美しきこの世界

Rickey

二十六

 日が落ちると昼間の蝉の壮健な声も静かになり、草木の音が響き出します。人に媚びず、螺旋のままに生きるものたちの自然の響き、そこでは人は無なのです。
 そして眠るクイナの町。今日も同じようにおばあさんの部屋では、常夜灯の光と人工呼吸器のディスプレイから漏れる光が二人を包んでいます。
「んー」
 仰向けに眠るおばあさんの横であぐらを組むケンシは、どうしようかと思案していました。おばあさんの視界に入る場所で就寝しようとケンシは決めていたのですが、どの姿勢で眠れば良いのか中中定まらないようです。しかしそれも無理はなく、前回の入院まではおばあさんのベッドの高さは一番低い位置まで下げる事が出来ていたので、ベッドの横で寝ていればお互いの顔は視界に入っていました。お互いの視線の高さが同じだと、見える世界も同じで心が近くなれたような気もしていました。しかし今は採尿バッグをサイドレールの底部に取り付けています。ベッドの高さを下げ過ぎると採尿バッグが床に付いてしまい、採尿バッグ自体が不衛生になってしまうので、以前のような事は出来なくなってしまったのです。
「ん、これは」
 ケンシは床の上で膝を崩し、おばあさんのベッドにうつぶせになってみました。その姿勢は思っていたよりも寝やすく、ケンシの頭の位置も人工呼吸器に近くなったので、仮にアラームが鳴ったとしても遅れる事なく対応出来そうです。そして何よりも、おばあさんの顔がすぐ近くにあります。ケンシは何だか幸せな気持ちになれました。ケンシはその姿勢のまま、おばあさんの手の甲にそっと自分の手のひらを重ねました。自分の姿が見えなくても、重ねた手から存在を感じ、安心して眠れるのかもしれないと思ったのです。
 こんな事は今回だけでなく、ケンシはこれまでにも就寝時の姿勢を色色と試してきました。普通に横になって布団で寝るといったことは選択にありませんでした。ただ、この事は誰にも言っていません。所所で睡眠を取れていたとしても、これは健康的な睡眠の姿勢ではないからです。ケンシも夢と同じように、自分の事を後にしてしまうのです。
 しかし、患者だけでなく介護を行う人の心と体の健康も大事です。患者と介護を行う人、その二つの健康が安らぎと笑顔を生む一つの要素となるのです。もちろん夢もケンシもそれを理解しているのですが、二人は変われません。むしろ変わろうとしていないのです。なぜ二人はそうするのか。それは、両親の介護の末、心に残った大きな後悔を最後まで抱き続けようとしているからです。夢は届かない空に手を伸ばすように理想を目指し、ケンシは他人の私情に巻き込まれ、信頼出来る介護環境を作れず父と自分を殻に閉じ込めてしまい、思うように歩めなかったそれぞれの後悔。大切な人を想う二人は、生まれたその後悔をも胸に抱いていたいのです。そしてその後悔が、今の二人を突き動かすのです。
 一日だけでもいいからおばあさんよりも長く生きたい、もしそれが叶うのならばその後の自分はどうなろうとかまわない、二人は本気でそう想っています。そして、他の誰がなんと言おうと、そうあれることが間違いなく二人の幸せなのです。誰も二人を変える事は出来ないのです。
 常夜灯の下、ケンシはベッドのサイドにもたれて座り、遠い夜空を見つめていました。

 早朝。空の白い光が、ベッドに座るおばあさんの膝元で反射しています。部屋の照明をつける必要もないくらいに爽やかな光が射し込んでいるのです。そして今日も家の外では生きる活動を始めた蝉達がガラス戸を突き抜けるほどに声を上げています。
「ばあちゃん、あれ見てみるか?」
 ケンシは笑顔でそう言うと、部屋の隅に設置したデスクに手を伸ばし、スリープ状態のデスクトップパソコンを起動させました。そしてインターネット上から目当ての映像を探し出すと、無線で繋いだテレビにパソコンの映像を流しました。嬉しさを堪えきれず笑みを零したケンシは急いでおばあさんの顔に目をやりました。
「笑ってる」
 テレビに流れる映像に気付いたおばあさんの頬が、ふわっと上がったのでした。
 ケンシが流した映像は、以前放送されていたテレビのコマーシャルです。日用品の製品をイメージしたオリジナルの歌が田舎の映像と共に流れ、そこで暮らす老齢の女性が満面の笑みを浮かべるのです。そして何故かおばあさんはこのコマーシャルを見ると必ず笑顔になるのでした。老齢の女性の笑みにつられるのか、おばあさんの母親に似ているので嬉しくて笑うのか、どうしてなのかと時時夢達の会話に上るのですが分からないままです。
 ただ、今のようにおばあさんの笑顔が戻るまでは、誰もこの映像を流そうとしませんでした。この映像を流し、必ず大きな笑顔を見せてくれていたおばあさんが反応しなかったら、そう思うと怖かったのです。
 コマーシャルが終わるとケンシは別のコマーシャルを探し出し、そのままテレビに流しました。またおばあさんの口角がふわっと上がり、その顔を見たケンシもまた笑顔になりました。
 ケンシが流した映像は十歳ほどの男の子が製品をイメージした曲を歌う、ただそれだけのコマーシャルです。この映像を見ておばあさんが笑うのは歌っている男の子がケンシに似ているからかもしれないと、以前夢が言っていました。このコマーシャルが流れた時、おばあさんは笑みを浮かべながら庭に出ていたケンシとテレビの中の男の子を交互に指差していたからだそうです。
「あ、来た」
 録画しておいた番組を見ようとケンシが選んでいるとインターホンが鳴りました。玄関の扉の開く音と共に「おはよう!」と陽気で元気な夢の声が家の中に響くと、再び玄関の扉の閉まる音が聴こえ、トトトトト、と廊下を急ぐ足音が鳴り、その音はそのまま台所へ入って行きました。
「ばあちゃんちょっと待っとってな」
 ケンシはそう声を掛けると、小走りに台所へ入って行きました。
「おはよう」
 ケンシがそう挨拶をすると、手を洗っていた夢は笑顔で振り返りました。
「おはよう! お菓子と本持ってきたわ」
 夢はそう返事をすると、机の上の紙袋に目をやりました。ケンシは思わず「お!」と声を上げ、ガサガサッと紙袋を手に取り中を覗き込みました。中にはアイッキラーの本と夢がいつも食べているお菓子が入っていました。ケンシは本を取り出すと、未知への空間へのハブ空間、というタイトルに目をやりました。
「何これ? 長いなタイトル」
 夢はタオルで手を拭きながら本を覗き込むと、本のタイトルにある空間の文字を指差しました。夢はタオルを机の上に畳んで置くと、ケンシに視線を向けて声を上げました。
「ここが大事なの。今回の物語はアニメの様なバトル!」
 夢は勇ましい顔を作るとグッと握った拳をケンシに向け、意気揚揚と暖簾をくぐり台所を出て行きました。少し驚いた表情をしながら夢を見送ったケンシは、本を開いてパラパラとめくり、「へぇー以外」と呟きました。ケンシはそのまま数行読むと、ふと台所の壁の時計に目をやりました。時計の針は八時半を過ぎた所でした。ケンシは本を閉じて机の上に置くと、木製のスツールの椅子に乗せてある炊飯器の蓋を開け、木製の食器棚に目をやりました。
「丼でええか。昨日は鮭とシソやな」
 そう言って炊飯器の中身を確認すると、茶碗に盛るには少し多いぐらいの白飯が残っていました。ケンシは食器棚から丼鉢を取り出し、冷蔵庫にある塩焼きさばのほぐしが入った瓶とシソのふりかけが入ったチャック袋を取り出しました。そして丼鉢に炊飯器の白飯を一粒残さず盛ると、その上にシソのふりかけと焼きさばのフレークを満遍なくまぶせました。最後にアイスコーヒーを用意し、「いただきます」と声を掛けると、丼鉢の白飯を勢いよく口の中に放り込んで行きました。「うまい」満足そうな声を零しながら丼鉢の半分まで食べ終えると、夢が暖簾の間から顔を出しました。
「今日はっちゃんが来るの。オッカさん夕方に戻るの遅くなるかもしれないわ」
「ええよ。配達ないし」
 ケンシはそう言うと、頬で抑えていた口の中の白飯を飲み込みました。
「それとヘルパーさんの事なんだけど」夢がそう言うと、丼鉢を机に置いたケンシは「朝は十時やな」と答え、箸でアイスコーヒーをかき回しました。
 訪問の依頼をしている介護従事者や訪問看護師には、予定の時間通りに来てもらっています。人によっては予定よりも早い時間に訪れることがあるのですが、訪問先は公共の施設ではなく人の家です。基本的に他人に入ってほしくない空間なので、予定の時間よりも早い訪問があると患者や家族が慌てなければいけない事もあるのです。例えばおばあさんの家の場合インターホンを到着の合図として使い、その後そのまま中に入るようにと決めています。そのため、突然予定外の時間に家族以外の人の訪問があると、パーソナルスペースである家に住む家族にとってそれはどうしてもストレスになってしまうのです。
「うん。それと、前にみんなで話した事、私も出来そうな気がするわ」
「ほんま? 俺も試してみる価値は有ると思う」
 二人が話しているのは、ヘルパーのサービスに関する事です。夢達はヘルパーのサービスを止め、今後は自分達で行おうと考えていました。元元介護を行う人数も時間も十分にあるおばあさんの環境の中ではヘルパーに依頼をする必要性はなく、訪問時間に合わせる事も難しくなっていたのです。また、訪問の依頼をしたとしても、ヘルパーである介護従事者自身がその会社に定着しない事が多く、新しい介護従事者が入るたびに価値観や手技や資質の異なる人が現れ、逆に労力を使わなければいけない事も多多ありました。
 ケンシが前向きな表情でそう言うと、夢は笑みを見せて「うん」と頷きました。
「だめならまた再開すれば良いものね!」
「そやな、分かった! みんなとはある程度話付いとうから」
「分かったわ。ありがとう」
 夢は笑顔でそう言うと、また部屋に戻って行きました。ケンシは丼鉢に残った白飯を一気に全てかき込むと、アイスコーヒーで喉の奥へと流し込みました。

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