黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜
30.聖女の降臨
全ては偶然の産物だろう。
アスティアの優しさがほんの少しだけ早まった行動となり、この日この時この場所に馬車が通り掛からなければ起きなかった事だ。
前の日に少しだけ降った雨と僅かに落ち窪んだ道に車輪がはまってしまうなど、誰にも予想など出来ないのだから。
だから黒髪の少女が刻印を隠す事もなく街中に降りたち、歓声に包まれて大勢の人に取り囲まれているのも全ては偶然の産物なのだ。
アスティアが美しい顔を青白くさせて、幾人かの騎士が人波に揉まれて聖女に近づく事も出来ないのはどうにもならない事だろう。
この日初めて[黒神の聖女]が、リンスフィアに降り立った。
風に揺られた黒髪はサラサラと踊り宝石と見紛う翡翠の瞳と刻印が刻まれた肌は余りに美しい。
神話が紡がれていくのを誰もが感じていた。
「大丈夫ですかねー?」
「エリ、クインが相談すると言った事で駄目になった話なんてあると思う?」
つまり決定と同じなの!とアスティアは人差し指をピンと立てて、エリに自慢気に言う。腰に反対の手を添えているのが可愛らしい。
「それに姿を見せない様に馬車もこれにしたし、カズキには前の様にストールを被って貰ってるのよ? 誰にも気付かれたりしないに決まってるじゃない」
クインもアスティアの行動力を見誤っていたのだろう。クインが賛成に回ったと判断したアスティアは、即座に外にいたノルデに馬車の準備と護衛をお願いしたのだ。クインへの信頼と実績、その頼もしさは他の追随を許さない。ちなみにエリの事は大好きだとしか言えない。
星空のワンピースをそのままに、軽いお化粧で整えたカズキの手を引き今から馬車に乗り込むところだ。
ガラスのはめ込まれた窓はあるが、外からは反射して中を見えづらくした加工を施してある。 勿論良く観察すれば中の様子もわかるだろうが、それをする人間など皆無だろう。
本当はカズキと手を繋いで街中を散策したいが、クインの心配はよく分かるのでこれに落ち着いたのだ。
カズキの乗る馬車とノルデ達騎士4名はゆっくりと城門を抜けて外円部の街区へ向かって行った。
「あそこのお店ならあのワインが手に入るかもしれませんよ! ほら、あの店です!」
エリは馬車の中で一番はしゃいでいる。
この子を元気にする散策ではない筈だけど……アスティアは7歳も年上の女性を内心この子呼ばわりしたが、エリだものと訂正はしなかった。
でもカズキを見ると、少しだけ興味を惹かれるのかチラと窓の外を見るのだから文句を言う気にもならない。さっきからアスティアが話しかけても鈍い反応しか返さないカズキなのだから、嫉妬してもおかしくないわと渋々納得するのだ。
クインもよく言っていた、エリにしか出来ない事があると。
だからアスティアはエリが大好きなのだ。
カズキと二人きりも嬉しいけれど、今はエリが居てくれて本当に良かったと思う。
「あのお酒の名前わかるの?」
「? いえ、知りませんよ?」
……それでどうやって買って来るつもりなのだろうか? エリの事だから、身振り手振りで捲し立てて店員さんを困らせるのは間違いないだろう。それでも最後はちゃっかりと手に入れて来そうだ。
「はあ……仕方ないわね、エリだもの」
最近口癖になったセリフを吐いたアスティアの耳に、何かが倒れた様な轟音と、女性の悲鳴が聞こえた。
「いやーーー!! ミーハウ!ミーハウが!」
街道を緩やかに走っていた馬車と大きな台車が横倒しになっている。 大量に載せてあった材木が押し出されて地面に何本も転がっていた。 母親の劈く悲鳴は木材の落ちる音など関係なく周辺に響く。
窪んだ轍に車輪がはまり、昨日降った雨のせいで横に滑ったのだろう。 重量のあった木材が仇となり姿勢を崩したと分かった。
「大変だ……子供が下敷きになってるぞ! みんな手伝え!」
すぐさまに周りにいた者や、店番をしている男達が駆け寄って転がる材木を避け始める。馬車を引いていたであろう若い男は呆然と立ち尽くして動けない。
「馬鹿野郎! 先にこっちを上げるんだ!」
「そこを退け! これを置けないだろう!」
男達の怒声が溢れるなか、少しずつ木材が取り除かれていく。
「ああ……ミーハウ……どうして……」
漸く姿を現したその男の子は5歳位か、胴体辺りに落ちたのだろう木材で潰され、口から血を吐いて意識を失っている。
「だれか!早く治癒師様を!お願い!お願いよ……」
寄り添う母親の慟哭は高く響くが、誰もが助からない怪我だと絶望していた。僅かに上下する胸はまだ命がある事を知らせるが、例え治癒師がこの場にいてもその命の火が消えるのを止められるとは思えなかった。
「大変……! 馬車が倒れているわ!」
僅かに高い位置にあった交差する街道からは、事故の状況が見て取れた。アスティアの悲鳴でエリも馬車の扉を開けて様子を見に外に出て眺める。
「……ああ……小さな男の子が倒れています……酷い怪我……」
さっきまで元気一杯だったエリも、震える声で話し静かになった。
騎士達も駆け寄りたいが任務を放棄出来ずに動けない。
二人の目線は事故のあった方に向いていた。だから同じ様に外を見たカズキの無気力だった目に、力強い光が戻る瞬間を見逃したのもやはり偶然でしかない。
黒神ヤトは言っていた。
癒しの力と慈愛の心は、カズキが最初から持っていたのだと。その力は決してカズキを裏切ったりしない。
カズキは大人がどうなろうと知った事ではない。今まで癒した大人達も、刻印に縛られた精神と体がカズキの意思に反して動いただけだ。
だから今、カズキを突き動かすのは刻印などではない。自らの意思で、朦朧とする事もなく立ち上がって血を流す子供を視界に収めた。
子供の泣き顔など見たくはない。 そんな事許しはしない、いつも笑顔でいなくてはダメなんだ。
アスティア達に塞がれていない反対側の扉を開けて、馬車の天井を両手で掴む。逆上がりの要領で簡単に天井裏に上がったカズキは首を振り、子供がいる場所までのルートを決めた。
膝を折り曲げて飛び上がった先にある木箱を踏み台にして、店先に突き出る雨避けの屋根に飛び移った。天井からの物音に気付いたアスティア達はここで初めてカズキの姿がないことに気付く。
「カズキは!?」
もうその頃には次の屋根に次々と飛び移って行くカズキを止めるなど出来ない。突き出た看板を手をついて乗り越え、柱を躱す様に壁を蹴って走り抜けた。外に出る予定など無かったため緩やかに掛けていたストールは何処かへ飛んで行く。
看板に引っかかるスカートを邪魔に思ったカズキは、思い切り端を千切り飛ばして再び走り出した。
店先にいた主人達は上から響く物音に怪訝な顔をするが、すぐに遠くへと消えていき興味は別に移る。
はためくスカートはカズキの肢体を隠す役割を果たさず、馬車から見るアスティアの顔色が変わった。
「……大変だわ……下着も刻印も丸見えじゃない! ノルデ!止めて下さい!」
「は、はは!」
しかし群がる群衆の波に飲まれるノルデ達にはなす術など無かった。
前転して軒先きの幌に背中を預けたカズキは、その幌にビヨンと押し出されて次の屋根に辿り着いた。もう倒れた子供と母親はすぐそこだ。
その頃にはカズキの軽業染みた体捌きと、時折見える白い下着や素肌が注目を集め始めていたが、カズキは意に関せず最後の屋根から倒れた馬車に飛び移った。
もし現代人が見たらアクション映画の一場面か、パルクールだと騒いだだろう。
立ち上がって下を見ると泣き腫らした母親が、必死で声を掛け続けている。折れた材木から何本かの釘が飛び出しているのを見たカズキは、フワっと地面に降りると同時に左手の甲を戸惑いなく打ち付けた。裏拳を当てたかの様な動作は簡単に釘を突き抜けさせる。顔色は僅かに変わったがそれだけで、すぐに溢れ出た血に染まった手をズルリと抜いた。
「う、うわっ! あの子自分で釘に手を……!」
「あれって刻印か……?」
それを見た何人かが少しずつ騒ぎ始めたが、カズキはスタスタと子供に近づくと膝を地面に付けて子供を見つめる。
「な、なに? 変なことしないで!」
破れたスカートや血濡れた手を見た母親が叫んだのは当然だろう。だが子供を抱き上げて優しく胸に抱いた時には、すぐに声は消えて静寂が支配する。
パッ……!
花が咲く様に、花火が夜空を彩る様に、白い光が重ねた胸から溢れ出したのだ。
遠くから見詰めるアスティアやエリでさえ、柔らかい光が目に入り何が起きているのか理解出来た。実際に癒しの力を見るのが初めての二人は、その姿を陶然と見つめるしかない。しかし人混みに紛れていたノルデは、アストを救ったあの時とは違う光景に驚きを隠せなかった。
「……! 早い!一瞬で!?」
光ったと思った時には、子供の顔色が戻るのが分かる。呼吸も落ち着いて口から溢れる吐血も消えていった。側にいた母親は信じられないものを見たと、喜ぶ事すら忘れて、ただ子供の手を握るだけだ。
本当の聖女の力の一端がこの世界に現出した初めての瞬間だった。
聖女が自らの意思で強く心から願った癒しは、今までの力を簡単に凌駕して神の領域へと足を掛けたのだ。
「治った……?」
「嘘だろう……あんな怪我が一瞬で……」
「おい、確か噂で」
「……黒い髪、翡翠色の瞳、美しい顔……刻印……」
風が吹き、触らずとも分かる柔らかい髪は踊る。破れたスカートは簡単に舞い上がり、見えてはいけない白い布まで衆目に晒された。
首元に巻かれた鎖は間違いなく刻印で、チラリと見える左肩にもその欠片が刻まれている。それどころか舞い上がったスカートの下には別の刻印が見えたのだ。真正面にいた小さな女の子は、下腹部にある模様すら目に入った。
「聖女様……?」
小さな女の子の呟きはザワザワとした波となり、やがては大きな歓声へと変わっていく。
「聖女だ……! 噂は本当だったんだ!」
「なんて綺麗な子なの……あんなに沢山の刻印を持つなんて……」
「名前は……カズキ? 聖女、黒神の聖女カズキ様だ!」
「聖女が降臨した! 救いが遣わされたんだ!!」
爆発したような声の嵐が体を震わせて、漸くアスティア達は正気に戻された。
「大変だわ……どうしましょう……」
小さな命が救われたのは嬉しいが、これでは取り返しのつかない事になる。ノルデ達は大声で怒鳴り、近付こうとするが歓声に打ち消されて思う様に動けない。
助かった子供を涙を流して抱きしめた母親は、立ち上がったカズキを見て慌てて礼を言った。
「あ、あの……聖女様、本当にありがとうございます。えっと……この子の名前はミーハウ、ミーハウです。助けて頂いて……」
感情が昂ぶった母親は、混乱しながらも何とか言葉を紡ごうと必死にカズキの姿を目に捉えようとする。しかしカズキはまるで母親が居ないかの様に顔を上げて、スタスタとエプロン姿の男に近づいて右手を出した。
「せ、聖女様……なん、なんでしょう……?」
パン屋から見に来ていた男は、見上げてくる聖女の美しい目と美貌に魂魄を抜かれた様に返すしかない。
やはり無言のままでパン屋の男の右手を指し示して、再び手のひらを見せる聖女。
「こ、これでしょうか?」
右手に持ったままだったのパン切り包丁を聖女に渡す。
受け取ったカズキはおもむろに包丁を股辺りのスカートに突き刺すと、下にビリビリと破き始める。只でさえ目の毒だった聖女の肌が露わになると、誰かが唾を飲み込む音がした。だがその邪な情動に男は後悔する事になる。
千切り出した幾片かの切れ端を持ち、意識のない男の子に残る血を丁寧に優しく拭き始めた姿を見た者は、思わず両手を口に当てて声を上げるのを我慢するしかない。聖女の左手からはまだ血が滴っていたが、その血を拭き取るどころか子供にかからないようにする始末なのだ。
さっきまで歓声を上げていた群衆も、側で見ていた母親も声を出す事も出来ずに聖女の横顔を静かに見詰めるしかなかった。
「カズキ……」
アスティアもエリも、その尊い行いに衝撃を受けて動けない。
お転婆だったり、我儘だったり、最近は人形の様に大人しかった少女だと思っていたのだ。それが只人でなく聖女なのだと受け止める事がまだ出来ないのだろう。
この日、王都リンスフィアに聖女が降臨した。
噂は真実に変わり、人々は救いが齎されたと喜びの声を上げる。
黒神の聖女が一人で歩き始めた最初の日でもあった。
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