先生の全部、俺で埋めてあげる。

咲倉なこ

*32

「里巳くん、この間、大丈夫だった…?」
「え?」

先生が自分の唇に指をあてながら聞いてきて、理解するのに少し時間がかかった。

…忘れてって言ったのに。

「大丈夫です。でもまさか、噛まれるなんて思っていませんでした」
「本当にごめん…」
「なんで先生が謝るんですか。悪いのは俺です」
「でも、ごめん」


だから、何で先生が謝るんだよ。



「私、好きな人がいるの」

「え…」

お願い。
もうその先は喋らないで。


「だから、その…ごめん。里巳くんの気持ちには応えられない」


聞きたくなかった。
先生の口から直接なんて。

さっきから、ごめんごめんって。
先生のごめんって、そう言う意味かよ。


「分かってます」

分かってる。
そんなこと、言われなくてもとっくに分かってるよ。

こんな事になるなら、先生に会いに来なきゃよかった。
今まで何度も振られてきたけど、終わりはいつもあっけなくて。
いつも俺の気持ちだけ置き去り。
息の仕方も忘れるぐらい、苦しくて苦しくて、頭がおかしくなりそう。

なんでなんだよ。
俺はまだ先生に好きって言ってないのに。
全然気持ち、伝えきれてないのに。
先に振るなんてズルいよ…。


俺は詰まりそうな胸を抑えて、言葉を並べた。
「俺も急にあんなことして…、先生には悪いことしたなって思ってます」

後悔はしてないけど。

「うん…」
「先生、風邪はもう大丈夫ですか?」
「え?」
「結局風邪引かせてしまって、ごめんなさい」
「里見くんのせいじゃないよ…。じゃあ、もう遅いから…」
先生はそう言って自分のアパートの鍵を開けようとした。

さっきから先生は、全然俺の目を見てくれなくて。
もうこのまま、一生俺のことを見てくれてないのかもしれない。
そう思うと本当に苦しくて。
部屋に入っていく先生を必死に呼び止めていた。

「先生。もう、あんなことしないから。だから今まで通り普通に、先生と生徒として、接してくれたら嬉しいです」

本当は、そんなのこと1ミリも思ってない。
もうすでに先生に色んなことを望んでしまっている。
俺を男として意識してほしいとか思ってしまってる。

でも、このままずっと拒絶されるよりはマシだから。
ただそれだけだった。

「それは、もちろん」
先生は俺の言葉に安心したように笑った。
その表情が俺を傷つける。
自分から言ったことなのに、矛盾してる。

「ありがとう、先生」



家に帰るとやっぱり部屋中真っ暗で。
自分の部屋の電気をつけてベッドに寝転ぶ。

完全に失恋した。

今まで振られることは何度もあったのに。
なんだろう、これ。
もう、なにもやる気がしない。
考えることも面倒くさい。

部屋の照明に手を伸ばして、その光を捕まえるように自分の手をギュッと握った。
光なんて捕まえられないのに。
まるで先生みたいだ。

しばらくぼーっとして。
態勢を変えた時に、先生から返してもらったブレザーの袋が目に入った。
その袋を見た途端、目頭が熱くなった。

俺は、先生から返してもらったブレザーを袋から取り出した。
出した瞬間に柔軟剤の匂いがふわっと香る。

先生の匂い。

洗ってくれたのかな。

あーあ。
俺、先生のこと諦められるかな。
全然自信ないんだけど。
まだこんなにも好きなのに。

「どうすればいいんだよ…」

俺はここにはいない先生を、抱きしめるように。
無意識に、自分のブレザーをギュッと握りしめていた。

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