黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜
a sequel(25)〜銀月の夜〜
「私が伺いたいのは、聖女カズキ様の事です」
もう隠す意味もなくなった。リンディアの真意を聞くまでは、この会話も終わらせない。
もしかしたらカーディルは怒り狂い、同盟は破棄され、両国は戦う事になるかもしれない。そうすればファウストナは簡単に滅びるだろう。今も生きる懸命な民には詫びても許されないこと。だけど、真実を伏せて形だけの同盟にはしたくない。使徒と共に歩む事の出来ない彼等とファウストナは違うのだから。
ラエティティは想う。
もし本当に聖女が亡くなったなら、共に哀しみ、泣きたいと。それこそが友であり、強固な同盟となる筈だ。亡骸に縋り付き、救済の礼と交わせなくなった言葉を伝えたい。
どうか安らかに、世界を見守って欲しいと……いや、救済から解放されて穏やかに神々の御許へと……死した後、人々の醜い心に寄り添う必要などないのだ。
「ラエティティ。先ずは謝罪を……我等は、いや私は君達に……」
カーディルの悲壮な声、伏せる瞳。
やはり……予想通りだった……なのに全く嬉しくはない。尊いお顔、声、刻印、何処まで深い慈愛、そして……でも、それは叶わない願いとなってしまった。
「やはり聖女様は……」
「ああ、恐らくラエティティの想像通りだ。本当に済まない。全ては私が決めた事、決して悪意ある嘘では……」
最初から正直に言えば良かったのに……もう遅いのよ、カーディル王……ラエティティも哀しくなる。
「やはり御隠れになったのですね……」
「……ん?御隠れ?まあ、隠したのは間違いないが……」
「……なにを……隠した!?まさか、その手に掛けたと!?」
ガタリと立ち上がり、ラエティティは怒りに震える。懺悔どころではない。使徒を殺したと言うのか!何と罪深い事を……
「手に掛けた……?ラエティティ、一体何を……」
「ふざけないで!聖女様を殺すなど神罰を受けるがいいわ!いえ、私自らが……」
首を締めようと両手を上げ、にじり寄る。相手は元騎士だろうが関係ないとラエティティは覚悟すら決めた。
困惑するカーディル。一触触発の状況だったが、漸くカーディルは理解した。ラエティティは大きな誤解をしていると分かったのだ。
「ま、待て!誤解だ!聖女は……」
「もう言い訳なんて出来ないわ!この国は神々の怒りの元で滅びるのよ! いえ、滅んでしまいなさい!!」
物騒な事を叫ぶラエティティに、カーディルは必死で言葉を紡ぐ。
「落ち着け!聖女は生きている!殺したりしてないぞ!」
「息の根を……ん?生きている……?」
「あ、ああ!誤解だ、カズキは元気だ!今日だって……ラエティティ、さっき出された……名前はなんだったか……とにかく、此れはカズキが作ってくれたものだ。私達の為に一人で頑張って……」
指差した先にはカズキお手製の"ハニークリームチーズクラッカー黒胡椒を添えて"がある。
「聖女様、作った?」
「そうだ!カズキの、聖女の手料理だ!」
「何を訳の分からない事を……」
「父上!」
失礼を承知の上で、アストはカーディルへと近づいた。見れば何故かラエティティが怒りの表情で両手を上げている。だが、時間がないのだ。
今この時もカズキは聖女として前に向かっているのだから。
「ラエティティ女王陛下。突然の事お詫び致します。しかし、緊急なのです!」
ラエティティはまだ混乱の中にいたが、アストの必死な顔と付き従うヴァツラフを見て、取り敢えず両手を下ろした。何より聖女は生きていると聞こえたのだ。
「……構いません。どうぞ」
近寄るヴァツラフの様子を伺って、ラエティティは返す。
「父上、こちらに……」
父と息子はその場から離れ、ファウストナの二人に聞こえないよう話し合う。内密にしたいと言うよりは、どう伝えるかを決めなければならないからだ。
「なんだ?」
「実は……」
カズキが呟いたと聞いた言葉を交え、アストは全てを伝えていく。
死、駄目、急ぐ、そして涙……聖女として再び歩んで行ったのだ、と。
「ヴァッツ、何があったの?」
「いや、俺もよく分からない。アストは全てを話すと言っていたが……聖女の事だ」
「聖女様の……どういう事?手料理?今日も元気に?生きておられるとしても、北の街に……」
もしかして、何かとんでもない間違いをしているのか……怒りは消えて、不安になってくるラエティティは答えを求めて息子へ言葉を重ねる。
「詳しく話しなさい」
「いや……大した事では……」
自分の母親に女への告白を白状するなど、拷問に等しい。ましてや、告白は未遂に終わり返答すら不明なのだ。
「大した事じゃない?貴方ふざけてるの?今の状況が理解出来ないなら、姿を消して!」
怒りの矛先はヴァツラフに向かい、当人は頭を抱えるしか無い。
「実は……カーラに……」
仕方がないとヴァツラフは苦渋の決断をして、説明に入った。しかし、他国の王が救世主となる。
「ラエティティ。よいか?」
「……ええ、納得のいく説明を求めます。もう、嘘は許しませんよ?」
「ああ、申し訳ない。だから……言葉じゃなく、その目で見てみないか?」
「見る?」
「聖女カズキに会いに行こう。勿論、生きているぞ」
聖女に、会いに、行く?
生きて、いる?
頑張ってカーディルの言葉を反芻する。
鳥肌が立ち、体温が上がり、頭に血が上るのを感じる。もしかしたら目眩もあるかもしれない。ラエティティは自問する……聖女カズキ様に会える?今から?
「ラエティティ?」
「は、はい!」
逆上せる頭に喝を入れ、返事は大声になった。
「どうす……」
「行きます!早く……いけない、お化粧を……ヴァッツ、私変じゃない?髪も……こんな、駄目よ、失礼だわ……」
さっきカーディルに罰を与えるべく暴れたからだ。
「母上……」
最早演技も忘れ、どうしましょうとアタフタする母にヴァツラフは呆れてしまう。憧れの人に出会う少女の様にラエティティは落ち着かなくなった。
「……ラエティティよ、大丈夫だ。聖女は細かい事など気にしないし、心は誰よりも広く深い。司るのは慈愛と癒しだぞ?それに……貴女は十分に美しいさ、なあアスト」
「ええ。女王陛下、父上の言う通りです。それに時間がありません。急ぎませんと」
「わ、分かりました。で、どちらに?」
「ご案内します。それと、アスティア達も同行する事をお許しください」
結局落ち着く事なく、ラエティティは素直についていった。その手に"ハニークリームチーズクラッカー黒胡椒を添えて"を皿ごと大事そうに抱えて。
だってカーディル王が言った事が真実なら、コレはまさに聖女様のお手製なんだから……大変な宝物を手に入れたとラエティティは小さく二ヘラと笑った。
「カズキ様!」
城外へと走り去りそうだったカズキを見つけ、ノルデは呼び止める。立ち止まってくれた聖女に安堵して足早に近寄った。
「ノルデ」
「カズキ様……いえ、お急ぎでしょう。私が馬でお連れします。どちらへ?」
その意味を何とか理解し、カズキは考える。ノルデは矢継早に言葉を紡ぐので、半分以上分からない事が多いのだ。
細い指を整った顎先に添え、暫しの時間を要した。
「西、チェチリア、病院……治癒院?」
こうなればノルデも巻き込み、道連れだとカズキは決めた。もしかしたら酒の事も庇ってくれるかもしれないし、アスティア達にバレなければ何とかなる……そんな都合の良い事を考えながらカズキは目的地を伝える。
まさかアスティアどころかカーディル以下全員が追ってくるとは想像出来ないカズキだった。
「チェチリア、治癒院……カズキ様、まさかまた……」
「また?」
まさか、もうバレているのか?カズキに焦燥感が走った。
怒られるかも……また禁酒なのかと戦々恐々していたカズキにノルデは痛ましい、優しい声をかける。
「いえ……貴女の望むままに。直ぐに馬を回します。暫しお待ちを」
「……うん」
やはりノルデは味方だと安心する聖女。残念ながらノルデは行き先を他の者に伝えて帰って来るだけだが。
そして、時を置かずノルデは愛馬と共に戻った。
「カズキ様、此方に」
馬上からカズキを引き上げ、懐に収める様に自分の前に座らせる。手綱を握る両腕で挟み、絶対に落とさないようにと力を入れた。
見上げれば銀月は厚い雲に覆われ、僅かに光を届けるだけ。流石に巨大な月だけはあるが、それでも月明かりはいつ消えるかも分からない。焦ったカズキはノルデにお願いをする。
「急ぐ、早く、お願い」
ノルデの中に聖女の声が入り、救済の時と同じ熱い万能感が生み出されていく。自分は聖女の救済の道を共に歩いているのだと……僅かな助力だとしてもこの喜びに変化などない。
「はっ!では、しっかりと私に体を預けて下さい。揺れますよ!」
「はい」
間に合うか……あの酒、銀月とやらを必ず味わうのだ。最近飲んでなかったし、仕事も頑張ったから御褒美くらい大丈夫。バレてもそんなに怒られないかもしれない。そんなに量は無かったし、この際飲み切るかな……まあ、ノルデにも少しだけ御裾分けしてあげよう……
聖女の頭の中にこんな阿呆らしい独り言が流れているとは知らず、ノルデは偉大な聖女に付き従う自分を誇りに震えている。
騎士と聖女は、大門を抜けて西街区へと消えていった。
ザーザーと突然の雨が襲う。
当たれば痛い程で、馬上では雨宿りも出来ない。
ノルデは少しでもカズキを雨の矢から守ろうとしたが、意味は為してないだろう。
「カズキ様、何処かで……」
「駄目!時間、ない!」
焦りは最高潮に達したが如く、カズキは必死の形相に変わっている。通り雨だろうが、銀月には関係ないかもしれない。このままでは最高の酒を楽しめないと焦るばかりなのだ。
一方のノルデもカズキの表情を見て、かなり逼迫した状況と理解した。もう一刻も猶予がないのかもしれない……誰かの助けを呼ぶ悲鳴が聖女には聞こえているのだろう。
「くっ……」
手綱は湿り、重い。
何より懐に収まる聖女は濡れ、感じる体温も低くなったと感じる。侍女服からは雨水が滴り、灰色した髪はベタリと頬に貼り付いている。首に巻かれた包帯は薄く透けて、赤い肌と刻印すら見えた。
せめて少しでも早く……幸い雨のせいか人通りはない。角は気を付けるが、かなりの速度を出せるだろう。
「あの先です!」
「うん!」
遠くに治癒院が見えてくる。明かりも灯り、今日も遅くまでチェチリアは詰めているのだろう。
もう止まるのも煩わしいとノルデはカズキを抱えて飛び降りた。雨で足場も悪いだろうに、見事な着地を見せる。勿論カズキはしっかりと抱き止めたままだ。
「カズキ様!」
「ありがとう!」
二人はボタボタと滴を垂らしながら、治癒院の玄関に辿り着く。勢いよく扉を開け、カズキは声を出す。
「チェチ、リア!あの!」
奥の方から物音がして、すぐに人の気配が近づいてくるのを感じる。以前は内緒で不法侵入したカズキだが、流石に反省しているようだ。いや、隣りにノルデがいるからかも。
「あっ……」
待つ間に足元を見れば、かなりの水溜りが出来てしまっている。まさかこのまま病院に入るわけにもいかないと、直ぐに行動に移す。
肩から左右の腕を抜き、上半身は白くて薄いシャツ一枚になった。革の胴締め、つまりベルトがあるため全てを脱いだ訳ではない。
抜き出した侍女服を頑張って絞り、ついでシャツも引っ張り出してギュッとする。綺麗なお腹が見えて、慈愛の刻印が少しだけ露わになった。カズキは当然気にもせず、スカートを持ち上げて同様に絞る。ふと身動きしないノルデを見れば、真っ赤な顔をして此方を見ていた。
「ノルデ?」
「す、すいません……」
まさかこんなところで、偉大なる慈愛の刻印を見る事になるとは……余りの興奮と聖女の柔肌を見てしまった自分に嫌悪する。少しだけ男としての肉欲を感じてしまい、情け無くなった。目の前の聖女はただただ人の為に歩んでいるのに……
「ノルデ、も……」
ノルデも濡れ鼠だ。そんな格好では入れないし、何より最高級のお酒に失礼だ……カズキはそう考えて促す。しかし他の事に気を取られる事になった。
「カズキ様?」
奥からチェチリアが現れたのだ。
何時もの白衣、同じ真っ白な髪、皺くちゃの顔、優しい瞳。
「チェチ、リア。あの……中、に……」
何とかバレない様に中に侵入したい。焦っていたカズキは何の作戦もない事に今更気付いてしまう。まさか一人だけあの部屋に入って「酒盛りさせてちょーだい」などと言える訳がないのだ。
どうしよう……言葉が続かないカズキにチェチリアは優しく声をかける。其処には感謝と悲哀、そして自分への無力感が混じっていた。
「カズキ様、もしかしたら……今日こちらに来られるかもと考えていました。貴女にあの子達の声が、時間が無いと届くのではと僅かな希望を持って……そしてこの雨の中、此処にいる。やはり貴女は……」
「チェチ、リア?」
声?何だろ?チェチリアに酒の事は知られていない筈だけど……
時間が無いとか、もしかしてあの酒は会話までする不思議な酒なんだろうか?どれ程貴重なのか、カズキの期待は高まっていく。それに、チェチリアの話し振りから間に合ったと感じるのだ。
「いい?」
「勿論です。どうぞ奥へ」
「一人、入る、駄目?」
「……貴女が望むなら。でも辛い時は必ず呼んで下さいね?一人で苦しまないでください」
「あ、うん」
まあ、酔っ払って吐いたりしたら迷惑だろうし……しかしチェチリアは分かってくれていたんだな。なんてありがたい人なんだろう……そんな事を思いながら、奥へと進む。以前隠れた部屋の更に奥、少し薄暗かった広いところ。
もうノルデへの御裾分けも忘れて、カズキの胸は高まっていく。
ついにあの酒を味わう時が来たと、ダグマルにも感謝を忘れない。今度お礼もしなくちゃ、いや美味かったら入手方法を聞かなくては……カズキは決意を新たにする。
その横顔はまるで戦場に向かう戦士の如くだ。
「……カズキ様、身体を拭いて下さい。貴女が体調を崩しては、皆が悲しみます。それと……騎士の方?」
「は、はい!」
「理解はしますが、余りジロジロと見るものではありませんよ?まあ貴方ほど若いなら我慢も出来ないのでしょうが……騎士としてしっかりしないと」
濡れた白いシャツはカズキの肌を守る事をせず、薄紅色の下着は透けて見える。それどころか、慈愛の刻印も、そして5階位の癒しの刻印すら僅かに顔を出している。そして面倒になったのか、首から包帯を取ってしまった。つまり聖女である証、全ての刻印が目の前に顕れているのだ。
その尊くも余りに美しい聖女から目が離せなくなっていたノルデは慌てて視線を外す。
「も、申し訳ありません!」
「ノルデ、声、大き、い」
「あっ……もっ!申し訳ありません……」
そして……ついに聖女は辿り着いた。
世界にたった一人しかいない"黒神の聖女"が……いや"酒の聖女"と呼んだ方が正しいかもしれない。
そうして……二つ名を持ってしまったカズキは扉を大きく開いて、逸る気持ちのまま病室に入っていった。
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