美しきこの世界

Rickey

二十一

 暖かに晴れた午前、夢は台所でおばあさんの昼食の準備をしています。もうすっかり慣れた手付きで無駄なく胃瘻のボトルの管を繋いでいると、おばあさんの居る部屋からヘアドライヤーの音が聞こえてきました。今おばあさんは訪問入浴サービスを受けていて、髪を乾かすドライヤーの音が聞こえたので、あと数分で今日のサービスは終わります。そうやって一人の従業員が髪を乾かしている間、他の従業員は入浴に使った器具の片付け作業をしているので、いつもなら邪魔にならないように夢は台所で待機しているのですが、思わず早く準備を終えることができたのでそのタイミングで夢は部屋に戻り、ベッドに居るおばあさんに目をやりました。まずおばあさんを見ることが部屋に入った時の習慣になっていたので、何も考えず視線を向けた夢の目に映ったのは、声のないおばあさんの苦痛に叫ぶ表情でした。その時四十代の金髪の女性従業員がおばあさんにドライヤーをかけていて、おばあさんは顔を横にそらして大きく口を開けていました。最近掃除機の音を嫌がっていたから同じ音が出るドライヤーもそうなのかもしれない、夢は初めそう思ったのですが、起こっていたある変化に気付きました。顔を横にそらすおばあさんの左の首の色が全体にわたって赤く変色していたのです。理解が追いつかず固まってしまった夢はそのまま凝視していると、明らかにおばあさんの苦痛に歪む表情は大きくなってゆき、首の赤みは光沢を出しながら赤黒く変色してゆきました。
 ふと夢の脳裏に数秒前に自分が見た映像が浮かび上がり、そして疑問が生まれました。
 どうして女性従業員は自分の姿が見えた瞬間、ドライヤーをおばあさんの頭から離したのだろう。
 夢は首の状態を確かめようと凝視しながらおばあさんに近付きました。赤黒くなったその部分は見えていた範囲よりも広く、首や耳の裏や様様な場所に及んでいました。これは明らかにヘアドライヤーによって起こされた火傷です。片付けをしていた従業員も、場の異変に気付き始めました。
「どうしました?」
 そう言いながら男性従業員はベッドに近付き、おばあさんの表情に目を向けました。
「ドライヤーかけると最近こうなりますね」
 男性従業員がそう言うと、金髪の女性従業員はドライヤーを止め、おばあさんに声を掛けました。
「嫌だったのかも。大丈夫ミロクさん?」
 金髪の女性従業員は心配したような声を出しました。
 ただ夢は、おばあさんを見つめたまま固まってしまい、周りの会話に意識を向けることができなくなっていました。そして今もまだおばあさんは叫ぶように口を開き、目を見開き、苦しそうな顔でただ一点を見つめ続けていました。
 すると、この状況に対して何も問題は無いと感じたのか、一人の従業員が途中で止めていた片付けの続きをし始めました。
 そうやって流れ出した最悪の事態に置かれた夢は、次第に頭の中で悔しい感情が高ぶってゆき、目の奥に熱い痛みが走り、感情と声と言葉が一つになりかけました。それでも夢は、怒りは間違いを生む、と理性でそれを抑え込んだのです。
「ちょっと待ってて下さい」
 夢はそう言うと台所に入り、テーブルにある自分の携帯電話に手を伸ばしました。オッカさんに連絡を、それは感情に委ねず考え出した夢の唯一の答えでした。ただ、携帯電話を掴んだ夢の手は、その感情の高ぶりに震えていました。「状況が分からない。落ち着いて、落ち着いて。掃除機の音を嫌がっていたのはずっとドライヤーであんな事をされていたから? わざと、そんなはずはない、わざと、でも」そんな考えが夢の頭の中でグルグル回って離れませんでした。
 普通にヘアドライヤーをかけていて、頭皮以外に温風で広範囲の火傷を負う事はありえません。もちろん手技の悪さや過失だった可能性もゼロではありません。しかし、ここには虐待や傷害という大きな闇が潜んでいるのです。実はヘアドライヤーは、跡を残さない様様な虐待を引き起こす可能性があるのです。例えば、ドライヤーの熱を火傷しない程度の時間で皮膚や目等に当て続ければ、痕が残らない虐待が出来てしまいます。現状でもそういった瞬間的に熱を与える物はなく、訪問入浴サービスに使う湯も風呂場で沸かしたものをホースで送るだけなのでヘアドライヤー以外に首に火傷を負わせる熱はありません。
 目の焦点を合わせられない夢は、まるで混乱する自分を俯瞰で見ているかのように心が上擦ってしまい、電話の操作を間違っていても頭が考えようとせず、それを何度も繰り返してしまい、その事がさらに夢を焦らせてしまっていました。それでも夢は、なんとか今の状況をオッカに伝える事が出来ました。
 その間に従業員達は片付けを終え、台所に行った夢が戻ってくるのを待っていました。訪問入浴サービスでは基本的に看護師を付ける事になっているのですが、その女性看護師も現状の重大さに気付いていない様子でした。
 結局夢は何一つ冷静になれないまま台所を出ました。そしてベッドに居るおばあさんに目をやると、何が起こったのか分からない恐怖と火傷の痛みで放心状態になった表情のまま、何も無い空の一点をジッと見つめていました。その表情は、笑顔でいてほしかったおばあさんとは程遠く、見つめる夢の胸の奥から抱えきれない悔しさが溢れ出てきました。進行が怖くてたまらない病気になって、何も悪い事をしていないのに、皮膚に火傷ができるまで熱に曝され、どれだけ熱かったか、その痛みは、ずっと側に居た夢でさえ想像する事もできないほど壮絶な日日の連続の中をおばあさんは歩んでいるのです。
 そして今眼前にあるのは、一度も謝らない女性従業員と平然と立っている男性従業員達の姿です。対照的におばあさんは怯えて誰とも目を合わせず、辛そうな顔で空間の一点を見つめ続けています。赤黒く光る首には親指よりも大きな水ぶくれが現れ始めました。おばあさんは何も抵抗出来ないままドライヤーの高熱に苦しみました。熱を遮ろうとしても手が動かない、助けを呼ぼうとしても気道が塞がれて声が出ない、熱くて怖くて怖くて、その全てが一気に夢の心を支配し、怒りを抑える事が出来なくなりました。
「もう来ないで下さい」
 突然の夢の言葉に従業員達は動けなくなってしまいました。
 夢は、金髪の女性を無表情で見つめました。
「あなたにとっては一度の失敗でしょうね。気持ちを勝手に入れ替えて忘れていくんでしょ? おば様にとっては一生の傷なの。あなたはおば様の心を傷付けた」
 夢の瞳から溢れた涙が、頬に一筋の光を残しました。
「あなたにとってはたった一度の後悔。でもおば様にとってはずっとずっと傷になるの」
 歯を食い縛った夢の顔は、悲しみの心で歪んでゆきました。
「すみません。おば様に二度と会わないで下さい。出会わないで下さい。この仕事を辞めて下さい。お願いします。お願いします」
 夢は、言葉にもしたくなかった負の気持ちを全て吐き出しました。
 その時です。突然部屋に、一人の男性とオッカが入ってきました。全く頭になかった展開に、従業員達は現れた二人を見つめたまま思考停止してしまいました。
 そして夢も、何が起きたのか分からないままです。ただ、一人だけは違いました。おばあさんの涙の向こうに、その男性の姿がありました。
「ばあちゃん。遅くなってごめんな」
 おばあさんだけに向けた男性の声には、悲しみと懐かしさが入り混じっていました。そのまま男性は赤黒く光るおばあさんの火傷に目を向け、瞳に焼き付けるようにジッと見つめました。男性の顔に、悔しさや悲しみが滲んでゆきました。
 そして男性は従業員一人一人に目をやると、ハッキリとした口調で言いました。
「おい。お前のやった事は過失か最悪傷害で刑事事件やぞ。ごめんとかそういう問題じゃないぞ」
 それは鋭く冷たい言葉でした。
 男性は女性従業員の反応を見る事なく、すぐさま夢に視線を寄せました。
「ありがとうな。ほんまに」
 男性の声には親しみが込められていて、だけどその表情はとても真剣でした。
 それでも夢は声も出ないまま、ただ男性を見つめているだけでした。
「オッカ。話するから、ばあちゃん頼むな」
 振り返った男性がそう声を掛けると、後ろに居たオッカが悲しそうな顔で頷きました。
 男性は従業員達に部屋から出るよう声を掛け、そのまま外へ出て行きました。

 そして半時間後、夢とオッカはベッドで横になるおばあさんの姿勢を整えていました。二人の手付きはとても丁寧で、深く傷付いたおばあさんを癒したいという想いで溢れています。首元の火傷に関しては、在宅医療の医師に患部の画像を送り、臨時的な処置を行いました。そんな夢達の頑張りもあり、辛そうだったおばあさんの表情は落ち着いているようにも見えます。しかし、今まで見れていた仕草や反応は無くなり、顔に変化が表れなくなってしまいました。おばあさんの表情から笑顔の気配が感じられないのです。こんなおばあさんは、夢もオッカも見た事がありませんでした。夢は姿勢を整えながら、「ごめんなさい。ごめんなさい」と心の中で何度もおばあさんに謝っていました。夢がその気持ちを言葉にしないのは、「あなたのせいじゃない。悪くない」そんな優しい言葉を今は誰からも聞きたくないからです。今はただただ謝り続けたいのです。
「お昼始めようか」
 おばあさんに絵柄の可愛いステテコを着せながら微笑んだオッカは二人にそう声を掛けました。ステテコに視線を落としていた夢は小さく頬を上げると「うん」と頷きました。
「姉さんに謝りたいんだろ?」
 オッカの言葉に思わず手を止めた夢は、また「うん」と小さく頷きました。
「やっぱり。あたしもそう思ったんだから、あんたなら絶対そうだと思ったよ」
 オッカがそう話すと夢はそっと顔を上げました。おばあさんの側には優しい人達が居る、その事が嬉しかった夢はオッカに微笑みかけました。そしてオッカも、ずっと強張っていた夢の表情が少し和らぎ安心すると、おばあさんにそっと視線を寄せました。いつものようにベッドの上でゴロゴロしながらのんびりおむつを替えたので、おばあさんはそれで安心できたのか穏やかな寝顔をしていました。
「不思議だね、介護って。今もさ、どうしてごめんなさいって、想っちゃうんだろうね」
 オッカの声はとても温かで、その温度が伝わった夢は頬を上げると小さく「うん」と頷きました。
「やっぱりオッカさんは素敵な人ね」
 するとオッカは振り向き、そう話した夢の真っ直ぐな笑みに少し照れて頬笑みました。
「夢がいたから気付けたんだよ」
「ううん、違うわ」
 夢は顔を左右に振りました。
「私一人じゃ何も出来なかった。だから分かるの。本当の幸せに気付けた、それってきっと奇跡なんだって。人はいつになったって成長出来るわ。今この瞬間を頑張る事が大事だって、オッカさんが教えてくれたのよ」
「あたしはそんな事言ったのかい?」
 オッカは驚きと恥ずかしさが入り交じった顔になりました。そして夢も自分の言葉に照れてしまい、そんな気持ちを唇で抑えるようにキュッと閉じて微笑むと、「うん」と小さく頷きました。
 そうやって二人は、この先にある新たな現実から目を逸らさないため、少しずつですが前向きな気持ちに戻ってゆきました。

 太陽は高く昇り、朝とは違う微かな熱をガラス戸の向こうから感じました。春は気温のつかめない難しい季節です。そんな中おばあさんは、外からこぼれる光を足元に浴び、昼食を取りながら時代劇を見ています。枕がわりに愛用しているペンギンのぬいぐるみはおばあさんの頭でクニャッと沈み、ボトルの中にある栄養剤は点滴筒の中をポタポタポタポタとリズムよく落ち、いつもと同じようにゆっくりとした時間が流れています。ただ、おばあさんの笑顔だけはそこにはありませんでした。
 ベッドを挟むようにして床に座っているオッカと夢。二人は、おばあさんに付いてしまった悲しみの痕跡を消すため、今出来る精一杯のことを行なっていました。
「おば様?」
 夢がおばあさんの横顔にそっと話し掛けました。少し辛そうな表情を浮かべていたおばあさんは夢の方へ目をやりました。
「おむつかな?」
 そう声を掛けた夢は笑みを向け、おむつを少し開いて確認しました。
「出たね! ご飯が終わったら替えよっか!」
 夢は笑顔でそう言いました。しかしおばあさんの表情は変わらず、またテレビに視線を戻しました。夢は、胸の奥に芽生えた新しい悲しみを感じました。そしてふと夢がオッカに目をやると、そんなおばあさんを見つめていたオッカも寂しそうな表情をしていました。今きっと同じ気持ちなんだろうな、夢はそう感じました。
 すると突然オッカが話を切り出しました。
「さっきの子がケンシだよ」
「えっ?」
 夢はすっかり忘れていました。声で何となく察しは付いていたのですが、改めて聞くと驚いてしまいました。
「来週の初めだと思ってた」
 二日後の月曜にクイナの町に来ると夢は聞いていました。
「初めは送迎会があったのさ。でも湿っぽいのは嫌いだって言って、最後の飲み会阻止したってさ。今日来たのは姉さんと夢へのサプライズだって」オッカは笑いながらそう言うと、「それにそう、あんたと会うのは初めてじゃないよ」と付け加えました。
「えっ」
 思わず声を上げた夢は、どういう事か考えようとするのですが、驚くばかりで全くつかめませんでした。そんな夢を楽しそうに見ていたオッカは足を組み換えて座り直し、考えるように宙を見つめました。
「夢は確か子供の頃ここを離れただろ? その時はケンシもクイナに居たんだよ。丁度同じ時期に二人とも離れたのさ」
 そう聞いてもまだピンと来ていない夢の表情を見たオッカは続けて話しました。
「知らなくても無理はないさ。でもあの子は姉さんと仲が良かったから夢の事はよく知ってるんだ。姉さんはあんたの話になるとよく喋るんだってさ」
 オッカの話を聞き、知らなかったおばあさんに触れる事ができた夢はとても嬉しそうに頬を上げました。
「あ、寝そうだね」
 ふとおばあさんに目をやったオッカがそう言いました。二人の声が子守唄のようになっていたのか、おばあさんは目蓋を開いたり閉じたりしながらウトウトとしていました。最近おばあさんは午後を越えると眠ってしまうことが増えていました。少しの昼寝なら良いのですが、眠気をコントロールする事はそう簡単ではありません。その上おばあさんの場合ベッドの上で過ごす時間が圧倒的に長いので注意が必要です。このまましっかり眠ってしまうような習慣がついてしまうと、確実に昼夜逆転してしまいます。昼夜逆転は人間の本質に逆らう事で、体に悪影響を与えてしまいます。さらには夢達の生活リズムとも逆になってしまうので介護も難しくなるのです。
「どうしようか?」
 オッカが夢にそう聞きました。
「少しマッサージをするわ」
 夢はおばあさんの手をマッサージし、少し刺激を与えました。その瞬間、おばあさんの目蓋はフッと開きました。おばあさんを起こす時に行う夢のいつもの方法です。
「そういやあの子、このままみんなと会ってくるってさ。帰ってきたら話せばいいよ」
 オッカがそう言うと夢は頬笑み、マッサージをするおばあさんの手元に視線を向けながら頷きました。
「そうだ、あんた買い物まだだろ? お昼終わるまでに行ってくるよ。何食べたい?」
 オッカがそう聞くと、夢は冷蔵庫に何が残っていたのか思い出そうとしました。そしてふと夢は別の事を思い出し、焦るようにオッカに尋ねました。
「今日ケンシさんここに来るのかしら?」
「夜は来るだろうね。泊まるのはケンボウの家さ」
「良かった。準備出来ていなかったから。じゃあ三人分いるね」
「そうだね、ちょっと冷蔵庫を見てくるよ」
 そう声を掛けたオッカはスッと立ち上がり、暖簾をくぐって台所に入って行きました。
 クイナの町に来たばかりのケンシはまだここでの生活に慣れていないので、おばあさんの身の周りの事を完全に覚えるまではケンジの家に泊まり、夢はこのままこの生活を続ける事になっています。ケンシはこれから沢山の事を勉強してゆくのです。
「色色残ってるから鍋にしようかね?」
 部屋に戻ってきたオッカがそう言いました。夢は笑顔を向けて「うん」と頷き、「じゃあオッカさん、お願いします」とキリリとした口調で言いました。オッカは「はいよ」と元気に声を上げると、早速買い物に行こうと財布を持って部屋を出ようとしました。
「そうだ夢。ケンシがおむつ替える時は言ってくれってさ」
「あ、そっか、分かったわ。でもすごいねケンシさん」
 笑顔で頷いた夢は、ケンシが当たり前のようにおむつの話をしてくれた事にとても感動していました。おむつ交換に対して大きな抵抗を抱いてしまうことは少なくないのです。しかし、おむつ交換は介護生活において重要な介助の一つで、体力と心が必要です。現時点でおばあさんのおむつ交換は夢とオッカとハツエが行っていて、場合によっては訪問看護師やヘルパーが行うこともあるのですが、ここにケンシが加われば切れ目なくおむつの対応が出来ます。
「あの子にも介護の経験があるのさ」
「そうなの?」驚いてしまった夢は思わず声を上げてしまいました。
「今度聞いてみると良いよ」オッカは楽しそうに笑いながらそう言いました。
「うん」と夢が嬉しそうに頷くと、オッカは笑顔のまま買い物へと出かけて行きました。
 夢がケンシと話す時はいつもおばあさんの事が中心で、ケンシ本人の事は聞いた事がありませんでした。「話さないと分からない事ってあるんだな」と夢はそう思いながらおばあさんとケンシを重ねるようにして微笑み掛け、そのまま足のマッサージを始めました。
 おばあさんの目蓋はフワッと開き、またすぐにスッと閉じました。
「おば様。今日はケンシさんが来るわ。おば様に似て強くて優しい人だったね」
 耳からの刺激でおばあさんの眠気を飛ばそうと、夢は明るく話し掛けました。
「そう言えば今日は鍋だって。オッカさん自慢の魚の鍋だわきっと」
 夢はニコニコしながらおばあさんと話をしました。声と言葉の大切さを、夢は心で感じていました。
「ねえおば様。オッカさん最近前よりもっとパワフルになった気がするの。ミゲロさんのおかげだわ。元気になって良かったね」
 夢は自然とミゲロの事を想い出し、そしてすぐに手の甲で頬を拭いました。

 おばあさんの家の風呂場は台所を通り抜けて行く形になっています。台所で胃瘻の片付けを終えた夢は今、その風呂場の洗面所に居ます。夢は躊躇う事なくフックに掛けてあるヘアドライヤーを手に取りました。おばあさんはどれほど熱い思いをしたのか、夢はどうしてもそれを知っておきたかったのです。夢はヘアドライヤーのノズルを腕から二、三センチの所まで近づけると、そのままスイッチを入れました。
「熱いッ!」
 すぐに引き離したヘアドライヤー、夢はその弾みで手から落としそうになりました。十秒、五秒、そんなレベルではありませんでした。一瞬で激痛に変わるその熱さに、一秒も耐えられなかったのです。それでも夢は「もう一度、今度は我慢するように」そう頭の中で呟きながら何度も腕に温風を当てました。熱い、もう一度、熱い、もう一度。当然その熱さに慣れるはずはなく何度やっても同じでした。さらにもう一度、もう一度、何度も、何度も。痛みで歪んだ夢の瞳から涙が溢れ出しました。悲しみを満たし頬を伝った涙の理由は、腕の熱さだけではありません。あの瞬間のおばあさんを想うと、苦しくて、苦しくて、涙が溢れてくるのです。夢はこの痛みを忘れないようにと何度も何度も痛みを与え、そして自分を責めました。もし今ここにオッカが居たなら、しっかりしなさいと抱きしめてくれたかもしれません。夢は涙を肩で拭い、ヘアドライヤーのスイッチを切りました。あれほど熱かったにも関わらず、腕に残ったのは少しの赤みだけでした。火傷を負わされたおばあさんは、どれほどあの痛みに耐えなければいけなかったのか。
 夢はヘアドライヤーのコンセントを抜いて元の場所に掛けると、おばあさんの居る部屋に戻りました。辛い気持ちのまま暖簾をくぐり見えたのは、いつものように時代劇を観ているおばあさんの横顔でした。夢は人工呼吸器に異常が出ていないのを確認すると、おばあさんのベッドの横に座りました。
「ごめんなさい」
 おばあさんに聞こえないように、小さな声でささやきました。おばあさんが喜ぶ言葉ではないと想ったからです。明るくなれる言葉でいっぱいにする事が、おばあさんの介護には必要なんだと想ってきたからです。
 夢はふと、仲間達のことを想いました。
「きっとみんなが居なかったら、いつかおば様と私を殻に閉じ込めてしまう」
 自分の弱い部分が出てしまう、夢はそんな怖さを感じました。
 私一人じゃダメなんだ。

「おば様、何か見たいテレビあるかしら?」
 眠気も残っているようですが、おばあさんは何とか寝ずに起きてくれていました。
 そうやってテレビで時間を潰していると、玄関から扉の開く音が聞こえました。
「オッカさんかケンシさんかな」
 夢がおばあさんにそう話し掛けると、ドタドタドタと大きな足音が聞こえ、暖簾がバサッと開きました。
「ただいま」
 ケンシは逸る気持ちを抑えられないままそう言うと、直ぐさまベッドに駆け寄りおばあさんの隣に両膝を付いて座りました。ケンシは子供のような瞳でおばあさんを見つめ、無邪気な笑みをこぼしました。ケンシはおばあさんの落ち着いた顔が見れたので、少し安心したようです。そしてケンシは、おばあさんの首の火傷に貼られたパッド(治癒を早める治療用の絆創膏)にそっと触れました。体液を吸ったパッドは少し膨らんでいました。
「ただいま。ばあちゃん」
 ケンシはおばあさんの手を取ると、細くなってしまった手の甲を優しく撫でました。
「よう頑張ったな」
 おばあさんを見つめながら、心の奥に届くようにと伝えたケンシの声は、少し震えていました。ケンシの声と懐かしい顔、今日こんな事がなければおばあさんにとって最高の再開になるはずでした。
 テレビを見ていたおばあさんが、そっとケンシの顔に視線を寄せました。
「分かってくれたんかな」
 そうぽつりと言ったケンシは、嬉しそうに微笑みました。二人を見守っていた夢も嬉しそうに「うん」と頷きました。
「そうだわ。おむつ替えようと思ってたの」
「じゃあ一回替えてみよっか。教えてくれる?」
 何の迷いもないケンシの言葉に、夢はまた嬉しそうに頷きました。
 排泄介助は、人それぞれの生活や状態に合わせて方法や程度が変わってきます。その中でも夢達は、おむつの着用には気を付けるようにしています。パッドを含め、おむつは本来綺麗に着用することではじめて漏れを防ぐ効果を発揮する事が出来ます。おむつとパッドの中心と体の中心を必ず一致させて着用し、漏れ防止用のギャザーをしっかりと脚の付け根にフィットさせます。そうすることで下痢や尿の漏れを出来る限り防ぐことができ、交換に掛かる時間も短縮することが出来ます。だからといって交換せずに放置して良いわけではありません。細菌が原因で起こる尿路感染の心配も出てきてしまうので、排泄があればすぐに綺麗にすることが大事です。沢山の事を学び理解して行かなければ間違い続ける事になってしまうのです。
 寝たきりになったおばあさんがどう生きて行くかは、周りの人達次第です。
 例えば花瓶が汚れ、水が汚れてしまえば、草木や花に悪い影響を与えてしまいます。花瓶や水を綺麗にし続ければ、草木や花は元気に育ち綺麗に枯れる事ができます。
 人もまた同じです。
 健常な人であれば、心と体に吸収させるものを自分で選択する事が出来ます。好きなものも、自分に合ったものも、逃げる事も、助けを呼ぶ事も戦う事も出来ます。
 しかし、花瓶の草木や花と同じように、ミロクおばあさんにはそれが出来ません。出来るのは周りの人なのです。
 そして草木や花は、草木や花を真っ直ぐ見つめる人の心を綺麗にしてくれます。
 人もまた、同じです。

「寝ちゃったかしら?」
 片付けをしていた夢が部屋に戻ってくると、ケンシは頬笑みながらおばあさんの顔を正面から見つめていました。
「寝た。おむつ替えてスッキリしたんかな。褥瘡もしっかり見とかんとな」
 夢が最初に伝えたのは、おむつの交換手順を一通りと、初めの入院時に出来てしまった仙骨の上の小さな褥瘡の状態でした。その褥瘡は、病院に搬送されてから長時間使っていたベッドの固いマットが原因でできてしまったのですが、今は比較的軽症で落ち着いています。
 中腰でおばあさんの顔を見ていたケンシは立ち上がり、夢に笑顔を向けました。
「なあ、夢。あらためて、ありがとう」
 笑みをこぼした夢は「うん」と頷きました。
 そしてケンシは夢に手を差し出しました。
「これからもよろしくな」
 夢も手を差し出し、お互いに信頼出来る仲間として握手を交わしました。

 夜空がクイナの町を包み込み、色んな事があった一日ももうすぐで終わりです。
 鍋が片付けられた卓袱台の上は綺麗になり、台所に入ったオッカはジャンジャン洗い物をしていました。
「夢! こっちは良いからケンシと話でもしておきな!」
 オッカは、自分の手元で鳴る水の音を掻き消すように夢にそう声を掛けました。片付けをしていた夢は空のグラスを手に持ち、そのまま肩から暖簾をくぐって台所に入ってきました。台所のテーブルには鍋の後の洗い物がいくつか残っていました。
「やっぱり手伝うわ」
「いいから。今日の事も、これからの事もそうだけど、あんたが一番人見知りでケンシと付き合いが浅いんだから。介護の事も聞くといいよ」
 そう話したオッカは夢に遠慮させまいと、当然の事のような口調で言いました。
「うん。ありがとう」夢は笑顔で頷き、オッカに後を任せて台所を出ました。
 部屋に戻った夢がおばあさんに目をやると、ベッドに座った状態でポカンと口を開けて眠っていました。まだ寝るには早いのですが、昼間は寝ずに頑張ってくれたのでこのまま少し休憩を取る事にしました。
「何見てるの?」
 夢は、縁側であぐらを組みながらガラス戸越しの夜空を眺めていたケンシにそう話し掛けました。ケンシが夢に笑顔を向けると、夢はケンシの隣に膝を抱えて座りました。
「何も変わらんね、この町は。帰ってくると安心する」
 暗くなると見えてくる空の星と町の光、静かにそう話したケンシは、そんな変わらない風景だからこそ感じる寂しさに心を寄せていました。朝の光が差せば空に奥行が生まれ、夜の闇に吸い込まれそうな恐怖は無くなります。ケンシは今日の日が来るまで、焦る気持ちと悲しみに囚われていました。でも今は違います。クイナの町に来て、その不安も消えました。光がここにあったのです。
「今日はありがとう」
 夢は同じ夜空を眺めながらケンシにそう言葉を掛けました。
「うん。あのスタッフ一人だけの問題やし話だけで終わらそ思てんねん。いい?」
 夢は視線を落とし「うん」と頷きました。ふと夢が見つめた視線の先には、ゆらゆら揺れる庭の草があり、そこには夏の気配が漂っていました。
「ほんまわな、あいつにもっと言いたかってんけどな、強い態度で対応すんのは難しいねん。家も知られてるしな。相手も人間やから何するか分からん。こっちが会社変えて上手にやらなあかんねん。だからごめんな」
「そんな事ないよ! どうして謝るの?」
 夢は驚いてしまいました。自分が出来なかった事をしてくれたケンシに感謝しかなく、謝る理由が分からなかったからです。
 そんな夢の表情を見たケンシは嬉しそうに頬笑みました。
「あの時あんなに夢が頑張ったのに、俺はガツンと言ってやれん。あっちは結局上司が出てきただけ。話聞くフリだけしてたから、まぁ何の対策もせんやろな」
 心を重ねながら聞いていた夢は、慣れたように話すケンシは一体どれほどの悲しみを抱えているのだろう、そう感じ胸の奥が苦しくなりました。だからこそ信頼を置けるケンシに夢は、たった一つの望みを伝えました。
「おば様が幸せならそれで良い。それだけで私には十分過ぎるぐらい。でも、あの時は感情的になっちゃったけど」
 思わず最後に言葉をこぼした夢は、自分の膝に顔を埋めてしまいました。おば様を怖がらせたかもしれない、誰かを傷付けたかもしれない、そんな罪悪感が夢に芽生えたのです。
「ばあちゃんには仲間がおる」
 静かにそう声を掛けたケンシは顔を上げ、夜の空に目をやりました。
「父さん時は人を信用できんなってヘルパーほとんど入れるの止めたけど、ここにはみんながおるから。今日の夢見て、やっぱり信じて良かったって思ってんねん。何もしてやれんかった父さんの分も頑張んねん俺」
 優しく強くそう話したケンシは夢の方へ振り向くと、ニカッと頬を上げて無邪気な笑顔を見せました。思わず笑顔になった夢はそんなケンシに、飾らない真っ直ぐな人なんだなと感じました。そして、ケンシは自分と同じ後悔を抱いているという事に、夢は初めて気付きました。
 夢は夜空を見上げました。夢の見つめる先に、さらにその何光年も先に、輝く星達があります。そこは、地球の深海世界ですら大部分が未踏なままの人類では到底辿り着けない時間の世界。それでもここまで届く強い光は周りを照らし、自らも命を燃やし輝きます。そんな広い宇宙にも間違いなく私は存在する。宇宙は世界より広く、心は宇宙より大きい。宇宙はどうにも出来ないけれど、おばあさんはここに居ます。「何だかちっぽけだなぁ私」広い宇宙を想った夢はそう感じ、少し心が解放されたような気がしました。今日の日は、夢を成長させてくれました。

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