君がいないと

夏目流羽

SS・その後のふたり

「だめ。このまま来て」

強く手首を握り締め、まっすぐな瞳で半ば睨むように見つめてくる蓮
その手をポンポンと叩いて宥めながら、俺はもう一度言い聞かせるように口を開いた。

「うん、そうしたいけどとりあえず1度家に帰るよ。荷物とか色々用意して、あとで行くから」
「だめ」
「蓮。着替えとか何もないんだから」
「俺の着ればいいでしょ」
「下着や歯ブラシがないと困るだろ?」
「買い置きがある」
「そうだっけ……?あぁ、そういや安かったから買い溜めしたな……」
「ほら、早く帰ろう」

強引に路地から引っ張り出され、そのままグイグイと腕を引かれる
何を焦っているのか、先を行く恋人はひどく頑なに俺を家へと連れて帰ろうとする
家……1ヶ月ぶりだな
俺がいない間どうしていたんだろう
すごく散らかっていたりするのかな?
それともーーー誰かが片付けていたり、なんて

「……ねぇ、蓮」
「ん?」
「この1ヶ月の間にさ、家に誰か入れた?」
「……どういう意味?」

交差点で立ち止まった蓮が、眉を寄せて見つめてくる
その顔は明らかに怒っていて、思わずこっちが動揺した。
手首を握る力が強すぎて痛い。なんでこんなに怒ってるんだろう、そんな変なこと言ったかな……?

「え、いや、別に……部屋、散らかってるのかなと思って」
「誰も入れてないけど、そんなに散らかってはいないよ」
「あ、そうなんだ」
「ほとんど寝に帰るだけだったから」
「へぇ……?」

寝に帰るだけ?なんでだろう……忙しかったのかな?
あ、俺がいない間ここぞとばかりに遊びまわってーー

「遊んでたわけじゃないから」

あまりのタイミングの良さに心が読まれたのかと思った。
信号が青に変わってまた足早に歩き出す蓮
その明るい髪色も、少し派手な服装も、特に何も変わっていないのにーーーなんだか雰囲気が違うのは気のせいかな
たった1ヶ月離れていただけなのに、なんだか少し大人になったみたいだ
いや、でもこの強引さは逆に出会った時みたいでもあるな
結局俺はあの時からずっと、この綺麗な年下の男に流され続けているのかもしれない

「……晶、鍵持ってる?」
「え?あ、もう着いたの?」

ぼんやりと色々考えていたら、いつのまにか蓮の家に着いていたようだ
言われるままに鞄から鍵を出そうとして……気付く
そうだ、この家の鍵はーーー

「ごめん。持ってない」
「……捨てた?」
「捨てるわけないだろ。返さなきゃとは思っていたんだけど……」

あの日、ポストに入れていこうか迷ったまま、結局持ってきてしまった鍵
実家の自分の部屋に大切に置いていて、見るたびに返さないとと思っていたそれーーー

「……返されてたら、立ち直れなかったかも」
「え?」

小さな声が聞き取れなくて蓮の顔を覗き込んだら、噛みつくようなキスをされた。
そのまま鍵を開けた蓮に中に押し込まれて、玄関の壁に押し付けられ激しく唇を貪られる
こんな風に触れ合うのはいつぶりかな
ここを出て行く前も、仕事が忙しくてすれ違いが多かったから……多分2ヶ月くらいはしていないと思う
まぁその間蓮は女の子と遊んでいたわけで、俺はブランクがあるんだからもっと優しくしてほしいんだけど?なんて少し意地悪なことを考えていたら、チュッと唇を吸って離れた蓮が苦しそうに顔を歪めて俯いた。

「……ごめん」
「え、なにが?」

ほんとに心が読めるんじゃないかとドキドキしてきた。
でも蓮はそれ以上言葉を続けず、ただ俺の手を握って奥へと歩き出す
慌てて靴を脱ぎ「お邪魔します」と上がったら燃えるような瞳で睨まれたので「ただいま」と言い直した。

そのまま連れていかれたのは寝室で、シーツがくしゃっと丸まったベッドに座らされる
もうするのかな、ローションとかまだちゃんとあったっけ……なんて思っていたら、ガタガタと鏡台の引き出しから何かを取り出した蓮が戻ってきた。
無表情で差し出されたそれはーーー

「あ、手紙……」

封筒を開けて中の便箋を開いてみれば、見慣れた自分の文字
ここを出て行くと決めたあの日、蓮を起こさぬようリビングで1人書き連ねた想い
なんだか随分昔のことのようで、それでいて昨日のことのようにも思い出せるそれを眺めていたら

「破って」

静かに響いた声
え?と顔を上げると、見下ろしてくる蓮はとても真剣な顔をしていた。

「それ、破って」
「え、これ?」
「うん。だってもう必要ないでしょ?」

そう言われてもう一度その手紙に視線を移す
別れの決意と蓮への想いに溢れたそれは、どこまでもまっすぐな心の声
今読むと少し恥ずかしいその文は、蓮の心にちゃんと届いたんだろうか
こいつは想いを伝えるという役目は果たせたのかな?
だとしたら、確かにもう必要ないか

指に力を入れればピリッと小さな音を立てて破れた手紙
そのまま半分、また半分と破り小さくなった紙切れを両手に持って顔を上げたら
蓮はぽろぽろと涙を零していた。

「……え」

あまりに突然でなんの前触れもなかったそれに、驚きすぎて反応ができない
目を丸くしてただただ見つめていたが、はたはたと止まる気配のない涙に慌てて紙切れを封筒に入れてから手を伸ばした。
手首を掴み引き寄せるとふわりと抱き着いてきた蓮が首筋に顔を埋める
溢れる涙はまだ止まらなさそうだ

「……蓮?どうしたんだよ」
「花は捨てた……んだけど、それは、捨てられなくて……」
「うん」
「晶が戻ってきたら、晶に捨ててもらおうと思って」
「そっか」

じゃあ望み通りに破って捨てたんだから、笑うところなんじゃないか?
なんでこんなに泣いて……手も震えてるし、声もなんだか情けない
あぁそういえば、カフェで顔を見た時に思ったんだ

「蓮、寝不足?」
「……え?」
「なんか、そんな顔してたから」

付き合っていた2年間、同棲していた間でさえ、蓮が泣いた記憶なんて一度もない
そんな貴重な泣き顔を1日で2回も見ることになるなんて。きっと寝不足で情緒不安定なんだろう

「ほら、ちょっと寝なよ」

抱き締めたままコロンと横になれば、困ったように眉を下げた蓮がじっと見つめてくる
その綺麗な顔は変わっていないけれど、やっぱり少し疲れてみえる
頰から耳、頭を撫でてやると赤くなった目尻がとろんと下がった。

「昨日寝てないのか?」
「寝れなかった」
「もしかして、けっこう何日も寝不足?」
「……眠れないよ。晶がいなきゃ」

え?と聞き返そうとしたけれど、もう蓮の目はほとんど開いていなくて。涙に濡れた長い睫毛が綺麗だ
なんだか可愛いことを言っていたのは寝ぼけていたのかな
せっかくだから俺の胸だけにしまっておこう

髪の毛を梳かすように頭を撫でると、手探りで伸びてきた手が俺のシャツをキュッと握る
皺が残りそうなほど強く握られたそれと、どこか不安げな寝顔に胸が痛むのはーーーその姿を見慣れているせい。

大学を卒業して念願の出版社に就職したけれど、俗に言うブラック企業だったのは確かで。
早出残業休日出勤と時間外労働が当たり前の世界、明らかにヤバイとは気付いたけれど就職したばかりで退職という選択はなかなか出来なかった。
あっという間に自由な時間は無くなって、心に余裕も無くなって……蓮との時間も取れなくなって
不満げな蓮の文句や拗ねた態度はとても可愛かったけれど、充分に愛を伝えられていなかったのだろう
いつからか、蓮は“外”で遊ぶようになった。
もちろんショックだったし、悲しかったし、苦しかった。でも、怒りはなかったんだーーー本当に。
構ってやれていないのはわかっていた。セックスも明日の仕事を考えて断ることもあった。全部俺のせいだと思っていた。

それに、深夜に帰ってきてまず確認する寝室
いつも横向きで身体を縮めるように眠っている蓮が、まるで小さなこどものようで
その顔はいつもどこか寂しげで
“外”の匂いを纏っている時でさえ……それは変わらなくて。

このままじゃ駄目だと思い始めた時、仕事で担当している作家の佐倉先生から転職を勧められた。
どれだけ辛くても3年は頑張るべきだと思い込んでいた俺に、彼は「自分にとって最高の場所が一度で見つけられると思うなよ」と言った。目から鱗だった。
「転職は逃げじゃない」と言い切る彼に背中を押されて決意をした日から数日後、蓮の“浮気”を見てしまって……本当に迷ったんだ
転職したら今よりも一緒に過ごす時間が増えるはず
そうすれば蓮も遊ばなくなるかもしれない
5回で終わらせるというルールは蓮は知らない
俺が言わなければ、俺が終わらせなければーーーなんて、こんな関係はお互いにとって良いわけがない
このままじゃお互いダメになってしまうと分かっていた。

『自分にとって最高の場所が一度で見つけられると思うなよ』

蓮にとっての最高の場所が、俺の隣とは限らない
その無限の可能性を、俺が邪魔しているのかもしれない

そんな想いであの日、泣きながら書いた手紙
1ヶ月後に自分で破り捨てることになるとは……思わなかったな
思わず苦笑を漏らしてから、もう一度蓮の頭を撫でる
さっきよりは少し力が抜けたけれど、まだきつく握られたままのシャツ
起こさないようにそっと少しずつ指を外し、かわりにシーツを近付けると抱き枕のようにギュッと巻き込んで眠るさまが可愛い
静かにベッドから降りて封筒をゴミ箱に捨てると、なんだか気分がすっきりとした。

これで良かったのかは分からないけれど、あのカフェで偶然会えたのは運命なのかもしれない
蓮が何を思ってあんなに縋ってくれたのかは分からないけれど、まだお互いに想いが残っていたのは確かだと信じたい
この先どうなるかなんて分からないし、また終わりがくるかもしれない
でもそれまではーーー隣に居ても許されるんじゃないかな

『なんでもいいから、そばにいて』

蓮がそう望んでくれている間は。

「よし」

俺はひとつ気合を入れてから、キッチンに向かい冷蔵庫を開けた。
中はほとんど1ヶ月前から変わっていない……俺の作り置きしたごはんはちゃんと全部無くなっているけれど。
卵や牛乳なんかは一応新しくなっているようで安心した。最低限のものは食べていたのかな
とりあえず米をさっと洗って炊飯器のスイッチを入れ、あとはとりあえずあるものを使って作れるメニューを考える
でもやはり限界はあるから、あとでスーパーに買い物に行こうかな……と卵を手に取りながら悩んでいたら

「あ、あきら……っ!!!」

激しい物音を立てながら、蓮がリビングへと転がり込んできた。
「もう起きちゃったの?」とキッチンから顔を出すと、目が合った蓮は顔面蒼白で

「ど、どうしたの蓮」
「あきら、あきら……良かった……」
「え?なにが」

よろよろと近付いてギュッと抱き着いてくる恋人
存在を確かめるような抱擁に思わず笑いながら、ぽんぽんと背中を叩いてあやす

「……また、いなくなったかと思った」
「ふはっ、ごめん。昼ごはん作ろうと思って」
「晶、ごめん。ごめんね」
「ん?」
「あの日、謝ろうと思ったんだ……でも、もう、いなくて」

背中に回された手が震えているのを感じる
もし今胸に耳を当てたら、とんでもなく早い鼓動も聴こえるんじゃないだろうか
さっきの手紙もそうだけど、もしかしたらあの日の朝のことは……蓮にトラウマを残しているのかもしれない
俺がいなくなったくらいでそんなことになるなんて、考えてもみなかったけれど
少しだけ、ほんの少しだけならーーー自惚れてもいいのかな、なんて。

「蓮、俺もごめん」
「晶はなにも悪くない」
「追いかけてくれて、ありがとう」

ゆっくりと身体を離して見つめ合えば、蓮はまた涙を浮かべながらぶんぶんと首を振った。
そういえば出会った頃はこんな風に、いつだってストレートで分かりやすい子だったっけ
きっと俺が、我慢することや間違った発散方法を覚えさせてしまったんだ

「蓮、愛してるよ」
「……俺の方が愛してる。最初から、ずっと」

ぽろりと零れた涙を掬ってそのまま唇を合わせる
微かな苦さがスパイスになって、キスの甘さを際立たせているようだ
縋るように抱き締めてくる腕を甘受しながら、俺は思っている以上に愛されているのかもしれないーーーと素直に自惚れることにした。


佐倉先生から“あのカフェの再会”が偶然じゃないことを聞くのは……どうやら思っている以上に愛されていたことを認識するのは……それから数日後のこと。

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