旦那様は魔王様

狭山ひびき

3


沙良はベッドから出て、さて今日は何をしようかなと考えた。

部屋の壁掛け時計の針は、朝の六時を指している。

昨日お風呂に入る前にうとうとと眠ってしまったから、まずお風呂に入ろうと、沙良は着替えを片手に続き部屋のバスルームに行った。

バスルームにたくさんある入浴剤のうち、薔薇の香りのバスボムを手に取り、湯を張ったお風呂の中に入れる。

両親には愛されていないが、モノを与えるのは義務だと思っているようで、こういった女の子らしい小物はたくさん与えられた。

もちろん、直接手渡してくれるわけではなく、お手伝いさんが部屋の入口の大きな箱の中に、ポンポンと届けくれるだけだが。

しゅわしゅわとバスボムがとけると、薄いピンク色になったお湯の中に沙良は肩までつかって、ふぅと息を吐きだす。

今日は誕生日だから、大好きな恋愛小説を読んで、お手伝いさんが届けてくれるだろうケーキを食べて、それから――

考えて、沙良の心はしぼんでいく。

結局、そこにケーキがあるかないかの違いだけで、いつもと何も変わらない。

沙良はお湯に浮かぶ、自分の長い黒髪をなんとなく指に巻き付けた。

一年に一度――誕生日の翌日に、両親が雇った美容師が髪を切りに来る。

それ以外は伸ばしっぱなしのため、今は背中の半分くらいの長さまで髪が伸びていた。

(あ、新しく届いた小説があった!)

沙良は、続き物の恋愛小説の最新刊が、昨日、部屋の前の箱に届けられていたことを思い出した。

そうだ、今日はそれを読もう!

沈んでいた気持ちがちょっとだけ浮上して、沙良は鼻歌を歌いながら髪を洗う。

別に淋しくなんてない。

ずっと一人だから、慣れている。

髪を洗い終わりお風呂を出ると、洗面台で髪を乾かす。

洗面台の鏡に映る自分の顔は、日に当たらないせいか、真っ白だった。

真っ白な肌に、黒い髪。丸く大きな目に、小さな口。

この顔は、昔見たことがある母の顔にちょっとだけ似ている。

この顔が美人なのかそうではないのか、判断基準を持たない沙良にはわからないが、沙良は自分のこの顔が嫌いではなかった。

沙良は髪を乾かし、櫛で軽く整えると、バスルームから出て、さっそく小説を取りに行こうとした。

だが、バスルームから一歩出たところで、思わず足を止めた。

沙良の大きな目が、さらに大きく見開かれる。

誰もいないはずの部屋の真ん中に、背の高い男が立っていたからだ。

全身黒い服を着ていて、ほんの少し長めの髪の先が肩にかかっている。

沙良が茫然と立ち尽くしていると、男がゆっくりと沙良の方を向いた。

「―――っ」

沙良は思わず息を呑んだ。

男は、恐ろしく綺麗だった。

綺麗、という言葉しか思い浮かばなかった。

目も、鼻も、口も、すべてが絶妙なバランスで配置され、少し眉間にしわを寄せた神経質そうな眉さえも、その配置だからこそ美しいと思ってしまう。

だが、綺麗と思うと同時に、背筋が凍りそうなほど冷たいと思った。

「……だ、れ……」

普段言葉を発する機会がほとんどないため、たったそれだけの言葉を絞り出すのもやっとだった。

男は大股で沙良に近寄ってくると、茫然としている沙良の左手首をつかんで乱暴に引き寄せた。

ぐらりと体が前のめりになって、男の胸元にぽすっと顔をうずめてしまう。

慌てて顔を上げると、氷のような冷たい双眸が見下ろしていた。

男はじっと沙良を見下ろして、

「貧相だな」

ぼそりと、特に興味も無さそうに吐き捨てた。

「まあいい、来い」

ぐいっとまた腕を引かれる。

後ろ手に沙良の腕を引きながら男が歩き出したから、沙良は足がもつれて転びそうになった。

「ま、まっ…て」

必死に沙良が声を絞り出すと、男が足を止めて振り返る。

止まってくれたことにほっとして、沙良は男を見上げた。

「あなた、誰?」

訊ねると、男が少し驚いたように目を見開いた。

「聞いていないのか?」

「なに、を?」

首をかしげると、男はあからさまに面倒そうな顔をして、チッと舌打ちする。

それから、相変わらず冷たい瞳で沙良を見下ろしてから、告げた。

「お前は俺の生贄だ――」

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