あなたが好きでもいいですか

文戸玲

Dear・・・・・・〜美月side〜

 その日,私はどうやって家まで帰ったのか覚えていない。帰りのHRまでいたのかも,早退して車に乗せて帰ったのかも覚えていない。
 ただ,私の中ではっきりと記憶していることがある。リビングで泣きはらした母の顔だ。大人っていうのは自分とは全く違うもので,精神的にも成熟した非の打ち所のないものだと思っていた。特に親に関してはそうだった。でも,大人も泣くんだとその時初めて気付いた。きっと大人は,子どもが思っているほど強くはない。ちょうど思春期に入ってからは,周りから心配されたくない,強くありたい,頼りにされたい,一目置かれたい,そんな感情で溢れるようになっていた。それらの気持ちの延長線上に大人という姿があるのかもしれない。
 母のその時の様子は,長年放置していたキッチンの油汚れのように,いつまでも記憶の中にこびりついて離れない。

「学校,辛いんじゃないの? 転校したっていいんだよ?」

 辛いのに明るく振舞おうとギリギリのところで踏ん張っているのは,笑顔と一致してない目に浮かんでこぼれる滴から十分すぎるほどに伝わってきた。一言目は高かった声のトーンも,二文目を継ぐころには震えてかすれて聞き取るのがやっとだ。いや,もしかしたら何かがこの空間を震わせているのかもしれない。そんなつもりは無かったのに,返事をする私の声までもが震えてそれを抑えることが出来なかった。

「辛くはないよ。・・・・・・それに,学校は楽しいから・・・・・・転校したくない」

 なんとか最後まで言い切った時には,母は泣き崩れた。私も言い切る前に,嗚咽が漏れていた。強くあろうとすることが,いや,もっと言えば嘘をつくのがこんなに辛いなんて,初めて知った。
ただ,この嘘は自分の為というのには少し違う気がした。自分の為というよりは,母の為という思いの方が強かった。人のためにつく嘘は,サボテンの針のように尖っていて,その無数の針が心臓の一番傷つきやすいところをついてくる。自分を守るためにつく嘘と,大切な人を守るためにつく嘘はどちらが辛いのだろう。私には分からない。ただただ,自分の本心を言えないことに,言ってはならないと思ってしまうことに苦痛を感じていた。
 そのことがママにも伝わったのだろう。私たちは二人,お互いの背中をさすりながら父が帰ってくるまで泣いていた。お互いの背中をさする手がつりそうになっても,摩擦で焼けそうになっても,肩を震わせながら支え合った。きっと一人だったら私はその時間を乗り越えられなかっただろう。

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