黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜

きつね雨

31.脱走

 


















「どけ! どいてくれ!」


 騒めく群衆の中でノルデの声が木霊した。


 少しずつだが円の中心に近づいていく。残りの3名の内もう一人も人波をかき分けて進んでいた。あと二人はアスティアの護衛に残っている。


 だが円の中心に近づくにつれ、密集度が上がり人も動かないため進まなくなった。皆が降臨した聖女を陶酔した目で見ており、祈りを捧げている者も多いのだ。




 血で汚れたワンピースの切れ端を捨て、子供の口周りを別の切れ端で拭いている。先程から母親が遠慮がちに断るが、全く手は止まらない。お礼を言ってもどう言葉をかけても反応すらしない聖女に周りも何かがおかしいと気付き始めた。


「もしかして耳が聞こえない……?」


 実際は聞こえないのではなく、意味を理解する事が出来ないのだがそれを知る者は周りにはいない。離れた場所にいるアスティア達なら違っただろうが、聞こえる様な距離ではないのだから。


「人を簡単に癒すのに、自分は治せないのか……?」


 誰かが呟いた言葉の意味を理解すると、皆はその余りの顧みない献身に慄く以外出来ないのだろう。


 やっと理解した母親は、そっと聖女の手を取った。そうして、なに?という顔をした少女を見て心からの笑みがこぼれた。


「聖女様、本当にありがとうございます。あとはわたくしがやりますから、どうか御手を癒して下さい」


 聞こえないならと、ゆっくりと話した言葉は残念ながら届かない。だが大凡は拭き取り満足したのか、今度は意識のない子供の頭を撫で始める。


「聖女様……どなたか羽織る物をお願い出来ませんか? 代金はお支払いしますから」


「代金なんて馬鹿な事を言うんじゃない。ほら、店の新品だ」


 服屋だろう群衆の一人が差し出した白い上着を受け取り、カズキの両肩にかけられた。真っ白な服はカズキの刻印を隠したが、その神秘性は失われたりしない。そうすると次々と人々がカズキに群がり、我先にと貢物を捧げたした。






「聖女様、包帯です。 左手に巻いて下さい」


「ほら、暖かいお湯だよ。綺麗な顔にも血が付いてるじゃないか、早く拭きなされ」


「ウ、ウチのパンです。 食べて下さい!」


「この果物は最高なんですよ! どうぞ」




 人から見たらキョトンとした顔に見えるだろう。だが何となく意味が分かるのか、おずおずと受け取る聖女に益々盛り上がり始めた。


「見ろ!俺んちのパンだぞ!」


 受け取って貰えたパン屋は、先程包丁を渡した男だ。商売道具を取られた事など忘れた様に嬉々としている。


「う、うー、んん……」


 意識のなかった男の子が目を覚ました事で、周りは再度歓声を上げた。 


「ミーハウ! 大丈夫? 痛い所はない?」


 起きたら人だらけで、歓声まで上がっているのだ。ミーハウは目を白黒させてキョロキョロと周りを見渡して、すぐ近くに物語の中の様な美しい女性がいる事に気付いてポカンと口を開いた。


「まあ、そりゃそうなるわな」


 先程服を持ってきた親父が納得の声を上げる。周りもウンウンと頷くばかりだ。


 もしここに、アスト達がいてカズキの顔を見たならば驚きと歓喜の声を上げるか、顔を赤くして黙り込んだだろう。




 カズキに柔らかな笑みが溢れていたのだから。






















 目を覚ました子供を確認したカズキは再び立ち上がって周りに視線を配った。


 先程までの柔らかい微笑はなりを潜め、いや強張った。見覚えのある男達が必死の形相で人垣を掻き分けて、こちらを目指しているのが見えたからだ。ノルデ達はただ聖女を護りたいが為に必死なのだが、カズキには自分を捕らえに来た国の役人にしか見えない。遠くには乗っていた馬車もまだある。


 カズキはパンを口に咥えると、貰った包帯を乱暴にぐるぐると左手に巻く。さらに地面に落ちているパン切り包丁を拾い上げると先程の子供の様にキョロキョロと周りを見渡し始めた。


 様子の変わった聖女にパン屋も服屋も怪訝な顔をしたが、次の瞬間には驚きの顔に変わった。


 カズキはおもむろに走り出し、先程飛び降りて来た店先に向かったのだ。普通なら人波に押されて進む事すら出来ないだろうが、聖女たるカズキの行動を止めるような者はここにはいなかった。


 人垣はカズキの進行方向に見事に割れ、店まで道を開いた。


 焦ったのはノルデ達だ。未だに中心にも達していない自分達を置いて、カズキが反対方向に走り出したのだから当然だろう。


「おい!止めてくれ!」


 アストやアスティアが叫んだなら変化もあっただろうが、若い騎士一人の言葉にはそれ程の力は無い。


 カズキは壁に向かって全速力で走り、周りがぶつかるのではと心配した時には店の壁を一度蹴って更に高い所まで伸び上がった。だが勿論屋根までは届かない、と思ったら振り上げた包丁をガツンと突き刺し、そこを支点にして身体を持ち上げ屋根に手をかけたのだ。 その時点で包丁は根元から折れて突き刺さった刃だけが残ったが、カズキの身体は屋根の上に到達していた。


 羽織っていた服は残念ながら地面に落ちたが、下から見ていた男共には別のものが見えて、ニヤつきそうになる顔を必死に抑えている。


 そこから更に建物の屋根まで上がったカズキは、少しだけ振り返って馬車にいるアスティアを見た。


 翡翠色の眼は何を思うのか、誰にも分からない。


 ジッとアスティアを見たあと、聖女の姿は屋根の向こう側に消えていった。


















「カズキ! 待って、行かないで!」


 声が届いたところで意味など無いが、それでも耐えられずにアスティアは声を張り上げた。


「カズキ!!」


 カズキが消えた屋根に向かって手を伸ばしたまま、涙が溢れて来てアスティアは崩れ落ちる。


「カズキ……どうして……?」


 両手で顔を覆っても我慢出来ない嗚咽がこぼれた。


 心から愛しているのに……初めて出来た妹にアスティアは翻弄されるばかりだ。


「……アスティア様、早く知らせないと……」


 エリも衝撃から立ち直ったとは言えないが、何とか言葉を絞り出した。


「ノルデ様にはカズキをそのまま探すように伝えて下さいますか? 私達は城に戻らないと……」


 黙ったままのアスティアに代わり、エリが近くの騎士にお願いをする。周辺がアスティアに気付き始めたので、エリはここを離れる事にした。


「わかりました、私が城まで共に行きましょう。おい、ノルデに合流してカズキ様を探すんだ」


「は!」


 もう一人の騎士に指示を出すと、その騎士は御者に話をつけに行った。


「アスティア様、城に戻りましょう?」


 嗚咽が止まらないアスティアの背中をさすりながら、エリもカズキの消えた屋根を見上げた。
























 城に帰り着いたアスティアを待っていたのは、怒りの形相を隠しもしないクインと、心配そうなアストだった。


 だがこの世の終わりという顔をしたアスティアが、エリに支えられて馬車から降りるのを見ると怒りは消えて戸惑いの表情に変わった。


「カズキは……?」


 アストの問いにアスティアは肩を揺らして、再び泣き始める。クインもとりあえずはアスティアを支えるのを手伝うしかない。


「いなくなりました……申し訳ありません」


 答えられないアスティアに代わり、エリが返事をする。


「いなくなった……? どういう事なんだ!」


「殿下、落ち着いて下さい」


 ビクリと青白い顔をうつむかせたエリを見て、クインが諌める。アストはまだ何かを言いかけたが、唇を噛んで我慢した。


「エリ、落ち着いてもう一度教えてくれる?」


 クインの囁きにボソボソと話し始めるエリの言葉に、二人は焦りを隠せなくなる。


「自分から逃げた? 誰かに連れ去られたのではないのね?」


「……はい。 姿を消す前にはこちらを、アスティア様をジッと見てました」


「……私が悪いの……ちゃんと皆んなに相談すれば良かった……ごめんなさい」


 アスティアの心からの懺悔は、アスト達に届いて暫しの沈黙を生む。


「意識もしっかりとして、カズキ自身の意思で行動しているなら、何か目的があるのかしら?」


 クインは連れ去られた訳ではない事に僅かだけ安堵して思い付いた事を呟いた。
  
「カズキがしたい事か……聖女として何かの使命を知ったとしたら、誰かを救いに行ったのかもしれない」


 勿論カズキは捕まりたくないから逃げただけだ。 崇高な使命など存在しないし、今頃はパンでも齧りながら次の行き先を考えているだろう。


「エリ。 教えて欲しいのだけど、その子供を癒す時に手をかざすのではなく、抱き締めたの?」


「……? はい、抱き締めたと思ったら白い光が溢れて一瞬で治ってしまいました」


「一瞬で?」


 先程聞いた子供の怪我は、アストが負った傷に匹敵する重症だろう。 それを一瞬で治癒?


 顔を見合わせたアストとクインは、何かが食い違う事に戸惑ってしまう。


「……今はそれどころではないか……カズキを探そう。 自分の意思だとしても、誰か悪意を持つ者に捕まらないとは限らないからな」














 直ぐに見つかるだろうと楽観していたアスト達だが、この日からカズキの姿は消える事となる。


 それから実に何日もカズキの続報は入らず、暫くはリンディア家に暗い影を落とす。


 だがカズキ発見の報が届いた時、聖女として使命を果たしに行っていたとアスト達は知るのだ。それが聖女の意思かは別として。


















 それと、カズキはリンスフィアに少しの変化をもたらした。




 カズキが咥えたパンは、聖女のお気に入りとして王都の名物パンになり、白い羽織りは聖衣として店先に飾られて、服屋は名所と化した。


 助けられた子供、ミーハウの名は流行りの名前となり名付け親がこぞって選ぶ事になる。カズキの名は畏れ多くて誰一人選んだりしない。


 壁に刺さったままのパン切り包丁の刃は、丁寧に飾られて新たな看板に変わった。


 事故のあった通りは、非公式ながら「聖女通り」と名前を変えて庶民の間で定着する事になる。








 久しぶりの明るい話題に、リンスフィアは暫らくの間沸き立つ事となった。


 黒神の聖女の名は全ての民の知るところとなり、その慈愛と癒しの力は多くの人々が語り継ぐだろう。


 これがリンスフィアに初めて聖女が降臨した日の出来事だ。































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