黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜

きつね雨

エピローグ 後編 〜願いの先へ〜

 








「戻るかどうかは、カズキが決める事だ」


 ヤトは一言ずつ丁寧に言葉にした。


「どういうこと?」


「カズキが死にたがっていると言いたいのか……?」


「まさか、そんな事は無いさ。カズキは君達に愛を教わり、生きる幸せを知ったのだから」


 肩を竦め、はっきりと答える。


「では……何故?」


「カズキはこの世界の住人では無いから……もし彼方へ帰る事を希望したら叶えてあげたい。せめてもの罪滅ぼしさ……今のカズキなら人生をやり直す事が出来るはずだからね。それに、想像は出来ないと思うけどあの世界は……豊かで、日々を平穏に生きる事が出来る。食べ物も水も、夜や森も暖かく人を迎え入れるんだ」


 滅ぶ寸前だったこの世界とは違うのさ……そう呟くヤトはカズキの頭を撫でて慈しむ。


「カズキが帰る……?」


 アスティアはその意味を理解し、そして拒んだ。それはカズキに二度と会えない事を意味するからだ。


 アストも動揺を隠せず全身から力が抜けるのを自覚する。クインやエリも感情は拒否しても、言葉自体を否定は出来なかった。


「そんなの……そんなの嫌!兄様、兄様だってカズキに会えなくなるなんて嫌でしょう!?クイン、エリだって!」


 皆が俯き言葉を返せない。ヤトが言う事が理解出来るから……


「アスティア様……」


「みんな……なんで黙っているの……?カズキが居なくなるかもしれないのよ!!」


 アスティアはアストに縋り付き、何度も胸を叩いた。アストにとってそれは大した衝撃では無い筈なのに、酷く痛む。


「嫌よ……折角カズキが自由に……言葉だって……」


 呟く言葉は皮肉にもヤトの想いを肯定していた。カズキは自由で、進む道は自分で決めることこそが其れを意味するだろう。その意思を言葉で紡ぐ、カズキが自らの心に従うのだ……


 そしてアスティアも理解する。


 ヤトの言葉を否定できない事を……


 力が抜けたアスティアはアストに体を預けて、肩を震わせる。そして小さな泣き声が聞こえてくるまで時間は必要無かった。


 アストはアスティアを優しく抱き締め、ヤトへ頷いた。エリも涙を流し、クインすら目頭に光があった。


「ではカズキを助けよう。もし君達の前から姿を消したなら、そう理解してくれ。申し訳ないが別れの挨拶は出来ない。だが、この子が望むなら……最後の言葉だけは伝えに来るよ、約束する」


 アスティアの泣き声は今や慟哭に変わり、聖女の間に響き渡る。






 そして……


 神の奇跡が今、世界に顕現した。






 ヤトの右手の小指が消え、カズキの失われた腕が元の姿を取り戻す。使徒であり、人の領域を超えた聖女だからこそ、神を直接に受け取る事が出来た。


 続いて細い首に刻印が刻まれていく。以前にあった刻印と比べれば遥かに弱々しいが、明らかな鎖を形造る。見えないが右胸にある聖女の刻印に封印が施されただろう。


 全身にあった細かな傷は消えた。


 黒髪は艶やかに、ランプの光を反射する。


 そしてひび割れた相貌は少しずつ血の気を取り戻して、以前の美しさを湛えていった。


「アスティア、見てごらん。凄く綺麗だよ」


 泣き止まないアスティアに声を掛けて、ゆっくりと促した。


 もしかしたら愛する妹を目にするのは最期かもしれない。アスティアは気持ちを強く持ち、無理矢理に瞳を向ける。


 そこには間違いのない、何時ものカズキがいた。


 黒髪、シミひとつない肌、やはり綺麗な両手、ゆっくりと上下する胸、そして僅かに揺れる唇。


 何より目を離せなくなる美貌。


 そこにはアスティアの妹がいて、アストが愛する女性が眠っている。


 それが分かって全員から吐息が漏れた。


「カズキと会ってくるよ……もう一度、お礼を言わせてくれ。みんなありがとう……神々の加護があらん事を」


 黒神のヤトは言葉を残し、その姿を消した。


























「ヤト……」


 カズキは蹲っていた道から体を起こした。


 そこはヤトとカズキが初めて会った路地裏だった。遠くにネオンの光すらある。周囲にはゴミが散乱し、頭上の街灯は点滅を繰り返している。


 向こうから長身の男が歩いて来て、カズキはそちらを見たのだ。


 まるで焼き直しだが、違いは明らかだった。


 周囲に藤堂達三人のチンピラは転がっていないし、ヤトの髪は薄い金で真の顔そのままだ。胡散臭い黒髪でもなく、皮肉めいた笑みも張り付いてない。そして現実感が薄く、あの白い世界に似た場所なのだと分かった。


 何より、カズキの身体は小さな少女で、あの星空のワンピースを着ている。髪を触れば懐かしい髪飾りが揺れるのだ。


 記憶には暖かな思い出が残り、唇にはアストの柔らかな口付けの感触すらあった。思わず指を添え、僅かに赤らんだ。不快感は無い。


 はっきりと憶えている。


 優しいロザリー


 可愛らしいアスティア


 クインやエリも


 他にも沢山の人々


「アスト……」


 カズキは自分の在りようが変化している事を改めて自覚する。そしてそれが嫌じゃない。


 ふと自分の口から言葉が紡がれているのに漸く気付いた。その声は間違いなく少女のもので……少しだけ低いけど、可愛らしい声。


「カズキ、久しぶりだね。この路地で君に殴られたのが随分昔に感じるよ」


「久しぶり……だね」


 もう黒い憎悪は感じない。ヤトに対する警戒も、自らに思う絶望すらも。


「先ずは謝らせて欲しい、本当に済まなかった。君の意思を無視して僕の世界に飛ばしてしまった。そして刻印を刻み、多くの痛みと血を……」


「ヤト、謝る必要、無い。大丈夫……」


 カズキは言葉が上手く操れ無いと知る。何やら少し制限を感じるのだ。それが言語不覚の刻印と直ぐに理解し、同時に階位も掴んだ。


「聖女の刻印を封印する為、再び呪鎖を刻んだ。僕の責任だ……だけど刻印を消す事はしない。幾らでも罵ってくれていいよ」


 直ぐに首を横に振り、慈愛に溢れた瞳を向けた。そこには責める意思も、怒りも無い。


「ありがとう……そして改めて感謝を……僕達の世界を救ってくれた。どうお礼を言ったらいいか……人の世界ではどうするのか、こんな時は自分の権能が恨めしいよ」


 漸く皮肉めいた笑みが浮かんだ。だけどヤトの皮肉はカズキには向いてはいない。


「ヤトは言った。救いになるかも、と。その通り、だった……よ」


 カズキは全てを理解していた。刻印の意味も、ヤトの気持ちも、魔獣の存在も、聖女の在り様も。


 だから心は穏やかなままだ。


 寧ろ安らぎを感じる。元の世界の元の自分では決して知る事すら無かった。


 アスティアの様に、とは言えないが花が咲く様に笑う。


「綺麗だ……美しい女の子になったね。正に聖女だ、何処までも暖かな慈愛を感じるよ。昔に在った白神を思い出す……もしかしたら、君は……あの白神の生まれ変わりなのかもしれないね……不思議だ」


 カズキは首を傾げ、どうしたの?と聞いている。そこには言葉は無いが、直ぐに分かるのだ。


「ふふ……何でもないよ。しかし、何でここなんだい?君ならもっと他の場所を用意出来ただろうに」


「そろそろ、来る、知った。だから」


「だからここ?君らしいのかな……そうだ、要るかい?」


 懐から器用に煙草を取り出し、ヤトはグイとカズキに向けた。出会った時カズキが煙草を探していたからだ。ご丁寧にメンソールじゃないキツイものだった。親切なのか皮肉なのか分からないが、ヤトに悪戯じみた表情は見えない。


「要らない……お酒、は?」


「ああ、酒好きの酔いどれ聖女だったね。ちょっと待って……」


 ふと見ればその両手にはグラスが二つ。琥珀色の液体に丸い氷が浮かんでいる。薄く陽炎の様にユラユラと琥珀が揺れて、それがカズキの好きな酒と知れた。


 ニコリと笑い、小さな両手でカズキは受け取る。


 側から見れば背の高い男と少女が薄汚い路地裏で酒を酌み交わす姿に違和感が湧くだろう。だが此処には二人しかいない。キンッとグラスを重ね、同時に口を付ける。


「悪いけど酔わないからね?これは本当のお酒じゃないから……」


 聞いているのかいないのか、カズキは気にせず、嬉しそうに喉を鳴らしている。


「美味しい」


 どうやらお気に召した様で、ヤトは安堵する。


「それは良かった。もう煙草は要らないのかい?」


 両手でグラスを持ったままコクリと小さく頷くカズキは、何処から見ても少女だった。そのグラスを満たす液体が酒でなければもっと良かったかもしれない。


「そうか……野暮だったかな」


「ふふふ……でも、ありがと」


 ヤトは神でありながら、聖女の美しさに目を奪われた。それ程にカズキの笑顔は綺麗だったのだ。


「やはり聖女は凄いね、びっくりだ」


 肩を竦めて表情を変える。今から大事な話をするのだから当然だろう。


「カズキ……君に話がある」


「はい」


 二人の手からグラスは消え、そしてそれを驚きもしない。


「生きる世界を選んで欲しい。どちらを選んでも、僕は全てを賭けて助けるつもりだ。君には幸せになって欲しいからね」


 身体は既に修復し、いつでも目を覚ませる。青年の身体に戻す事も出来るし、元の世界なら刻印の力も消える。言語不覚も今の様に君を邪魔したりしない。心の平穏は勿論そのまま、安らぎも幸せな記憶すらしっかりと残るから安心して欲しい。


 もう一度人生をやり直す事だって可能だろうし、出来るだけ援助する。


 そう説明を尽くしたヤトは口を噤んだ。


 カズキは一度、少しだけ瞳を閉じた。そして、静かな吐息を吐く。周囲を見回し、積み重ねた段ボールに腰を下ろしてユラユラと体を揺らした。


「不思議、まるで……本物」


「ああ」


 サワサワと段ボールを撫で、もう一度目を閉じる。


「私の、知ってる、でしょ?」


「まさか……僕にはそんな力は無いよ。過去と違って人の心は水の様に揺蕩い、空の様に色を変える。それは世界を違えたがえても一緒だと学んだからね」


「そう?」


「間違いない、ホントだ」


 翡翠色の瞳を向け、その小さな唇で言葉を紡ぐ。


「私の願い……それは……」
























































 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 












 ヤトが姿を消して、時間はそう経ってはいない。


 クインが先ほど継ぎ足した暖炉の薪がパチリと弾け、アスティアは其方を見た。その暖炉の上にはカズキのナイフが飾られていて、翡翠の色を思い出させる。


 横たわるカズキの目蓋は閉じたまま。


 今にも消えてしまいそうで、アスティアは抱き締めたくなる。でも、触れた瞬間にフッといなくなったらと、直ぐ近くで見守るくらいしか出来ない。直ぐ隣にはアストがいて、きっと同じ気持ちなのだと思った。その視線は決してカズキから離れたりせず、その想いの強さを理解させる。


 もう随分な夜半だが、クインもエリも寝なさいとは口にしない。クインには珍しく周囲の気配りを忘れている様だ。


「カズキが……」


 ふとアストが話し始めた。独り言と思わせる程の小さな声だが、不思議と皆に届く。


「癒しの光が溢れる前、カズキが話し掛けて来たんだ。もう全てが終わったと諦めていた。魔獣に囲まれて……リンディアとみんなの最期を覚悟したよ。そんな時、声が聞こえて」


 幻聴なんかじゃない……初めて聞いたのに、それが誰なのか直ぐに分かった。アストはカズキから視線を外さないまま呟く。


「最初はアスト、と。その後はゴメンなさいって……今も何を謝ったのか分からないんだ。謝るのは自分の方なのに……そして、ありがとうって、私を見た。助けるから、大丈夫だよって……酷く腕や肩が痛いだろうに、笑顔すら見せて」


 アストはアスティアの前で泣いた事など無い。強く誇りある騎士として、アスティアを守る兄として、リンディアの王子として弱さを見せたりしないからだ。


 だけど……今は我慢など出来ないし、したくない。


 アストの碧眼から一筋の涙が落ちた。


「何で謝ったのか聞きたい……失いたくないんだ。カズキの意思を無視してでも掴んでいたい……」


「兄様……」


「情け無いよ、ついさっきアスティアの声に応えなかったのに……私は……」


 俯いたアストにアスティアは手を伸ばす。そんなアストは決して弱い訳じゃない。愛する人が消えてしまうと知った者に涙が浮かんだとしても、その涙に弱さを感じたりしない。


「あ……」


 その時、エリから小さな呟きが漏れる。


「殿下……アスティア様……」


 そしてクインも両手を口に当て、目を見開いて二人に声を掛けた。


 クインとエリの視線は全く動かない。


 サラ……サラサラ……


 それは真っ白で柔らかな掛け布が擦れる音。


 その白は聖女に掛かっている。


 そしてそれはハラリと少しだけ落ちた。


 眠っていた聖女がゆっくりと上半身を起こしたからだ。






















 優しい微笑が……暖かい笑顔が浮かぶ。美しい瞳は、どこまでも澄んだ翡翠色。短くなった黒髪はフワフワと靡いて、命を吹き返した。


 皆が強く望んだ願い、いつの日かカズキが言葉を……その唇から名を紡いでくれたなら。


 それは、どんなに幸せな事だろう……と。










「エリ」




 カズキは驚きで腰を床に落としてしまったエリを見た。




「クイン」




 癖毛を気にもせず、今も両手で口を塞ぎ、薄らと涙を湛えたクインも。




「アスティア」




 その声は少しだけ擦れているが、カズキによく似合って美しい。瞳はしっかりとアスティアを捉えている。アスティアは涙でカズキが見えなくなって何度も目を拭う。なのにその涙は次々と溢れてくる。




「アスト」




 翡翠色がキラキラと光を放ち、それは遠いボタニ湖を思い出させた。アストの胸にどこまでも熱い、強い、激しい感情が隆起する。それは斬ることの出来ない風、押し寄せる波、降り注ぐ雨。フルフルと震える手は決して止まらない。それでも無理矢理にその手を伸ばす。何故か酷く重い。










「ただいま」










 そして……


 4人は一斉に、聖女の元へ飛び込んだ。



























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