 ケンシは少しずつおばあさんに自分の想いを伝えて行きました。
「次は手やろっか!」ケンシはそう声を掛けると背中のマッサージを終え、おばあさんの右手首と右肘を手に取りました。そして「グーッ」と声を掛け、ゆっくりと時間を掛けて手首と肘を曲げて行きました。ケンシ達はいつもおばあさんとこんな風に会話をしながらマッサージをするのです。
 そんな和やかな時間を過ごしていると、カーテンの開く音が聞こえました。
「ミロクさん」
 手を止めたケンシがその男性の声の方に振り返ると、泌尿器科の担当の医師がドアの向こうに立っていました。ドアの半分はガラスなので廊下の状況はすぐに分かります。
「ちょっと待っとってな」
 ケンシはおばあさんにそう声を掛けると、ゆっくりとベッドから立ち上がりました。医師との話はすぐに終わりそうもないので、ケンシはおばあさんにそっと布団を掛け、おばあさんの顔に目をやりました。おばあさんの視線はテレビの方を向いていました。
 病室のドアを開けた医師が顔を出して「今大丈夫ですか?」と声を掛けたので、ケンシは会釈をしながら「どうぞ」と答え、そのままベッドの反対側へと移動しました。医師もケンシに会釈をすると、病室の中に入りました。
「血液検査も良くなっていました。色も良いですね」
 医師は中腰になり、ベッドの横に掛けている採尿バッグを見ながらそう報告しました。定期的に行われていた血液検査の結果も良くなっていたので、感染症に関する薬の投与を一度止め、そこから一週間後の血液検査で問題が無ければ退院という事になっていました。ケンシは笑みを浮かべ「ほんまですか? 良かったです」と答えました。
「はい。ではどうしましょうか?」
「今後の事ですか?」とケンシが尋ねると、医師は「はい」と返事をしました。
「理想としては、結石が出来なかった一年の時期があるんで、そこに戻したいんです。丁度その一年の最初と一年後で検査してますから」
 ケンシが簡潔にそう伝えると、医師は小さな笑みを浮かべて言いました。
「でも石は出来ますからね」
 正確に伝わったのかどうなのか分からなかったので、ケンシは具体的に話しました。
「前に結石が出来た後、クランベリーを使ったり色色試していったんです。この結石の時はこの方法でだめやったから次はこうっていうふうに。それは画像検査ごとに変えていったんで。何をすれば良いか分かってますから画像見ながら話して、やってみたいんです」
 ケンシはそう説明しながら医師の反応を見ていたのですが、小さな笑みを浮かべたままで、素人の意見として一応聞いている、そんな医師の気持ちが透けて見えました。
「でも石は出来ますからね」
 医師は、もう一度同じ言葉を発しました。
 この一連の会話でケンシの中に、ある疑問が生まれました。
 何故、画像の話を避けるのか。
 ケンシは、おばあさんに褥瘡が出来て入院した際に、当時の泌尿器科の担当医師から「体内にあった結石は一年間大きくならずにそのままの状態を維持しています」と画像検査の結果の報告を受けていました。その画像を使いながら説明すれば、自分達の想う方針と、病院側の出来る事と予後を比較する事が出来ると考え、ケンシは今画像の話をしているのです。しかし、ICUで話した時と変わらず今の担当の医師では足踏み状態です。
 医師は両手を腰に置き、ケンシの反応を見ながら話を進めました。
「今回はステントを残したまま一旦退院で?」
 ケンシは間を置かず「そうですね」と答えました。結石に対して何か行動を起こすとしても、おばあさんの体力の事を考えると一度時間を空けた方が良いと夢達は考えていたのでその事には異論はありません。「そうですか、良かったです」と医師は嬉しそうに言いました。
「後、退院の日は決まりましたか?」
 医師のその質問に、ケンシは宙に目をやり考えながら答えました。
「この後電話があるかもしれないんで、多分、今日か明日には決まると思います」
 医師は「分かりました」と返事をすると、明るい調子になって話し出しました。
「じゃ、決まったらまた僕か看護師に伝えて下さい。とりあえず今回は一旦このままで。毎日僕来るんでその時にまた話を」
 ケンシは頬だけを上げ「分かりました」と同意しました。もう少し自分達で判断材料を探す必要がある、この話し合いでそう至ったからです。
 医師は満足したように頷き、ケンシに言いました。
「よし! ではまたお願いします」
「はい、お願いします」
 ケンシは軽く会釈をしてそう返事をすると、病室を後にする医師を見送る事なく元に居たベッドの横に戻り、そのままおばあさんの顔に視線を寄せました。おばあさんの顔はテレビの方を向いていたのですが視線は宙を見つめていました。おばあさんは、ベッドの周りで複数の人が立ちながら話し合いをしている、そんな状況になるといつもこのように警戒してしまうのです。おばあさんは今、きっと自分にとって明るい話ではない、そう感じているのかもしれません。
「話終わり!」
 ケンシはおばあさんの視界に入り、笑顔を向けてそう声を掛けました。
「帰ったらのんびりしよな」
 ケンシはそうささやくと、人差し指でおばあさんの頬をツンツンと突きました。するとおばあさんは閉じた口元をモゴモゴと動かし、ケンシの笑顔に視線を寄せるとフワッと頬を上げました。
 介護生活の中でおばあさんと過ごして行くうちに、夢達がおばあさんへ向けて気持ちを表現する時に行うコミュニケーションの形が変わって行きました。それは手を握ったり、頬と頬を重ねたり、額にキスをしたり、触れる事を大切にしたとても愛情深い表現です。
「よし、ご飯にするか!」
 ケンシはおばあさんに向けてニカッと笑いました。

「ケンシ! 夢から電話!」
 奥の部屋に居たオッカが、魚屋の店先に出ているケンシにそう呼び掛けました。
「どうした? 何かあったか?」
 走って部屋に戻ったケンシは長靴を脱がずに畳に膝をついてオッカにそう聞きました。オッカは笑みを向け、慌てるケンシに携帯電話を差し出しながら言いました。
「おむつ追加でよろしくだって」
「おむつ? ああ」
 ケンシは笑みを浮かべ、何度も小さく頷きながら携帯電話を受け取りました。
「もしもし。うん、分かった。今日? 分かったありがとう。んじゃばあちゃん頼むな」
 ケンシは携帯電話を耳から離すと電話を切り、オッカに話し掛けました。
「今日また話すわ、医者と」
 ケンシはそう話しながら携帯電話を机に置くと、膝を畳から離して立ち上がりました。
「一昨日言ってた話かい?」
 オッカがそう聞くと、ケンシは「そう」と頷きました。
 夢がケンシに伝えたのは、尿道カテーテルから尿が漏れたので替えのオムツを余分に持ってきてほしいという事と、担当の医師が今日また話し合いに来るという事でした。
「夢が昨日色色調べてな、近くの泌尿器科でちょっと良さそうな病院があんねん。退院してから手術出来るか相談に行ってみよかな思てな」
「そうかい。時間が決まったら言えばいいよ。いつでもここは空けて良いから」
「おう、サンキュー」
 店先に居る客に気付いたケンシは、オッカにそう声を掛けなが客の元へと走って行きました。オッカは明るく振る舞うケンシの背中を見つめながら、守ってきた決意を新たに抱きました。最近では、手術が成功するかどうか、薬が効くかどうか、これから進んで行く道が見えてこない、そんな形の無い焦りや不安がありました。しかし、夢とケンシはそれでも力強く前に進んで行きます。そんな二人の姿を目の当たりにしたオッカは、今自分がすべき事、今自分が出来る事、やっぱりそれは夢とケンシへのサポートなんだと実感したのです。オッカはタンスの上に飾った頬笑むミゲロの写真を見つめ、そっと話し掛けました。
「あんたは見守ってくれてるだけで充分さ。姉さんの事、頼んだよ」
 オッカは少しの間だけ、写真の中のミゲロと話をしました。何かを想い出すわけでもなく、ただ温かな、時の無い時間が流れました。そして深く肺に空気を入れたオッカは頬笑み、「よし」と声を上げながら机に両手をついて立ち上がると、部屋の隣にある台所へ入って行きました。オッカは冷蔵庫を開け、そのまま壁の時計に目をやると十一時前を指していました。十一時半になるとケンジが車で魚屋に来る事になっています。オッカは冷蔵庫に視線を戻すと、冷蔵庫の中からコーヒープリンを取り出しました。おばあさんはコーヒーが大好きです。オッカは冷蔵庫を閉めると、コーヒープリンを机の上に置きました。机の上には他にも、ケンジの分も含めた三人分の昼食が入った弁当箱と、店番をするケンシに作った絹ごし豆腐入り親子丼がありました。ふとそんな光景が目に入ったオッカは、なんだか嬉しい気持ちになりました。

「大丈夫ですよ。どうぞ」
 ケンシがそう声を掛けると、泌尿器科の医師が会釈をしながら病室に入ってきました。 医師は、数日前と同じように採尿バッグの中を確認し、「うんうん」と頷くと、いつもと変わらない様子でケンシに話し掛けました。
「退院決まりましたね。明後日ですか?」
「はい。明後日の十一時に車が来ます」
「分かりました」と医師は二、三度頷くと、そのまま話し出しました。
「ステント残したままなので、また交換する必要がありますね」
「三か月ぐらいでしたっけ?」
「そうですね、ただミロクさんの場合、石が出来やすいので早めの方が良いですね」
「そうですか」と呟くように返事をしたケンシは、腕を組んで考え出しました。ステント交換の時期を考慮すると、今後の治療の方針は出来るだけ早く決めなければいけません。ある程度方針が定まればステント交換の時期に合わせて手術出来るのですが、何も決まらなければ通院と入院を繰り返す事になり、おばあさんの体力が無駄に落ちてしまいます。そのためにもケンシは退院の日が来る前に、この病院で何が出来るのか、目の前に居る医師からハッキリとした意見を聞こうと考えていました。
 ケンシは数日前に話した事を、もう一度医師に伝えました。
「一応今回はこのまま帰るんですけど、次の交換までに治療も進めたくて。やっぱり結石が無い状態で維持出来てた一年の画像があるんで。少しでもそっちに近付けたいんです」
 しかし、医師は数日前と同じような笑みを浮かべ、頷きながら聞いているだけでした。
 ケンシは話を続けました。
「画像があると思うんで。結石が出来る原因は色色あるとは思うんですけど、その時点ではそれが成功してたんで、回数を分けて石を取って、その後そこに戻したいんです」
「それでも、石は出来るんですよ」
 家族の意見を聞いても医師はそれ以上話さず、結局同じ言葉を返しただけでした。話を進めるためにケンシはハッキリとした言葉を使う事にしました。
「画像を見て判断したいって言ってるんですけど見る事も出来へんし、ちゃんとした説明も受けれてないんで」
「分かりました。じゃちょっとパソコンのある部屋で」
 医師は突然対応を変えました。ケンシが伝えた、ちゃんとした説明を受けていない、とは、インフォームドコンセントが満たされていない、という事です。医療従事者は患者側が理解出来るように明確な説明を行い、患者側は理解出来るまで質問をし納得をする、その上で治療の拒否を含め選択をし同意する、この説明と理解は医療従事者側にある努力義務として医療法に明記されているのです。さらに、複数ある治療方針を患者側が選択出来る場合もある、それはつまり、治療方針という正に人生の選択を患者側が主体となって責任を持ち行えるという事です。
 医師は先に病室を出ました。ケンシはおばあさんのカニューレに耳を近付けて呼吸音を聴き、一時的に側を離れても大丈夫なのかどうか確認しました。音を聴いた限りでは、空気は抵抗無く肺にまで流れているので、今は吸引の必要はなさそうです。
 ケンシはおばあさんの視界に入り笑顔を見せました。
「五分か十分したら帰ってくるから、待っててな」
 ケンシが囁くようにそう話し掛けると、おばあさんはケンシの顔を見つめました。
「じゃあ、行ってくるわな」
 ケンシは頬笑みながらそう声を掛けると、おばあさんの視界にテレビの画面が入っているかどうか確認し、体が冷えないように毛布を掛け、そっと病室を後にしました。
 ケンシが廊下に出ると、医師はナースステーション内にある八畳ほどの部屋に居ました。そこには机と椅子とパソコンが置かれていて、ケンシが部屋に入ると、医師は椅子に座りながらキーボードを打っていました。パソコンに入力していたのはカルテ等の情報を開く時に使う従業員の個人識別番号のようです。ケンシが椅子に座ると、医師はおばあさんに関するデータをパソコンに表示させました。ケンシが画面に目をやると、そこに表示されていたのは血液検査の結果でした。検査を行うごとに結果は良くなっていて、点滴を止めた後でも悪化せずに良い状態を維持していました。
 ケンシは「そうですね」と頷き、「見た目でも良くなっていってたんでこれ見て安心しました。で画像は?」と話を進めました。
「あ、そうですね」
 ケンシにそう聞かれた医師は別のフォルダを開くと、中にあるファイルに目をやりながらその過去の画像データを探し始めました。ケンシは待っている間、いつの時期の画像か思い出そうと視線を落として考えていました。
「これですね。見て下さい! ケンシさん!」
 医師の声は自信有り気で威圧的でした。考え込んでしまっていたケンシは医師の声に気付き、「あ、はい」と返事をするとパソコンの画面に目をやりました。そこには白く写った結石がある腎臓の画像がありました。医師はケンシが見た事を確認すると、もう一枚の画像データを画面に表示させました。ケンシに見せたのは、結石が小さかった過去の画像と、大きくなった現在の画像でした。今は大きな結石が形成されているので、当然その二つを比べれば大きくなっています。しかし、ケンシが医師に何度も言っていたのは、体内の結石が変化しなかった一年間を表す二枚の画像データの事です。ケンシは医師の対応に違和感を覚えました。
「これじゃなくて、一枚ずつ見れますか?」
 ケンシは表示された画像に視線を向けたまま淡淡とそう話しました。医師が何を基準にして二枚の画像を選択しているのか分からなかったので、ケンシはデータの日付を参考にしながら自分の記憶を頼りに一枚ずつ見て探そうと考えました。
「はい」
 医師はそう返事をすると、別の二枚の画像データを交互に表示しました。
「これですね」
 医師がそう言ったので、ケンシはその二枚の画像に目をやりました。どうやら日付を確認する必要はなかったようです。ケンシは二枚の画像を目にした瞬間、当時見た腎臓の画像だとすぐに分かったのです。そしてケンシはもう一つの事実に気付きました。ケンシが何度も言っていた一年の期間を医師は把握していたという事です。特に時期を指定していないにも拘らず、二つの画像をすぐに出せたのがその証拠です。一度形成された結石が一年間変化する事なく維持出来たという事実が、担当の医師にとっては都合の悪い事だったのかもしれません。そしてケンシの中にあった担当の医師に対する不信感はさらに強くなりました。
 ケンシは医師に尋ねました。
「変化は無いですよね?」
「そうですね、結果的には」
 結果的には。医師は一体何を否定したがっているのかケンシには分かりませんでした。
 ケンシは続けて、自分達の考える方針をもう一度医師に伝えました。
「ここからまたチャレンジしたいんです。でもこのままやと石は残ってるんで、回数分けて取っていきたいんです。他に石取る方法はありますか?」
「何回か行った、尿道から内視鏡を使ってする手術はあります。それをしないと命に関わる最悪の場合、背中から内視鏡を通して行う事もあります。でもその手術に耐える体力があるか心配です。もう一つは外側から衝撃波を当てて砕く方法があるんですけど、ここには機械はあるけど今は使ってないんです」
 医師は病院側の見解として、尿路結石に対して行う三つの手術について説明しました。当然、病院側が説明しなければいけない事柄なのですが、それを求めても取り合わず、さらに画像の開示を求めても応じず、医師が行ったこれらの事は弊害でしかありません。
 しかし、これでやっと夢達は動く事が出来ます。どうしても確認しておきたかった、変化せず維持出来ていた一年を証明する腎臓の画像、その客観的データを見る事が出来たのです。残る問題は右側の腎臓内にある結石の除去です。それはつまり、その手術を行うのに最適な病院を探すという事、そしてこの病院を離れるという事です。しがらみなどどうでもよく、おばあさんの命が最優先なのです。
 ケンシは、目の前の世界が明けたような、そんな心の軽快さを感じました。

 話を終えたケンシはおばあさんの病室に戻るとすぐに人工呼吸器のディスプレイに目をやりました。何も問題は無かったようで画面はいつも通りでした。そのままおばあさんの側に寄ると、呼吸音に異常が無いかどうか確認しました。呼吸の音は綺麗で異常はありません。安心したケンシはベッドとテレビの間に移動すると、嬉しさが溢れている自分の顔をおばあさんの視線に入れ、ニカッと大きな笑顔を向けました。
「ばあちゃん、お疲れさん。終わったよ」
 おばあさんはケンシの姿が見れて嬉しかったようで、ほわっと笑顔になりました。

 いつだってそうです。
 大切な人への想いがあれば、どこへだって飛んで行ける大きな力が溢れてくるのです。
 そして、大切な人の笑顔があれば、何にだってなれるのです。
 夢達にとって、おばあさんの存在は希望そのものなのです。

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