夢の中でも愛してる

狭山ひびき

8

セリーヌが小規模な婚約披露の場だと言っていたが、城の大広間を使った舞踏会は、それなりに招待客も多かった。

簡単な婚約披露とは言え、王族の開くものなのだから仕方のないことなのかもしれないが、ほとんど知らない人に囲まれて、遥香が怖気づいていると、クロードが大丈夫だと言うように微笑んでくれる。

国王の短い挨拶ののち、遥香はクロードとファーストダンスを踊ることになった。

ゆったりとした曲調のワルツが流れると、クロードを見つめながら足を動かす。周囲の視線を感じて緊張するが、別荘に行ったときにしっかり練習したこともあり、クロードとの息はぴったりだった。

「少し間があいたから心配だったが、大丈夫そうだな」

クロードが遥香の腰を引き寄せてささやく。

「最初は俺の足を容赦なく踏んでくれたものだが、うまくなったものだ」

「え?」

クロードが楽しそうに喉の奥で笑ったが、遥香は小さく首を傾げた。

(足なんて、踏んだかしら……?)

くるりとクロードに誘導されてターンする。

優しく細められているクロードの青い瞳を見上げて、遥香はハッとした。

クロードとダンスをしたとき――湖畔こはんの別荘で練習したときも、遥香は一度もクロードの足を踏んでいない。

めったにダンスを踊ることのない遥香が、男性の足を踏んだのは、ここ最近では一度だけ。仮面舞踏会に黒と金の仮面をつけた紳士と踊ったときだけだ。

あのとき、遥香は一度だけ、彼の足を踏んでしまったのだ。

(……やっぱり、クロード王子だった)

そして、足を踏まれたと言うクロードは、あのとき仮面をつけていた遥香をちゃんと認識していたのだ。

(黙ってるなんて、ちょっとずるい……)

遥香は知らなかったのに。少しムッとする。

「……わたし、クロード王子の足なんて踏んでません。踏んだのは、黒と金の仮面をつけた、クロード王子と同じ金色の髪に青い瞳をした男性です」

遥香が意趣返しのように言うと、クロードが目を丸くしたあと、バツが悪そうな顔をする。小さな仕返しができてすっきりした遥香は、曲が終わり、クロードとともに一礼したのち、大広間の壁際に移動しながら、

「あの時の仮面の方は、クロード王子だったんですね」

「……黙っていて悪かった」

「本当です。言ってくれればよかったのに」

「それは……」

クロードは口ごもると、はあ、とため息をついて遥香の腕を取った。

「ちょっと来い」

遥香はそのままクロードに手を引かれて、大広間から回廊を渡り、中庭に出る。

ようやく日が沈んだばかりの空は、まだ薄紫色で、白っぽい月が浮かんでいた。

大理石で作られた四阿まで手を引かれて行けば、すぐ近くに、クロードが幼いころに遊んだと言う、太い木の幹に括りつけられたブランコがある。

クロードはブランコに腰かけると、立ったままの遥香を見上げた。

「どうして黙っていたんですか?」

遥香が問うと、クロードは観念したように肩を落とした。

「あのときお前は、俺のことが苦手だっただろう?」

遥香はハッとした。

クロードはキィと音を立ててブランコを揺らす。

「気づいていないと思ったか? 俺がそばに寄るたび、何か言うたびに、お前は怯えたり困ったような顔をしたりしていた。仮面舞踏会のとき、俺だと正体を明かしていたら、お前はきっと楽しめなかっただろう?」

「……ごめんなさい……」

「謝らなくていい。俺が最初を間違えたんだ。後悔はしていないが……、もう少し考えるべきだった。ずっと会いたいと思っていたから、距離の詰め方がわからなかったんだ」

「……え?」

遥香はびっくりしてクロードを見た。

(会いたかった……って言った?)

クロードはちょっとだけ目元を赤く染めて、怒ったように言った。

「悪いか? お前と違って、俺の手元には肖像画があったんだ! それに……、いや、これを言ってもお前はきっとわからないな。とにかく、ああ、もう! こんなことはどうだっていいだろう! つまるところ、お前のために内緒にしていたんだから、文句を言うな!」

ふん、とほんのり赤い顔のままそっぽを向くクロードに、遥香はポカンとする。こんなクロードははじめて見た。驚いて何も言えずにいると、ブランコから立ち上がったクロードが、遥香との距離を詰める。

「……もう、俺のことは怖くないか?」

ほんのり赤い顔のまま、クロードが眉尻を下げる。

(そんなに……、気にしていたなんて)

婚約式の前だっただろうか、クロードに「お前は俺の前では滅多に笑わない」と言われたことがある。遥香の表情を、仕草を見ていないと言えない言葉だ。それ以外にも、ヒントはたくさん出ていたのに、遥香は気づこうとしなかった。

(ごめんなさい……)

遥香は心の中でもう一度謝ると、クロードの手をそっと握りしめた。

「怖くありません」

クロードが本当はとても優しいことを、遥香はちゃんと知っている。最初は怖かったけれど、もう彼を怖いとは思っていない。

遥香が答えると、クロードはホッとしたように笑った。

まだ白くぼんやりとした月の下、遥香がクロードを見上げると、遠慮がちに頬を撫でられる。

「リリー、今まできちんと告げたことはなかったが……、俺はお前のことが、その……、好きだ」

真剣な目をしたクロードに告げられて、ドクンと遥香の心臓が大きく脈打つ。次いで、かあっと顔に熱が集まり、どんどん鼓動が早くなった。

「わ、わ、わたし、は……」

何か答えなくてはと口を開くが、ぱくぱくと金魚が餌を欲しがるように口を動かすだけで、まともな言葉が出てこない。

そんな様子の遥香にクロードは苦笑した。

「何も言わなくていい」

「でも……」

「いいんだ。俺の気持ちをお前に押しつけようと思っているわけじゃない。だが、少しだけ……」

クロードに腰を引き寄せられて、そのままぎゅっと抱きしめられた。ダンスの時よりももっと距離が近い。クロードの胸から少し早い鼓動の音が聞こえてきて、ふわっと香るシトラス系の香水の香りに頭がくらくらした。

(わたし、は……)

クロードに好きと言われてドキドキした。嬉しかった。こうして抱きしめられると緊張するが幸せな気持ちになる。きっと、クロードのことを好きになりはじめているのだと思うけれど、今ここでクロードに好きと告げてはいけないような気がした。好きかもしれない、程度の気持ちでは、クロードに失礼な気がしたのだ。

でも、これだけは言わなければいけないと、遥香はクロードの腕の中で身じろぎする。クロードが腕の力を緩めると、クロードの顔を見上げて、遥香は言った。

「わたしは……、婚約者があなたで、よかったって思っています」

クロードが婚約式の時に告げてくれた言葉と同じ言葉を返す。

最初は怖かったけれど、今はそう思っているからだ。相手がクロードでなければ、内気な遥香が――リリーが、ここまで来ることはできなかっただろう。失敗してもフォローしてやるから、安心してそばにいていいのだと言ってくれたクロードだから、大丈夫だったのだ。

クロードは驚いたような顔をした。

「わたしは、あなたにもらってばっかりですね……。なにか、わたしでもお返しできることはありますか?」

優しさも、勇気も、安心も、すべてクロードが与えてくれた。それなのに自分は、クロードに何も返せていない。

「リリー……」

クロードは遥香を抱きしめる腕に力を込めて、考え込むように沈黙した。ややして、遥香の耳元に口を寄せると、ぼそりとつぶやく。

「……キスを」

「え?」

「はじめてのキスは……、さんざんだったからな。やり直しがしたい」

言われて、クロードに無理やりキスをされたことを思い出した遥香は、かあっと頬を染めた。あの時は泣いてしまって、クロードも怒っていて、確かに全然いい思い出ではなかった。

いやか、と問われて遥香が小さく首を横に振ると、クロードがホッとしたように息をついた。

そっと顎を持ち上げられて、視線が絡む。

クロードも少しだけ緊張しているような表情をしていた。

遠慮がちに、優しく唇が重ねられると、頭の中が真っ白になって何も考えられなくなる。

時折吹き抜ける風の音だけが聞こえる中、唇から伝わるクロードの熱に、酒を飲んだわけでもないのに、酔いそうになった。

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