あなたが好きでもいいですか

文戸玲

訴え


 
 時間に背中を押されるようにして玄関に向かうと,美月の母がいた。目が合うと,思わず獲物ににらまれた草食動物のように縮こまった。その顔はいつもの柔和な表情とはうってかわっていた。眉間には深く皺が深く刻まれ,口は一文字に結ばれている。組まれた腕は決して攻撃的な姿勢ではないが,体中から嫌悪感と憎悪で満ち満ちた雰囲気があふれ出ていた。綺麗な顔立ちの人が怒りを滲ませるとどうしてこんなに怖いのだろう。私は靴を履くこともできず,挨拶の言葉さえものどから出てくることもなく,どうしようもなく玄関に立ち尽くす形になった。
 美月のお母さんは,感情の高ぶりを無理やり抑えるように,出来るだけゆっくり,声のトーンを変えないように言葉を発した。

「あら,茜ちゃん。美月と仲良くしてくれているみたいね。今日はもう帰るの? 少しだけお話がしたいのだけれど。時間はあるかしら?」

 しばらくの間言葉が出てこなかった。時間が無いわけではない。ほんの少しぐらい,家に帰る時間が後ろにずれたって全く問題ない。でも,これだけの負の感情をまざまざと見せつけられ,それを受け止める自信が私にはなかった。さっき,自分に素直になろう。美月を大切にしようと決めたはずなのに。私の周りにある壁はあまりにも高すぎて,堅くて,とても乗り越えられそうにない。
 打ちひしがれてぼろぼろになった心とともにかろうじて立ち尽くしているところで,階段から足音が聞こえてきた。美月が見送りに降りてきたのだ。

「ちょっとママ,これから帰るんだから引き止めないで。小言はあとで聞くから」
「何言ってんの? もうこれはあなただけの問題じゃなくなってきているのよ。家族の問題でもあるし,あなたの将来の問題でもあるの。それに,これまでさんざん辛い思いをしてきたじゃない。約束もしたでしょ? 忘れちゃったの?」

 美月の母は涙をにじませながら続けた。

「茜ちゃん,美月は今,夢に向かって頑張っているの。あなただって,道を踏み外すことはない。家族も必ず辛い思いをする。茜ちゃんのところの親御さんはご存じなの? 悪いことは言わないから,その気持ちは隠しなさい。そして,正しい道を歩むのよ」
「何よ正しい道って! 偉そうに! いちいち人のことに口を出さないで! 私も茜も,幸せは自分たちで決めるから」
「幸せって,あなたたちは何もわかっていない。世間はそんなに甘くないの。熱いのは今のうちだけ。きっとどこかで気付くわ。茜ちゃん・・・・・・もう美月には近づないでほしいの」

 目の前が真っ暗になった。美月は大きな声で何かを訴えていたが,私には一切言葉が入ってこず,ただただ美月の母が言った言葉が頭の中でこだましていた。

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