黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜

きつね雨

48.赤と黒の狂宴④

 






 魔獣の恐ろしさは数多く語られている。


 人を遥かに上回る質量は、それ自体が武器になる。 走り寄られるままに踏み付ければ、人など只の風船だ。 繰り出される腕や爪をまともに受ける事は自殺行為以外何者でもない。


 また、巨体で有りながら気付けば背後にいた……などの話も森を恐怖の園にしている理由の一つだろう。


 他にも恐怖を体現した体躯もそれに数えられる。 腹に響く唸り声や叫びと合わせ、心の弱い者は身動きも出来なくなるのだ。


 だが……魔獣と戦う、戦った者なら違う証言をする。 戦場から生きて帰った者のほぼ全てが必ず、体を震わせながら口にするのだ。


「恐ろしいのは、数だ」と……。


 確かに魔獣は恐るべき怪物だが、倒せない相手ではない。 過去、或いは現在の英雄達が何匹も葬ってきた。 指揮を取るケーヒルや、王都に居るアスト、若き日のカーディルなどもそれに数えられるだろう。


 森で魔獣と遭遇したら、全てを放り投げて逃げろ……森人達が口を揃えるのは、過去からの経験が物語るからだ。


 たった数匹なら……そう考えた者は、最期は埋め尽くす赤い壁に囲まれて絶望するしかない。












「カズキ……何を……!」


 ……そうか……しまった! アスト殿下からの手紙に……。


 ロザリーは此処に至って漸く思い出した。


 テルチブラーノでの癒しもカズキ自らの意思だったし、血肉を捧げるとは言えこの様な状態を見てはいなかったのだ。


 しっかりとあの長文には書かれていたではないか……!


 救うべく人が目の前にいれば、カズキの意思とは関係無く聖女の力を行使すると。 その強制力は想像を超え、カズキから自由すら奪うのだと……。


「カズキ……!」


「姐さん、もう遅い! 奴に見つかってしまう。 今は隠れて機会を窺うんです!」


 今にも飛び出しそうなロザリーを無理矢理押さえ付けて、フェイは何とか木の影に押し込んだ。 勿論ディオゲネスも付近にロザリー達がいるのは分かっているだろうが、態々探す事などしないだろう。 その可能性に賭けるしかない。


「ああ……カズキ……」


 あれ程恐怖に駆られた筈のディオゲネスにあっさりと捕まり、カズキはズルズルと騎士達の近くに連れて行かれた。


「姐さん、落ち着いて! 奴等にとって聖女は生命線だ、何としても守るでしょう。 兎に角近づくんです!」


 薄汚いディオゲネスの腕にカズキが捕まり、素肌に触れているのを見ればロザリーは怒りで狂いそうになる。


「くそっ……! ディオゲネス……!」


 早速倒れた騎士に近づいて、カズキは手にナイフを当てた。 あの美しいナイフはカズキを守る為に渡したのであって、そんな事に使って欲しくはない。 そうして直ぐに白い光が溢れ、若い騎士は立ち上がると奇跡に慄いている。


 魔獣と戦いながらもどよめきが立ち、騎士達の士気は見るからに上がった。


「見たか! 我らには聖女がいる。 死ななければいい! 直ぐに聖女が癒して下さるぞ!」


 ギリリ……!


 ロザリーは余りの怒りに歯を強く噛みしめたが、本人は気付く事も無かった。


 それを知った訳ではないだろうが、ディオゲネスは更に指示を出す。


「あの崖まで下がれ! 円陣はそのままで燃える水を使うんだ! 魔獣は火を恐れるぞ。 各個にブチ殺せばいい!」


 背後の憂いを絶てば、聖女を中心に戦い続ければいい……ディオゲネスはそう考えたのだろう。


 いつかは力尽きるが、それまで魔獣を殺せば良い……ディオゲネスの狂気は最早正常な思考を許しはしない。


 奇しくもロザリー達に近づいて来たディオゲネス達は隠れる2人に気付く事も無く、直ぐ側に陣形を組み直していく。


 これなら……未だ方法など浮かばないが、走り出せば手の届く場所まで来れば助ける事も出来る!


 ディオゲネスは物を引き摺る様に首に腕を回し、数歩先の大木にカズキを押しつけた。 そしてカズキからナイフを奪い取ると、細い右手を幹に押しつけて掌を開かせた。


 まさか……!? よせ!


 グジュ!


 そう思うロザリー達の目の前で、ディオゲネスは躊躇無くカズキにナイフを突き立てたのだ。 貫いたナイフは幹に深く刺さり、カズキを磔にする。 そして真っ赤な血が直ぐに流れ出して、細い腕を赤く染めていった。 カズキは悲鳴こそ上げないが、綺麗な顔を酷く歪ませて強烈な痛みを表している。


 もう我慢出来ない! フェイの持つ小剣を引き抜き駆け出しかけた時だった。


「……姐さん! アレを!」


 やっと……やっと味方が来たのだ! アレは間違いなくケーヒル達で、側にはジャービエルとリンド、ドルズスの姿もあった。


 距離はあるが、頼もしいケーヒルの声が森に響き渡る。


「全員抜剣! 魔獣を蹴散らしつつ、聖女を奪還して森を出る。 残念だが彼奴らも敵だ、神々の使徒である聖女を傷付けるなど許す事は出来ない! 行くぞ!」


「「「おう!!」」」


 残りの魔獣達も新たな獲物の登場に歓喜したのだろう、ギャーギャーと騒ぎ始めた。


「フェイ、行くよ!」


「ええ、行きましょう。 俺が背後から近付き奴の気を引きます、姐さんは後から聖女を!」


「ああ!」


 新たな騎士団の登場に目を向けるディオゲネスを殺してやりたいが、ロザリーは早くカズキを抱き締めたかった。


 混乱に乗じ、2人の森人も動き始める。


 狂乱の宴は始まったばかりだ。






















「ちっ……ケーヒルの旦那かよ。 流石に旦那を相手にするのは骨が折れるな」


 だが今は魔獣がいる……手にした燃える水の瓶を振り被り、見事な狙いで騒いでいる魔獣まで放り投げた。


 ディオゲネスは続いて燃え盛ったままの松明を掴み、思い切りぶん投げる。 執念の成せる技か、此れも見事に届き、爆発する様に炎が立ち昇った。


 キーーー!!
 ギギャーーー!!


 赤い炎に包まれた魔獣の悲鳴は、更なる狂気を呼び込んだ。 続々と森の奥から魔獣が集まり始めたのだ。


「マリギと一緒か。 くくく……魔獣共は代わり映えしないな。 全部殺してやるよ!」


 痛みに苦しみ、もう片方の左手でナイフを抜こうとするカズキにディオゲネスは顔を向けた。 ディオゲネスが力を込めたナイフは硬い幹に深く刺さり、カズキの力では抜く事が出来ない。


「聖女様、お手伝いしましょう」


 汚い笑みを浮かべたディオゲネスは残る左手を掴み、磔を完成させようとする。


 折角の宴から聖女が退席するのを許す訳にはいかないし、自らが聖女のお世話などやっていられない。 魔獣の悲鳴をもっと、もっと聞きたいのだ。 この大木を治癒院に見立てて、負傷者を運び込む……そう考えたディオゲネスの行動だった。


 その時背後から近づいたフェイは、ディオゲネスの首を狙って小剣を素早く横に薙いだ。 その技量はケーヒルが見ても見事だと唸るだろう。


 ビュッ!


「っと……危ねぇ……流石森人だな。 気付かなかったよ。 だが、惜しむらくは首じゃ無く胴を狙うべきだったな」


 それ程の剣にも余裕を崩さないディオゲネスは、いつの間か抜いた剣をユラユラと揺らした。


 ブシュ……! 分かりやすい音がしたと思うと、フェイの右腿から血が吹き出した。 躱し様に抜いた剣を振りかぶること無く、短く引いたのだ。


「な、なに!?」


 揺れるディオゲネスの剣には真新しい血が付着している。 ロザリーもフェイも剣の達人とは言えないが、それでもディオゲネスが尋常では無い剣士だと思い知った。


「俺をやりたいなら、ケーヒルの旦那かアスト殿下でも連れてくるんだな。 お前らでは力不足だよ」


 ケーヒルは勿論だが、アストも只の騎士では無い。 ディオゲネスをして、勝てると言い切れない相手はやはり存在する。


 だが……


 果たしてアストやケーヒルはコイツに勝てるのだろうか? 軽い口調に反して、ディオゲネスが人に見えなくなってくる。 フェイは絶望感が湧き上がるのを止められなくなっていた。


「なぜ……それ程の強さを持ちながら……」


「あーあー……もう聞き飽きた。 いいから早くかかって来いよ、其処の隊長さんもな」


 フェイの負傷に動揺しながらも、息を潜めていたロザリーにも目線を送った。


「来ないなら、聖女様にお仕事をして貰うまでだ。 俺は早くあの戦場に行きたいんだよ。 下らない時間稼ぎに付き合うつもりはない」


 周囲は阿鼻叫喚の絵図へと変貌したが、ディオゲネスは変わらずに平坦な嗄れ声をこぼした。


「……ディオゲネス……それ以上カズキに手を出したら……」


 あっさり見つかったロザリーは、立ち上がって気を吐いた。


 ディオゲネスは胸の剣帯からナイフを抜くと、ほぼ視線すら送らずに肘から先の振りだけで其れを投じた。 そのナイフは背中を見せていたカズキの肩に刺さり、やはり聞こえない悲鳴が上がる。 脱力したカズキは思わず腰が落ちたのだろう。 刺さったままの右手のナイフが更に傷を深く抉り、瞳から涙が流れ出るのが見えた。


「貴様!! 何を!」


「時間稼ぎには付き合わないと言った。 俺は魔獣に用があるんだ、よ!」


 一気に踏み込んだディオゲネスは、小剣を持つフェイの手首を簡単に切り裂いて笑う。


「ぐっ……!」


「フェイ!」


「あらら、大変だ。 早く治療しないと出血で死ぬぞ。 おっと、丁度目の前に治癒が大好きな少女がいるじゃないか。 安心していい、聖女の意思など関係ない事は実験済みさ」


 何処までも巫山戯るディオゲネスにロザリーは憤怒の感情を抑えられないが、同時に奴の異常な強さに手を出す事も出来ない。


 悔しいが、旦那の力に頼るしか……!


 一瞬だけロザリーはケーヒルを探したが、次の瞬間には驚くべき現象が起きた。


 ズドッ! 


 ディオゲネスの肩に矢が生えた。 いや、誰かが放った矢が見事に突き立ったのだ!


 見ればマファルダストの一団が近付き、其処から矢が放たれた様だった。


「……っつ! ちっ……こりゃお遊びが過ぎたか……流石に森人の弓は凄まじい」


 森の中の森人は弓兵などより遥かに強力な兵士だ。 矢は黒く染められ、ご丁寧に黒羽すら使われている。 薄暗い森で放たれた矢を目視するのは至難だろう。


 流石のディオゲネスも、素早く側の木に隠れて射線から逃げるしかない。


「ドルズスか! 姐さん、今だ!」


 フェイには、残心の姿勢を崩さないドルズスが見えていた。


「ああ! カズキ待ってな……今行くよ!」


 膝を落としているフェイも気になるが、兎に角カズキを助けないと! 背中に刺さったナイフすら抜く事が出来ていないのだ。 痛みで震えていても、右手のナイフが蹲るのを許さない。


 ロザリーは素早くカズキが磔にされた大木に駆け寄った。


 だが、肩から矢を引き抜いたディオゲネスは信じられない行動に出る。


 未だ構えを解いていないドルズスに構わず、姿勢を低く飛び出してロザリーに肉迫したのだ。 驚いたドルズスも再度矢を射掛けようと弦を引いたが、出血で膝をついたフェイの背後に入り、そのままロザリー重なれば放つ事など出来なかった。


「さて、ねーちゃん……って程の年でもないか」


 既にドルズスの位置も見切っているディオゲネスは、ロザリーを射線に立たせて背に剣を当てる。


「見ろよ、あの魔獣の数を。 マリギの再現だが、唯一の違いは聖女だ。 俺とケーヒルの旦那、お前達森人が居れば勝てるかもしれない……な。 お前等! コイツらを見張ってろ! 魔獣が近づいて来たら放り投げていい。 勝手に聖女の為に戦うさ!」


「「は!!」」


 ドルズスも魔獣の接近に此方を気に掛ける余裕が無くなりつつあった。


「くそっ……カズキを……」


「負傷した者は引き摺ってでも此処に連れて来るんだ! 治癒が遅れる様なら、死なない程度に聖女を傷付ければいい! それが聖女の使命だ、気にする必要はない……見ろ、!」


 余りに悔しく、自分の無力感に思わずカズキを見て……ロザリーはヒッと小さな悲鳴を上げた。


 先程まで痛みに苦しんでいたカズキは、フェイの怪我を見て身体を傾けていたのだ。 右手のナイフが邪魔をしているのに、それすら無視してフェイに左手を伸ばしている。 引かれた右手は更に出血が激しくなり、今にも掌を引き裂いてしまいそうだった。


「そんな……なぜ? カズキ、やめて……お願いよ!」


「なんだ、隊長さんはアレを見るのは初めてか? あれこそ聖女だよ。 ハハッ! 献身と慈愛、素晴らしいじゃないか!」


 早くフェイとやらを聖女に助けさせた方がいい、手が裂けるぞ? そんな残酷な台詞を吐きながら、ディオゲネスは魔獣の群れへと歩き出す。


「その森人を治癒させろ! 折角だからやり方を覚えるんだ。 左手に患部を当て、足りないなら左手も切り裂けばいい! 聖女だけは逃すなよ!」


 見張りに来た騎士三人は戦場の狂気に当てられたのだろう、歪んだ笑みは常人では無かった。


 カズキが自らの意思で聖女の力を行使したならば、左手どころか触れるだけで瞬時に完治する。 リンスフィアの奇跡を詳しく知らないディオゲネス達には、左手こそが力の発現場所にみえるのだろう。


 今の聖女には本来の力など出す事は出来ないのに……


 ディオゲネスは狂気の眼をギラリと輝かせると、緩やかな歩みを止めて駆け出す!








 漸く、漸くだ……この時を何年も待った。


 魔獣め、好きなだけ叫べ。


 アステル……お前の死と苦しみを何倍にもして、奴等を縊り殺してやる。


 待ってろーー


 殺す。


 俺も直ぐに行くーー


 必ず殺し尽くす。


 待っていてくれ……








 刻印、神々の加護は人に力を与える。 そして、ときに精神にすら影響を及ぼすのだ。 幾人もの人が英雄となり、中には常識を超えた戦士も居たと言う。 今や万人に一人と言われる使徒は、非常に少ない。 だが、ゼロ、では無い。


 ディオゲネスの頭部に刻まれた刻印……黒神ヤトの加護、憎悪の鎖縛さばく


 焦げ茶色の髪に紛れて、其れは見えない。


 ずっと昔に刻まれた刻印は、ディオゲネスを導くのか……それとも聖女の刻印、例え薄れても消えない憎しみの連鎖と共鳴しているのか。


 ディオゲネスは今まで感じた事の無い万能感を覚えて、歓喜していた。


 その憎悪が魔獣にのみ向けられるのは、神々の意思なのだろう。


 黒神ヤト……司る力、加護は……


 悲哀、そして、


 魔獣への神の尖兵、たった一人しかいない聖女のしもべ……其れを自覚しないディオゲネスは剣を両手で強く握り、雄叫びを上げた。















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