ロボット人間

てよ

0歳から5歳、人間

 そこは国道沿いの古い協同病院で、周りの施設が現代建築に変わりゆく中、ただ一つ、過去との時間のつながりを感じることのできる場所だった。
 地元に愛着の強い住民が多いこの地においては、実に8割近くの地元民が、この病院で生を受けた。
 健司は2030年の秋、この病院で人間として誕生した。

 健司という名は、健司の父が考えた。健やかを司る。
 健司の母が病気がちだったことから、どうか我が子が健やかであってくれとその名前に託し、そして願った。
 その母は健司を生んですぐ、緊急治療室に入った。
 今際の中でも決してつらい顔一つ見せない気丈な女性であったが、2週間が経ち、一度も我が子を拝むことなくこの世を後にした。

 健司が物心ついた時、家には父と母がいた。父は彼を心底愛した。
 健司の世話は母が行っていたが、父は雇われ先の事務作業を効率よくこなし、早く家に帰り、健司との時間をとにかく大切にした。
 一方で父は母に対して、殊更愛情という観点では差別的だった。
 母は家事をどれも完ぺきにこなしたが、例えば母の作った料理を父は一度もほめたことは無かった。
 二人のコミュニケーションは非常に淡泊であった。会話というよりはむしろ指示に近いもので、しかし母は決して父には逆らわなかった。
 幼少期の健司にとって、このいびつな夫婦関係は男女間のスタンダードになった。

 健司が四歳になったころ、父が職を失った。
 それは父の人間としての特質が影響した結果の解雇ではなく、不条理にも社会的影響の強いものだった。
 非正規雇用の父は当然のように職を取り上げられ、その後、彼が社会復帰することは無かった。
 
 健司の父は次第に変わっていった。まず最初に、酒に飲まれるようになった。
 酒に飲まれた父は母に暴力を振るうようになったが、母はなぜか、どれだけ激しく殴られても、文句ひとつ言わず、悲鳴ひとつあげず、決して抵抗しなかった。

 しかし一つだけ変わらなかったことがある。父が健司を変わらず愛していたということだ。
 健やに成長する健司に、父は四六時中干渉した。頭をなで、体をまさぐり、キスをした。
 そして知らない女性の名前を口にしては、右ほほに流れる涙を台ふきで雑にぬぐい、また酒に飲まれた。
 健司が後に知ったことだが、その女性の名前は健司の産みの母の名だった。

 その日の午前中は、夏にふさわしい、ねっとりとした湿気が体にまとわりつく、猛暑日だった。
 健司は一人、庭の花壇で蟻の行列を眺めていた。
 蟻は隊列を成し、石壁の隙間から健司の家の花壇の隅まで進行していた。
 花壇の隅には彼の小指程度の穴があり、我が家の花壇の下に蟻塚があることを健司は幼いながらも理解した。
 ふと健司は、この蟻に幸せを与えたいと考えた。蟻にとっての幸せが分からない健司は、自分の幸せを考えた。
 そして、それは父や母に触れ、体温を感じることであると悟った。
 健司は右の手のひらを、その隊列の上にかざし、優しく振り下ろした。
 手のひらにはむず痒い感触を覚えたが、それが手を離す理由にはならなかった。
 しばらくすると手の甲の上を、後進の蟻が伝い始めた。
 健司は、まるで自分が花壇の一部、それどころか蟻塚の一部になっている感覚に襲われた。

 午後は一転して、雨模様となった。篠突く雨が健司の家の屋根を、体を、蟻塚を襲った。
 
「健司さん、風邪をひいてしまいます。家の中に入ってください。」

 母は健司に対しても、父に対しても、常に敬語だったが、健司が物心ついた時からそうだったので気にしたことは無かった。
 母は乾燥機にかけたばかりのバスタオルを健司の頭に覆いかぶせ、ごしごしと雨水を拭った。
 健司は母が好きだった。
 自分の世話をしてくれる母、家事を見事にこなす母、決して文句を言わない母、父になじられ暴行を受ける母、どれの母も健司にとってあるべき母の姿だった。

 居間に向かうと、そこには安物の焼酎の大瓶を片手に握りしめ、顔を赤黒く染めた父の姿があった。
 視点が定まらず、何か理解できない言葉をぶつぶつと唱えている。
 健司はこれまで、これほどに深い酔いに落ちた父を見たことがなかった。

 健司に気が付くや否や、父は這いつくばりながら近づき、そして尻を出すよう懇願した。
 健司はその時、何かのっぴきならない恐怖を覚え、父の頼みを聞き入れなかった。
 すると父は豹変し、怒りをあらわにした。
 ぶつぶつと唱えていた謎の言葉は、獣の咆哮に変わり、目の前にいた健司は思わずしりもちをついた。
 健司はこの化け物が、父でなければ人間でもないことを認知した。

 化け物は健司にまたがると、健司の顔面を1発、ゴンと殴った。
 視界が真っ白になり、突如静寂が訪れた。
 健司は天国の概念を認識していなかったが、そこが美しい死後の世界であることを悟った。
 しかし、視界がふと戻ると、先ほどまでと風景は変わらず、化け物の2発目の拳を視界の端で捉えていた。
 またあの場所に行けることを、少し楽しみに思った。

 ところが、その殴打が健司のこめかみにたどり着くことは無かった。
 母が化け物の腕を必死に抑え込んでいたのだ。
 そこからは、ただ健司の母が、恐ろしい化け物に蹂躙されるのを、ただじっと見つめていた。
 しばらくして母は動かなくなった。時同じくして、制服を着た警官が家に上がり込み、化け物に手錠を嵌めた。化け物は父に戻った。

 健司は府警に保護され、タンカーに乗せられた。
 横目でみると、母の腕はもげ、腕からは色とりどりの有線がでていた。
 顔はつぶれ、鼻だった場所からは、透明なオイルがしとしとと流れ出ていた。
 その時、健司は母が人間ではなかったことに気が付いた。

 人里離れた深い山の奥、鬱蒼とした木々をかき分けたその先には、荘厳で静謐な空気を醸し出す洋館が建っていた。
 そこが健司の新たな住処だった。健司の隣には母がいた。
 いや、母はもう母ではなくなったと言っていた。

「健司さん、私のことはアンドロイドとでも呼んでください。」

 アンドロイドの顔はすっかり元通りになっていたが、なぜか腕からは色とりどりの有線が伸びたままだった。

 洋館に入ると、いんちょうと呼ばれる初老の男性と、マザーとよばれるこれまた初老の女性が、健司とアンドロイドを迎え入れた。
 天井を見上げると、絢爛豪華なシャンデリアがこの広いロビー全体に灯りを届けていることに気づいた。
 左右から丸く伸びる大きな階段は2階へとつながっており、中央には、前の家の3,4倍も広い扉が構えていて、健司は思わず圧倒された。

 その扉を開けると、そこにいたのは年も性別もバラバラの子供たちだった。子供たちは2人のことを、屈託ない笑顔で歓迎した。
 健司は、それらの子供たちの中に、アンドロイドのような人間ではない者が混ざっていることに気づいた。
 健司とアンドロイドが教壇の前に案内されると、いんちょうは教壇に立ち、部屋の全員に向け、語りだした。

「みなさん、今日新たに二人の使徒がこの地に舞い降りました。私たちは彼らを歓迎し、この『自由の箱』の一員として、暮らしてもらおうと思います。」

 いんちょうは健司たち二人に向かって語り掛けた。

「あなたたちはここで、自分の生き方を選択することができます。生まれる過程にとらわれず、天使は魂となりて、この地で新たな器を授かるのです。さあ、そこの君、名前はなんていうのかな。」
「健司です。」
「よし、健司くん。君は人間、それともロボット、どっちになりたい。」

 ロボット、それはアンドロイドのことだろう。
 前の家で、健司はロボットを見たことがある。それはテレビの中の存在だった。
 ロボットには多様な形、性質があった。不思議な道具で子供を助けるロボットもいれば、殺戮者となって人間を殺しまわるロボットもいた。
 共通して言えるのは、ロボットは血を流さないということだった。

 健司は人間だが、アンドロイドのことが知りたかった。
 なぜ彼女は自分の母だったのか、そしていまなぜ彼女は母ではなくなったのか。
 なぜ自分のことを、あの化け物から救ってくれたのか。
 考えているうちに、健司はロボットになりたいとそう思った。

「健司くん、分かりました。では君は今日からロボットです。名前もロボットっぽくしましょう。そうですね、そうだ、アンドロイドなんてどうでしょうか。」
「いんちょう、アンドロイドは私の名前です。」
「おお、そうだったか、ところで君は、人間、ロボット、どっちになるの?」

 アンドロイドは少し考えているようだったが、人間になりたいと答えた。
 健司はなぜか、アンドロイドに裏切られた気分になった。

「でしたらちょうどいい、健司君、あなたは今日からアンドロイドです。アンドロイド、あなたは今日から健司です。」

 こうして健司が5歳の秋を迎えた時、健司は人間を辞め、ロボットになった。

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