美しきこの世界

Rickey

 キラキラキラ。空から見下ろす太陽が町を輝かせています。雨の少なかった梅雨の季節は過ぎ、クイナの町にも夏の匂いが広がり始め、休みに入った子供達がオレンジ通りを駆け回っています。
「おば様!」
 買い物をしていた夢はミロクおばあさんを見つけるや否や声を上げて呼び掛けると、嬉しそうな笑みを浮かべながら駆け寄りました。「こんにちは!」そう声を掛けた夢の白色のロングスカートは風に揺れ、涼しさを感じさせました。
 おばあさんはお気に入りのシルバーカーを使いこなし、買い物をしていたようです。以前よりも楽に外出が出来るようになったそうで、おばあさんはいつも沢山の買い物をします。収納ボックスも一杯で、座面が閉まらないことがほとんどです。
「晩ご飯の買い物かい? 今日はコロッケと、ニラと豚肉で肉野菜炒めにするよ」
 おばあさんがシルバーカーの座面を上げると、レジ袋と瓶のラムネのジュースが入っていました。すると夢は持っていたレジ袋の中に手を入れガチャガチャと音をさせ「私も買ったの、ほら!」と言い同じラムネのジュースを取り出しました。瓶の中で陽気に踊る泡達はとても涼しげで、見ているだけで喉が求めてしまいます。このラムネはケンジの父の代から続いている三ツ星鉱泉所が作っていて、他にはアップルやソーダ等のジュース、一番の売り上げを誇る年末限定の甘酒があります。父と兄弟の親子三人、作っては配達、作っては配達といつも活気よく働いています。
「一緒に買い物に行きましょう!」「そうさね」
 おばあさんが頬笑みながら頷くと、二人はまた別の店へと歩き出しました。
 夢は隣を歩くおばあさんにそっと視線を寄せました。コロコロコロ、おばあさんと一緒に歩くシルバーカー、それはみんなと一緒に作ったプレゼントです。そんなシルバーカーを当たり前のように使ってくれているおばあさんの姿を見るだけで、夢は嬉しくてたまらなくなるのです。
「そうだわ! 晩ご飯一緒にどうかしら!」
 突然立ち止まった夢は、思い付いたような笑顔でそう聞きました。
「そうさね。でも言うと思ったよ」
 おばあさんが見抜いたような笑みを向けると、夢は嬉しそうに頬を上げました。
「何にしようかね?」おばあさんがそう尋ねると、夢は「魚?」と答えました。今日の献立が一つ決まり、二人はミゲロの魚屋へ向かうことにしました。
「真あじ、鱚、太刀魚。おば様は焼き魚、だから」
 楽しそうな二人の会話の中に、オッカの声が差し込んできました。夢が目をやると、店先に立つオッカがスーツ姿の客人と話しているところでした。スーツの男性が小銭を受け取り、店を後にするのを見届けると、夢はオッカに手を振りました。
「来たね、いらっしゃい。それよりもさ、のど渇いたね」オッカが突然二人にそう言い出したので、涼しい所で話をしようと喫茶店へ行く事にしました。その会話が耳に入ったミゲロは、三人がうるさいので「暇だからそうしてくれ」と追い出すように言いました。

 オレンジ通りの石畳は日の出と共に熱気を放ち始めました。逃げようのない暑さに包まれていた三人は、花梨という喫茶店のドアを引きました。
「ミックスジュース三つ」店に入ると同時にオッカが声を上げて注文しました。三人が注文したミックスジュースは果物をどろどろに砕いて混ぜたジュースです。同時に砕いた氷の食感と清涼な喉ごしがクセになり、今日のような日には抜群なのです。特に子供や学生に人気で、夏はこれを目当てに住人達はやって来ます。
 数分後、男性の店員が大きなグラスに入ったミックスジュースを運んできました。すかさずオッカはグラスを手に取ると半分まで一気に流し込み「カアーッ」と全身でミックスジュースを受け止めました。
「これなのさ、これが良いんだ! ケンボウのと良い勝負だよ」
 夢は「うん」と頷き、ミックスジュースに入った果物の甘さに味覚を澄ませました。
 カランカラン。店のドアが開き、昼の暑さから逃れようと客人が入ってきました。ガンガンに効いた冷房と、体の中心から冷やしてくれるミックスジュース、それははまるで昆虫採集のトラップが仕掛けられているかのようで、人が店に吸い込まれて来るのです。
「そういや姉さんヘルパーさんの方はどうなの?」
 おばあさんはストローから口を離し、「まだ大丈夫だから呼んでないよ。看護師さんもまだだよ」と答えました。頷いた夢は「今はまだ大丈夫なの。必要な時は必ず言ってもらうようにしてるの」と言い、おばあさんに笑顔を向けました。
 するとおばあさんは、何かを思い出したように胸に手を当てました。
「そういやあ最近横んなる時が息苦しいんさね。ペンギンのぬいぐるみを、こう、抱いて座って寝ると少し楽なんだよ」
「ペンギンって昔ケンシが貰ってきた景品だろ? へぇ、覚えてるよ。祭りの日だ」
「ちょうど良いのさ」
「姉さんが抱えてんならもうペッタンコだね」
「あんた失礼だね」
「冗談さ」
 おばあさんとオッカの楽しそうな会話。でもその時の夢には届いていませんでした。
 夢は、トクントクンと自分の鼓動を感じるまでに心が内向きになっていたからです。分かってはいたのです。分かってはいたのですが、胸の奥に広がる恐怖心を夢は確かに感じたのです。
「おば様。私、今日泊まっても良いかしら?」
 夢の唐突な話におばあさんとオッカはキョトンとしてしまいました。それに気付いた夢は、「ストレッチ!」と慌てて言葉を付け加えました。
「ストレッチ?」
 まったく話が読めない二人は、不思議そうな顔で夢を見つめています。
「上手に筋肉を動かすと、出来るだけ長く維持が出来ると思うの」
「リハビリみたいなものかい?」
 オッカの言葉に夢は「そう」と頷きました。
 人は普段の生活の中で、全身にある様様な機能を使っています。筋肉や神経や関節等、それらを機能させなければ衰えて行くのです。さらにそのスピードも想像以上に速く、それらの状態を悪化させず維持するためにはリハビリが必要なのです。ただ、リハビリの効果としてはそれだけではないので今後のメニュー作りも大切になってきます。
「一度病院へ行って相談しましょ! 準備は準備の時に、よ!」
 そう声を掛けた夢は真剣そうな眼差しをおばあさんに向けました。
「なんだいそれは?」
 おばあさんは夢が言った諺のような言葉が気になってしまいました。するとオッカは納得したような表情を浮かべ何度も小さく頷くと、「準備なのさ。起こってから準備しても遅いって事なのさ」と言いました。
 夢も頷きながら頬を上げてみせたのですが、血が引くように広がった胸の奥の恐怖心は消えていませんでした。心が鈍り、海の中にいるような重さを感じていたのです。
 ふと夢は、楽しそうにしているおばあさんの姿を瞳に映しました。すると、恐怖に縛られ思考や行動が停止してしまっていた自分の気持ちの無意味さに気付け、それらが解けて行くのを感じました。
 今はまだ進行を止める事が出来ないALS。恐怖ではなく、現実を真っ直ぐ見つめなければいけないのです。なぜなら、恐怖はもうおばあさん自身の心の中にあるからです。おばあさんにとって何が一番大切なのか、夢は自分自身を停止させずにおばあさんを見つめました。呼吸の苦しさを感じ始めた事、これからの事、おばあさんの笑顔。夢の瞳を曇らせていた霧が晴れ、迷いがなくなった瞬間、夢の前に突然ミロクおばあさんが現れたのです。今まで感じた事のないくらい鮮やかでハッキリと生きている姿を真っ直ぐ見つめる事が出来たのです。
「おば様! あ、私、私もう一杯ミックスジュースを飲むわ」
 側に居たい、話したい、そんな気持ちが溢れてきた夢は思わず声を上げてしまったのです。
「まだ半分残ってるのにかい?」
 オッカは突然一人で慌て出した夢の姿が可笑しくて、笑いながらそう声を掛けました。夢はグラスに残っていた分を飲み干すと、新しくまた注文しました。おばあさんにお腹の具合を心配された夢は「少しずつ飲むわ」と恥ずかしそうに答えました。
 そして少し時間が経つと、会話はいつのまにかおばあさんの孫の話になっていました。「寝るのはどこでも良いって言うんだけどね」おばあさんはテーブルの上に肘を置くと、二人に目をやりそう話しました。
「あの綺麗にした部屋は?」
 オッカの言う部屋とは、先日みんなで綺麗にした広い部屋の事です。それに頷いたおばあさんも、ケンシ一人が広い部屋を使えばいいと考えているようです。持ってきた物を収納するスペースは十分にあるので、ケンシが就寝出来れば問題ありません。それに、町のみんなとの交流がある場所で共に過ごせれば、人付き合いが苦手なケンシにとって成長出来る良い機会になるのではないかと思っているのです。
「こっちは構わないけど、あたしらが居ても気にならないかい?」
「どこでも良いって言うし、いいんじゃないかね」
「朝は早く起きれるかしら?」
 朝方に訪れることが多い夢はインターホンの音を気にしました。
「学生の頃は遠くの学校へ行ってたんだ。仕事も朝は早かったのさ。大丈夫さ」
 夢は少し安心しました。おばあさんの所へは広い部屋を通ってしか行けないので、ケンシが起きていてくれれば、朝の訪問に来てくれる人も出入りしやすくなるからです。
「今度聞いておくよ」
「お願いするよ姉さん。決まったら任しときな!」
 オッカは自分の腕を叩くと「心配ない」と笑顔を見せました。「頼もしいね」とおばあさんが言うと夢は「うんうん」と頷きました。
 そしてまた三人の会話は別の話題に変わり、夢の二杯目のミックスジュースも半分まで減りました。ケンシとケンジは名前が似ていてややこしい、という話から、もうすぐ生まれてくるケンジとハツエの子供の話になりました。今二人には長男のリッキーがいて、生まれてくる子は二人目で長女になります。「年子なので慌ただしくなりそう」と、二人とも張り切っているそうです。
「リッキーが生まれた時は大っきかったからね。兄妹揃って大っきくなると良いね」
 そう話したオッカは赤ちゃんを抱くように両手を広げました。ハツエは体は大きくないのですが、頑張って元気な男の子を産みました。リッキーの名はケンジが命名したのですが、生まれる前から決めていたそうです。ちなみにケンジとハツエが育てている犬の名はリックです。
「本当。はっちゃんもうすぐって言ってたわ!」
 嬉しそうに声を上げた夢は、リッキーが生まれた時もバタバタとあっちこっちへと手伝いに走り回ったのです。その時夢は感極まって涙しながら町を走っていたので、数日の間はその恥ずかしさで町へ出ても誰にも会わないようにしていたのです。
「あの人も楽しみにしてるよ」
 落ち着いた声でポツリと話したオッカは、優しい顔をしていました。
「ミゲロさん子供が大好きだものね」
 笑みを浮かべた夢がそっと言葉を掛けると、オッカも頬笑み頷きました。
「あんた達が時時世話してくれるから喜んでたよ」
 おばあさんは温かな眼差しでオッカにそう伝えると、夢の方へ振り向き「あんたもね」と声を掛けました。笑顔の夢は子供達と一緒に遊ぶ日を想像し、嬉しくなりました。
「名前は何だろうね?」オッカはそう呟くと女の子の名前を考え始めました。「はっちゃんがもう決まってるって言っていたわ。生まれてからね、って」夢がそう言うと、オッカは「あの子なら可愛い名前をつけそうだね」とテーブルに片肘をつき、生まれてくる子供を想い、笑みを浮かべました。
「ルンル」
 ぼそっ、とおばあさんの方から声が聞こえ、二人はキョトンとしてしまいました。少し考えたオッカはおばあさんの顔をジッと見つめました。
「まさか今の名前かい?」
「ホントにあんたはうるさいねぇ」
 おばあさんが苛立ちを込めてそう言うと、オッカは嬉しそうな笑みを向けました。
「ルンル? ルンル? ルンルかぁ」オッカは楽しそう何度もルンルルンルと言うのですが、夢は少し違ったようで「素敵! とっても明るい子に成長しそうだわ!」と瞳をキラキラさせていました。
 人は誰でも赤ちゃんの時があり、男の子も女の子も関係なく無垢で、生まれてきた命を感じさせてくれます。だから子供は側に誰かが居ないと生きていけません。つまり子供を産むという事は、育てるという事です。出産の覚悟ではなく、心と環境を整え育てきる覚悟が必要なのです。ハツエは出産後、自分の人生が子供の人生へと変わってゆくのを感じました。そんな親子の愛に触れた夢達は、ふと自分自身を見つめ、幼い頃に受けていた愛に気付けたのです。
 その後も三人の会話は続きましたが、さすがに話し過ぎたのか壁の柱に掛かった振り子時計は午後の五時前を指していました。三人は急いでミックスジュースを飲み干すと、一人一人会計を済ませました。扉を開けて店を一歩出た瞬間、モワーッとした夏の空気が全身を包み込みました。その一瞬だけ暖かく感じたのですが、すぐに夏の暑さの現実に引き戻されてしまいました。夢はいつも、この季節に涼しい場所から暑い外へ出ると、どこかへ冒険に出かけるような、そんなワクワクとした気持ちになります。
「オッカさんありがとう! また一緒に話しましょう!」
 夢は大きく手を振りました。振り返ったオッカも笑みを浮かべて手を振ると、ミゲロのいる家へと帰って行きました。
「帰ろっか。おば様」

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