約束の大空

佳川鈴奈

37.消えない紅(あか) -花桜-

あの日から、
ずっと血の色が消えることはない。


池田屋で自分の意思で倒さなきゃ、
殺さなきゃって思って沖影を振るった、
剣の重みと肉を突き刺す感触。

切っ先が皮膚に触れた時に、
スーっと流れ出す血が広がっていく筋。

そして……返り血が肌に触れた感覚。





必死に振るい続けたそれは、
紛れもなく、殺人と同じ。




殺人……、人殺し。





沖田さんを瑠花に預けて、
屯所に戻った私が真っ先に直行したのは井戸。



井戸水を汲み上げて何度も何度も手を洗って、
着物を洗って、山南さんから借りた羽織を洗って。



どれだけ手洗いを繰り返しても、
その血の色はなかったことにはならない。





フラフラになるまで洗い続ける私に、
山崎さんが井戸から引き離して、
私の部屋へと連れて行った。




一人、部屋に閉じこもって
灯り一つつけることのない部屋の片隅で
ボーっと過ごし続けた一晩。



眠ろうとしても、
同じ感触と景色が何度も何度も脳裏に思い浮かぶ
今、安眠なんて出来るはずもなく
朝になると、その自室から逃げ出すように
一日の予定を機械的に消化していく。




休んでる暇なんてない。


逃げ出す場所もない。


自分で決めて
私は人を殺したんだから。






どれだけ洗っても、
掌の紅い血は消えてくれない。






早朝、太陽が昇り始めた頃から
井戸水を汲み上げて、屯所内を雑巾掛けしていく。


そして中庭をはいて道場の掃除。



その後は、炊事場に顔を出すとすでに井上さんが、
調理場にたって朝食の準備をしてくれているみたいだった。




「遅くなりました。

 今から朝餉、作りますね」




癖のように決まり文句を言って
立つ者のキラリと光る包丁の刃を見つめて
手が震えだす。



震える腕で、必死に野菜を剥いて切って行こうとするものの
安定しない腕は、皮すら思い通りに剥かせてくれなかった。



「山波くん。
 切るのは私がやるから」



そう言って、声をかけてくれるものの
素直に手放すことも出来ず、
必死に続けようとしていた私の手から、
その人は包丁と野菜を奪い去った。




炊事場に居場所が見いだせなくなった私は、
ふらふらと、庭に降りて隊士たちの洗濯を始める。




今までも血がついたものを
いろいろと洗い続けてた。



その時は何も感じなかったのに、
今は茶色くこびり付いた、
それにばかり目がいってしまう。





盥に沢山積み上げられた
洗濯物のあっと言う間に洗い終わると、
誰かが声をかけてきた気がした。



だけどその声に対して答える気力もなくて、
私は積み上げられた洗濯物を一人
干し続ける。





太陽の光が真上に上がりだす頃、
ボーっと見つめ続けた光に
立ちくらみを覚えて、
目を閉じると、またふらふらと歩き始めた。




やるべきことが終わって、
一人を自覚すると、
私の意識を支配していくものは
池田屋でのあの感覚。




そして……芹沢さん事件の日に振るった
あの日の感覚。



二度の感覚がリアルに蘇ってきて、
呼吸すらうまくできなくなりそうな
感覚に陥っていく。


突然込み上げてくる、吐き気。





そんな感覚からまた逃げ出すように、
中庭へと駆けだして、井戸水を汲み上げると
桶の中で何度も何度も手を洗い、
身に着けている着物をその場で脱ぎ捨てて
躊躇いもなく、その中へ付け込んで
必死に洗い続けてた。








自分でもどうしていいかわからない感覚。






だけど……池田屋事件についていくことも、
この世界で生きて行くという事も
全部、自分自身で選んだ道。



その道が辛いからといって、
誰かに甘えを吐き出すことも出来なかったし
したくなかった。




『小娘の覚悟はその程度かよ』って
斬り捨てられそうな恐怖もあったし、
瑠花にも心配かけたくなかった。




瑠花は沖田さんのことだけ今は
考えていて欲しい。




私の事なんて、
気にしなくてもいいから。









あの日から、そんな毎日が続く。









ただ何も出来ないまま、
もがき続けて、日だけが過ぎていく
一日がとても長い日々。





一人になるのが怖くて、
夜になるのが怖くて、
やるべきことがなくなるのが怖くて。





真っ赤に染まった着物と、
掌に流れる紅い血が怖くて。







気がついたら井戸水を汲み上げて、
同じことを繰り返し続けてた。








そうしないといけないような気がして。






「花桜ちゃん、カンニンな」






何度か山崎さんのそんな声を聞いて、
気が付いた時には、
自分の部屋の布団の中で
目が覚めてることが何度かあった。







熱っぽさや体のだるさを感じながらも、
その場で休み続けることも出来なくて
やるべき何かを探して、
ふらふらと屯所の中を彷徨いつづける。





「山波ふらふらしてんじゃねぇ。
 目障りなんだよ」


そんな私の前に立ちはだかって、
キツイ声をかけてくるその人を
ゆっくりと見上げて視線を見つめる。



「ひ……土方さん?……」

「土方さんじゃねぇだろ。
 お前、刀の手入れはしたのか?
 刀は武士の命だ。

 池田屋以来、手入れをしてないなんていわねぇだろうな」






手入れ?



池田屋?







脳裏に鮮明に蘇ってくるあの日の感覚に、
頭を抱えて、私はその場に座り込んでいく。




胃がひっくり返りそうになって
吐き気が込みあがってくる。





手を洗わなきゃ。

着物を洗って綺麗にしなきゃ。







何かに取りつかれたように、
中庭の井戸に駆け込もうと立ち上がった私の腕を
軽々と強い力で掴む土方さん。







「やっ、やめてください。

 私は……井戸に行かなきゃ」





必死に抵抗する私を逃がさないように掴んだまま、
その人は言い放つ。




「山波、今日の稽古はどうした?

 俺が直々に見てやる。
 今から道場に来い」



そのまま土方に引きずられるように
道場に連れて行かれて、
放り込まれると続いて木刀を投げつけられる。


木刀は受け取られることもなく、
私の近くで、コロコロと音を立てて床に落ちる。



「山波、どうした。
 木刀を取って立ち上がれ」



途端に怒鳴り声が道場に響く。




私は言われるままに木刀に手を伸ばして、
何とか構えた途端、土方さんが木刀を振り上げて
斬りつけてくる。




逃げることも、避けることも出来ないまま
体に木刀の痛みを受け、縺れた足をどうすることも出来ずに
その場に倒れこむ。







そんな時間は何度も何度も続いた。









私が意識を手放す、
その瞬間まで……。
















消えない血の残像を
一人でどうすることも
出来ぬまま
暗闇の迷宮を彷徨いつづけていた。


コメント

コメントを書く

「歴史」の人気作品

書籍化作品