黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜
a sequel(5)〜家族会議〜
コヒン=アーシケルは痛む腰をトントンと叩きながら階段を登っていた。一歩ずつゆっくりと脚を上げ、右手は壁に這わしている。額には少しだけ汗が浮かんでいるようだ。
クインの祖父であり、自称神代研究家のコヒンは剃り上げた頭を布で拭きながら息を吐いた。
「ふう……殿下もこの老ぼれに無茶を言うのぉ……今更現場仕事なぞ無茶苦茶じゃわい」
城の地下深く文献や資料に埋もれながら過ごす事が幸せだったコヒンはぼやく。リンディアでは珍しくない青い瞳は歳のせいか少し濁っているが、優しい人柄は十分に察せられた。
先の戦争で多くの犠牲者を出したリンディア王国は、復興に向けて人材不足に陥っていた。騎士達は再編成されたものの、内務にも多くの穴が開いており、カーディルやアストへの負担は増加した。そこで名誉の指名を請けたのがコヒンだ。元は宰相をしておりリンディア内務に詳しい。何よりクインを見ても分かる通り、明晰な頭脳は健在だ。リンディアにとって生かさない手はない人材だった。
そして再び宰相へと返り咲いたのだ。
「そうぼやかないでくれ、コヒン」
登り切った階段の踊り場にアストの声が響く。徐にコヒンが脇に抱えた資料を取り、負担を軽くするアストはやはり優しい王子なのだろう。そこには苦笑が浮かんでいるが。
「おお、殿下。荷物は助かりますが、出来るならあの穴蔵に戻して頂きたいですな。明日もしれない爺いに無茶をさせるものではないですぞ?」
「済まないが、陛下にも許可頂いた結果だ。諦めてくれ。私もコヒンの知恵に縋りたいし、どうか助けて欲しい」
ゆっくりと王の間に歩みながらも、2人は互いの思いをぶつけ合う。何処か楽しそうに。
「知恵などクインに頼めば何とかするでしょう。あれは身内贔屓を忘れても頭の切れる孫ですじゃ。カビの生えた爺いでは敵いませんぞ」
「クインは確かに大変有能な女性だ。いつも助けて貰っているよ。だが、今必要なのは古い古い知識だ。コヒン曰くカビの生えた知恵だよ。それにクインは聖女の相手で手一杯だ」
「聖女といえば、孫もぼやいていましたのぉ。中々珍しい事で、最初は驚いたものですじゃ」
「ははは……流石のクインも聖女には手を焼いているよ。毎日が賑やかで大変だ」
カズキの淑女への教育は中々、いや全く上手くいっていない。酒で釣るのにも限界があり、逃亡の技術は磨かれて行く。最早リンディア城から自力で抜け出す事すら可能だろう。アストすら知らない抜け道を駆使する聖女は、リンディア城内の名物になっている。
「聖女は元気ですかな?」
「クインのぼやき通りさ。笑顔も良く浮かべてくれて、城の中は明るくなった」
「ほほっ、それは良い事ですな。あの救済を果たした聖女が健やかならば、こんな良い事はないですからの」
その通りだ……呟くアストにも笑顔が浮かび、世界に平和が訪れた事を実感する。
「さあ……仕事だ。コヒン、頼んだぞ」
「仕方がないですなぁ……」
再び腰を叩くコヒンを伴い、アストはカーディルに会うべく大きな扉を開いた。
「やっと終わった……」
何時も明るく元気一杯のエリは、珍しくグデンと椅子に倒れ込んだ。お団子に纏めた赤毛も心なしか萎れている。燃え尽きました……更に呟くエリにアスティアはやはり珍しくご苦労様と労を労った。
「でもエリ……頑張った甲斐はあるわよ……きっとみんな驚くわ」
「それだけは自信あります……でもちょっと休憩……」
「後で御褒美を貰うわね。お父様もこれなら何でも言う事を聞いてくれるでしょう」
先程まで一緒に手伝っていたクインは先に王の間に向かっている。エリと違い疲れた様子は見せなかったが、扉を閉める寸前に肩で溜息をついたのをアスティアは目撃したのだ。
今日も朝から厳しい戦いの連続だった。
早朝、様子を見に行ったクインは目的の人物がベッドに居ないのを知る。明晰な頭脳は容疑者が既に部屋を脱走済みと判断。取って返すと、交代の騎士を総動員し捜索を開始した。まさか容疑者もアスティア、クイン、エリの三人だけでなく騎士まで動員するとは思っていなかったのだろう。
時を待たずして、逃走先は判明。
見つかったのは厨房だ。あちこちの棚や箱の中身を確認していたのだろう。流石に盗みは働いてないが、綺麗に整頓されていたソコは、乱雑に荒らされていたのだ。
アスティア達三人、更には騎士にまで囲まれた容疑者……まあ聖女だが……は逃走を断念。次には容疑を軽くする為、弁明と言う名の言い訳を始めた。
聖女の途切れ途切れの言葉を好意的に受け取り繋げれば、以下のものとなる。
昨日は夕餉が早く、お腹が空いた。
早朝だし誰かを起こすのは忍びない。
ならば自分で探そうと此処に来た。
色々探していたら楽しくなって、こうなった。
以上だ。
だが、残念ながら慌てて作った言い訳ほど論旨が破綻しているものはない。ましてや美しい瞳をふらふらと動かして、挙動不審なら尚更だろう。
「カズキ」
「なに?」
「何故、食べ物じゃなく飲み物があんなに沢山出ているのかしら?」
「食べたら渇く、普通」
「水ならソコにあるでしょう」
指差す先には透明な水を湛えた水瓶がある。アスティアはジッとカズキから視線を外さない。
「あ、甘い、飲む」
「甘いのは、どれも果実の漬け込みばかりだわ。それは飲み物と言わない。私が言ったのは、あっちよ」
更に細くて白い指先をアスティアは動かす。
そこには調理に使う果実酒や蒸留酒、ハチミツ酒などがそこだけ綺麗に並んでいた。殆どが料理に使われている為、バラバラに減っている。だが飲んだ形跡はない。明らかに目的の品があるのだ。
「間違い」
「そう……そう言えばカズキ、以前にクインがお茶に垂らしたお酒は飲まして貰えた?かなり気になってたみたいだから」
クインはカズキの勉強の進み具合で提供するつもりだったが、残念ながら合格していない事はアスティアも知っている。
此処でカズキの挙動は更に悪化する。
「あの時クインは言ったわ。焼き菓子とか使い途は多いって。此処はクインも使うし、特にお菓子に使う材料辺りが一番荒らされているわね」
「ま、間違い」
「カズキ……謝るなら今しか無いわよ?」
騎士達は笑いを堪えるため、必死で口を押さえている。涙が溢れそうな者は明後日の方向を眺めるしか無い様だ。
事実は明白だが、未だに言い訳を考える聖女にトドメが刺された。クインの一言は非常に重い。
「悪い聖女には二度とお酒は上げませんよ?」
そして容疑者の目的は達成されず、逮捕されたのだ。
「ほう……」
カーディルとコヒンは感嘆の溜息をつき、隣のアストは呆然と立ち竦んでいる。側に控えるクインは何故か誇らしげだった。
アスティアが先に入り、エリに片手を支えられたカズキが王の間に入った瞬間の出来事だ。
誰もが聖女だと知っているが、これなら会った事の無い他国の者すら確信するだろう。
足首まで隠すロングドレスは加護を齎す神々を表し、黒を基調としている。だがよく見れば全体に白と銀の線が斜めに彩られていて、重い印象を和らげた。肩は大胆に露出し、背後に回れば綺麗な背中も目に入るだろう。封印を施された聖女の刻印こそドレスに守られているが、ヤトの鎖はところどころ顔を見せている。肩から先、素肌のままの両腕には煌びやかな腕輪が幾つか並ぶ。
首回りの言語不覚はあえて隠さず、まるでソコに繋がっている様なネックレスが逆に脇役だ。
一房だけ編まれた黒髪は銀月の髪飾りも相まって、少女を大人に見せた。翡翠色が映える様、瞳周りの化粧は最小限だが、唇に引かれた紅は明るい花の様に淡い色を湛える。薄っすらと水白粉がのる頬は優しさを表しているようだ。
誰もがカズキの美しさを知っていたつもりだが、聖女として着飾った姿に自らの無知を恥じ入るしか無かった。
「これは……驚いたな……想像以上だ」
「まさに。宰相になった甲斐がありますな」
「殿下……しっかりして下さい」
クインの小声で我に帰ったアストは、しかし再びカズキを眺めるしか出来なかった。
「兄様……何か一言ないの?」
「あ、ああ……綺麗だ……」
「それだけ?」
カズキの手を取ったアスティアは近くまで連れて来る。少しだけ機嫌が悪いのか、笑みは浮かんでいない。それでも見上げて、カズキの瞳にアストを映した。
「カズキ……本当に綺麗だ……まるで夢の中にいる様だよ。本当に、凄く……」
だがアストの視界に何時ものニヤついた笑みを浮かべるカーディルが入ると、慌てて口を閉じた。
「なんだ?息子よ、続けていいんだぞ?何なら席を外そうか?」
「くっ……父上、始めましょう。大事な事ですし」
見ればアスティアまでニヤニヤしていて、アストはうんざりした。
こうして……朝から始まった戦いは結実し、エリ達の勝利となった。今回一番頑張ったエリは可愛らしく拳を握って満足感を全身で表していたという。
「ファウストナ海王国でしたかな?」
「ああ、女王であるラエティティが治める国だ。リンディアには無い海に面していて、戦士団が有名だな」
「私には魚を生のまま喰らう海人の方が印象が強いですじゃ」
「魚を生で食べるの?」
「そうですな。他にも貝や海藻も食すと文献にあります」
「お腹が痛くなりそう……それより美味しいの?それ」
「確かに不思議だな。私達には無い食文化だし、何でも国民の殆どが海に潜るらしい」
「魚みたいにエラとかあるのかしら?」
「アスティア様……」
「分かってるわよ……冗談でしょ」
ケーヒルより齎された報せはファウストナが未だ在る事だけでなく、会談を行なった事も含まれる。そして女王自らがリンディアを訪れる上、カーディルとの会談を申し込んで来たのだ。それ自体は素晴らしい事で、既に了承と歓迎の返答を返している。まだ暫く掛かるが、森も切り開き街道の整備も進行させているのだ。小国とは言え王族が訪れる以上、しっかりと応対しなければならない。
「他国からの来訪者、ましてや一国の主だ。実際には我等としても初めての事。皆で用意しないといけない。合わせて言うと第二王子のヴァツラフも伴うそうだ」
「彼方も復興が大変なんですよね?なのに女王陛下と第二王子殿下もですか?」
「ケーヒルからの報告によると、ファウストナは壊滅寸前だったらしい。考えられるのは復興支援の打診だろう。だからと言って女王自らとは驚くがな」
「ふむ……それなら想像がつきますな。あくまで資料からの推察でございますが」
「うむ。コヒン、皆に説明を頼む」
はい……そう返したコヒンの説明に全員が納得する。当時の数字と言えど、ファウストナとリンディアでは比べるのも烏滸がましい程の差があった。それは今も変わらず、ケーヒルからの簡単な報告からも察せられる、と。
「ファウストナから見たら、リンディアは超大国に等しいか……成る程な」
「国力、兵力、人口、資源、全てに於いて比べる事すら諦めるでしょうな。ましてやどちらも戦後の厳しい時。なれば想定は簡単ですじゃ」
「その通りだ。だが……大きな目的はそれだけでは無い。分かるだろう?」
全員が頷き、視線を移す。
その先には美の化身と化したカズキが座している。口にはエリから与えられた果物を頬張っていなければ尚良かったが。クインの教育は未だ途中なのだ……終わるか誰も分からないのが不安を掻き立てる。
「くく……まあ、そう言う事だ。聖女カズキへの拝謁、そう拝謁だよ。我等には会談で、カズキには拝謁だ。もう隠す気すらないな。まあ、救済の謝意を述べたいとあるが、その御加護に肖りたいのは間違いない」
「逆の立場なら私達もそうしたでしょう。父上としては、如何なさるつもりですか?」
「ん?こんな都合の良い事などないからな。海の資源も取り放題だし、何より塩は欲しい。占領でもするか」
「お、お父様!」
「それが一国を預かる者の役目だ。時には冷酷に判断しなければならない」
「そ、それは……」
俯くアスティアを見て、カーディルに呆れた顔を送るアストは仕方がないと話を受け継いだ。
「父上……私やコヒンなら良いですが、アスティアにはやめて下さい。悪い癖ですよ」
「殿下、私も嫌ですじゃ」
その言葉は敢えて無視して、カーディルを視線で促した。
「なんだ?間違ってなど……」
クインにすら非難の視線を受ければ流石のカーディルも観念した。
「分かった分かった。全く……アスティアよ、それも一つの考えだが、私には出来ない事だ。何故なら……此処には聖女であるカズキがいる。慈愛と献身の使徒、癒しの刻印を裏切れば、どんな神罰が降るか分かったものではないからな」
「お父様……」
「ケーヒルは不足していたククの葉を無償で提供したそうだ。それは奴なりの聖女への恭順なのだろう。それは私も変わらない」
「では……?」
「勿論友好国として歓迎し、出来るだけの援助をしよう。今は力を合わせる時だ」
アスティアは安堵の吐息を漏らすと、再び聖女を見る。
カズキは話し合いが全て理解出来ないのか、興味を失い「今日は、いい?」とエリ聞き、そして否定されている。何がいいのか、カップを傾ける仕草で判明した。
「では、今日のカズキ、この子の美粧は」
「ああ……聖女として拝謁に臨んで貰う為に、試しと心算を願う筈だったのだが……」
酒を断られたカズキの分かり易い落胆を見ると、全員に一抹の不安が過る。
皆が思ったのだ……コレ、大丈夫なのか?と。
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