美しきこの世界

Rickey

十六

「おば様?」
 おばあさんの目蓋がそっと開きました。
 ここはALSの診断を受けた病院です。
「良かった! すぐ終わったの」
 目蓋を開いたおばあさんは表情を変えないまま、突然起こされたように周りを見渡しました。おばあさんがいるベッドの側には、横幅が二十七センチメートル弱、高さが三十五センチメートル強、奥行きが八センチメートル強ある人工呼吸器が置かれていて、専用のスタンドに取り付けられています。表面には二十個ほどの押しボタンがあり、各種設定や操作が行えます。各ボタンには名称が書かれていて、これから数日を掛けて夢達はその意味や使用のタイミングを覚えてゆきます。もちろん学ぶべき事は機械の操作方法だけではありません。人工呼吸器には呼吸回路(透明な管)が繋がれていて、その回路はさらにおばあさんへと繋がってゆきます。呼吸回路はおばあさんと人工呼吸器をつなぐ大事な空気の通り道で、胎児にとってのへその緒と同様、生きるための体の一部となります。そのため、二センチほどの太さで柔らかい呼吸回路を上手に扱う必要があり、日常の中でも学んでゆきます。さらにおばあさんの場合、回路の中の空気を加湿させるために加温加湿器という機器を使用します。加温加湿器は人工呼吸器のスタンドに取り付けられていて、その加温加湿器に加温加湿チャンバーという容器を付けます。そのチャンバーに水を入れ、加温加湿器で温度を上げ、水蒸気を発生させ、回路の途中に取り付けて流れる空気と水蒸気を合わせます。普段人は空気を吸い込むと、空気が肺に到達するまでに加温と加湿が行われています。もしそれを適切に行わなければ、ウイルスや菌や細菌等による感染のリスクの増加、痰が固まる事で上手に排出出来なくなり気管を塞いでしまう可能性が高まります。そのため加温加湿器を使用するのですが、加湿をするという事は、同時に回路内で結露も起こしてしまうのです。結露は温度差によって生まれます。空気は高い温度の場合、水蒸気を多く抱える事が出来ます。低い温度の場合、空気が抱える事が出来る水蒸気は少なくなります。チャンバーの中で水は温められ、空気の温度と湿度は上がります。その空気が回路内を流れる時、回路の外の温度によって冷やされて、抱える事が出来なくなった水蒸気が水に変わるのです。夏場、冷たいジュースをコップに入れて放置しておくと、コップの周りに水滴が付いている事があります。これは夏場の温かい空気が冷たいジュースによって冷やされ、抱えていた水蒸気が水に変わる事で起きます。もちろん加湿が過多になると空気は抱えきれなくなり水蒸気は水になります。つまり、部屋の温度も結露に関わってくるのです。それらの状況を頭に入れ、結露に気を付けなければその水が肺に直接流れてしまうのです。その対策として、回路内の結露によって現れたその水を受け取る容器が呼吸回路の途中にあります。容器はウォータートラップと言い、回路内の水を受け取ってくれます。しかし、これで水の問題がなくなるというわけではありません。このウォータートラップは落ちてきた水を受け取るだけなのです。水の性質上、重力によって低い所へ向かって行きます。つまり回路の角度が悪いと、その水の流れる方向はウォータートラップにではなく、おばあさんの肺へ直接流れてしまうのです。そうなった時の苦しさは尋常ではありません。上手に咳が出来ないおばあさんには、さらにそれ以上に苦しい事態になってしまうのです。時間帯や季節に合わせた加温加湿器の設定、部屋の温度と回路内の結露の関係、回路内の水のコントロール、加湿の加減とおばあさんの体の変化、そんな様様な状態を見極めながら夢達は丁度良い範囲を探ってゆかなければいけません。

 手術が終わり、夢達が最初に向き合ったのは切開をしたおばあさんの喉でした。気管と回路をつなげるために、おばあさんの喉を切開したのです。切開された部分には二センチほどの穴があり、そこへ気管カニューレを挿入します。気管カニューレは大文字のLのような形状の管で、太さは人それぞれあり、おばあさんには一センチ前後の管が挿入されていました。その気管カニューレを通し、肺に空気を送ります。そしてもう一つ、気管カニューレにはカフと呼ばれる重要な部分があります。カフはカニューレの先に付いていて、風船状に膨らむようになっています。カニューレを気管の中に入れた後、気管の中でカフを膨らませます。風船状に膨らみ隙間を無くす事で、唾液等の液体や固体が気管に流れることを防いだり、空気を漏らす事なく呼吸が出来るようになります。ただ、だからといって膨らみ過ぎもよくありません。そもそも人は、もともと体に存在しないものを加えられると、それだけでデメリットを生む事があります。カフを膨らまし過ぎると別の障害や損傷、壊死の原因を作る事になります。逆に膨らみが小さいと唾液等の液体や固体の流れ込みを防ぎきれず誤嚥の原因になってしまいます。そのカフの圧の管理も、これから夢達が行ってゆきます。
 人工呼吸器は、バクテリアフィルター、回路、フレックスチューブ、気管カニューレといった沢山の機器を使い、それぞれ機能を持っています。気管カニューレと呼吸回路の間にあるフレックスチューブはプラスチック製の製品をよく見かけるのですが、体を動かすことを考えた夢達はシリコーン製の製品を選択しました。これは、おばあさんの術後に夢達が最初にした選択の一つでした。そうやって状態に合わせて選び、理解し管理してゆきます。

「姉さん、これで呼吸が楽になるといいね」
 オッカはそう囁き、安心と不安を感じながらおばあさんを見つめました。
 人工呼吸器の姿は、何かで見る事はあっても自分自身が関わる事はまずありません。その現実を目の当たりにすると、最初は不安もあります。しかし、その不安な気持ちはすぐに薄れました。一つの苦しみを消してくれた人工呼吸器が、とても大きな安心感を与えてくれたからです。
「おば様? これで呼吸が楽になるからね。安心してね」
 おばあさんの表情は変わりません。術後の疲れがあるのかもしれません。目蓋を閉じたおばあさんの側で二人は、そっと、大切な人の存在を感じているのです。

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