秘密のカンファレンスー冷徹俺様ドクターは加減が分からないー

悠里ゆり

4.所詮は仮

 日曜日。昨日買ってもらったドレスに袖を通し、自分の出来つ範囲内で最大限の化粧をした。いくらクソみたいな陰キャ女でも飾れば見た目だけでも普通の女の子に見えるだろう。鏡に映った私は普段の私よりも数百倍可愛い、と思う。先生からしたら私の姿なんてどうでもいいことにしか思えないだろうが、それでもなぜか、少しでも可愛いと言ってもらえれば嬉しいなんてことを考えていた。
 どうも昨日から調子がおかしい。普段なら彼氏たち(二次元)といちゃつくことが休日の最大の楽しみである。しかし今日はどうだ。あの久遠先生に貴重な休日を奪われているのにもかかわらず、私はそれを楽しみにしている。
 これが何を示しているのかわかった。けれども分からない方が良かった。わからない方がずっと良かった。私は先生に一生味わうことのできない恋人ごっこをやってもらって、先生は私を仮の恋人として扱うことで良い女避けに使っている。それだけの関係。たったそれだけの、利害が一致しているだけの関係なのだ。


 約束のホテルのレストラン前についた。約束の時間より十分早くついてしまったが問題はない。それより遅れてきてしまう方が問題だ。先生の姿を探す。先生も母親に会うのだから早めに来ていてもおかしくはない。
 くるくるとあたりを見渡せばあの背の高い、切れ長の目をした顔を見つけた。近づいて話しかける。
「先生、いらしてたんですね。」
「おい、昨日言ったことを忘れたのか。」
「え、」
「…蒼と、そう呼べと言ったはずだが。」
 いかにも不機嫌そうに眼光を鋭くする先生に恐怖を感じながらも、言われた通りに「あ、蒼さん…」と呼んでみた。「…まあそれでもいいか。」と言ってもらえたので満足はしているのだろう。
 ついてこい、との声におとなしくついていく。昨日まではそのすぐ後ろに立っても大丈夫だったのに、今はそれができない。そんなことに全く気づかない先生はレストランの中をどんどん進んでいく。今だけはその先生の身勝手さに感謝する。
「あら~こっちよ。こっち。」
 そこに向かってひょうきんな声がかかった。そちらの方を向くとそこには淡い黄緑色の肝を着た、いかにもご婦人と言われるような方がこちらを手招いていた。
「…久しぶり。」
「大きくなったわね~蒼ちゃん。見ないうちにこんなに大きくなって~。」
 『蒼ちゃん』という呼び名に思わず吹き出しそうになった。横を向いて何とかやり過ごすが先生にはばれてしまったようできつく睨まれてしまった。それにしても先生がこんあ呼び方をされているとは思いもしなかった。
「その呼び方はやめろと言ったんだが…」
「あらあらごめんなさいね。癖が抜けなくて。…それで、そちらの方が?」
「七瀬薫ですっ!えっと、せんせ…いえ、蒼さんの、その…えっと、」
「こいつが俺の彼女だ。俺たちは付き合っている。」
 私の答えを続けるように先生が被せてくる。これはこれでタス凝る。自分から『私が彼女です。』とは言いにくいものだ。それも、意識しだすと余計に言いにくい。
「こんなかわいいお嬢さんどこで見つけてきたの~?蒼ちゃんも見かけによらずやるわねぇ。」
「だからその呼び方はやめろ。」
 「あら恥ずかしがらなくてもいいじゃない。」「もう三十になるんだ。やめろ。」と仲良く会話していきながら席に向かう。先生は母親を少しうざがっているように見えるがなんとも微笑ましい光景だ。性格に難がある先生も母親の前ではあんなものなのだろうと和んだ。
 外の景色が良く見える、見晴らしの良い場所のテーブルに着いた。さすがはホテルのレストランといったところだろうか。ここで食べる料理はさぞかしうまいのだろう。『仮の恋人』という立場ではあるがここに来ることができて良かった。
 そんな呑気なことを考えているうちに私はある事実に気付いた。私は先生のお母様に先生の彼女として紹介される。ということは、ある程度付き合っているように見えなければいけない。ということは、私は先生とかなり親しい関係であることを示さなければならない。これはまずい。そもそも親しいように見えるにはどうすればいいのか分からない。先生に適当に合わせていればいいのか。それはそれで難しい気がするが、私が下手に動くより間違いないように思える。幸い私には数えきれないほどの恋愛経験(二次元)がある。きっと三次元でもそう変わらないはずだ。できるぞ、薫。そんなに緊張することではない。
 そんな不安をよそに食事が運ばれてくる。先生が事前に予約していたとのことで、豪勢な昼食が出てきた。先生のお母様の「いただきましょうか」を合図に食事が始まる。当然のことながら私は無言であるし、先生も無言で食べ進める。私もよくわからない魚料理を口に運ぶ。おいしい、気がする。正直味の方はよくわからない。今、自分の頭にあるのはこの状況をいかに打破するかだけだ。
「薫さん、でしたわね?蒼ちゃんと付き合ってくれてありがとぉ~。」
「んぐっ…はい。恐れながらそのせんせ…じゃなくて蒼さんとお付き合いさせていただいております…」
 先生の視線が突き刺さった。急に話を振られて、恋人らしい応答をしろという方が無理があるというものだ。
「あらあらそんなかしこまらなくても良いのよ〜。なんたってお嫁さんになるんだから。」
「お嫁さんっ!?ちょ、ちょっとそれはまだ早いんじゃ」
「そんなことないわ〜。確かに薫ちゃんはまだ若いけれども…って、失礼だけどおいくつかしら?」
「…22です。」
「あら若い!私もその頃は…ってそうじゃなくてね。蒼ちゃんも36でしょ〜?できれば早いところ結婚して欲しいなーと…ああ、勿論薫ちゃんがよかったらね!まだ付き合って一か月だっていうのにこんな話されても困っちゃうわよね〜。ごめんなさいね〜。」
「い、いっかげつ…」
 隣に座っている先生を見る。こちらの視線に気づいて、先生は咳払いをした。まだ会って2週間程しか出会ってないというのに、一か月も付き合ってるなんてよく言えたものだ。
「でも蒼ちゃんがちゃんと女の子と付き合ってて安心したわ〜。前は近づくだけでも駄目だったのにねぇ。」
「え、そうだったんですか。」
「薫ちゃん聞いてないの〜?蒼は自分に寄ってくる女の子が嫌いでね。どんなに綺麗な子でも全然駄目だったんだから。」
「はー…それで他の子にはあんな辛辣な感じで…」
「そうなのよ。容赦ないでしょ?よく女の子泣かせて帰ってきて母さん怒ってたんだから。」
 ねえ、と同意を求めるようにお母様が先生に話を振るが顔をふいっと背けるだけで何も答えなかった。それは最早肯定と同じだった。いつも眉を潜めて機嫌が悪そうな顔をしていてもこういう時は可愛い、なんて思ってない。脳内で必死に否定する。
 この関係は一時的なもので、先生に好きな人や運命の相手ができれば終わる。そう根本的なことを理解すれば心の中で重いものがのしかかった。全身を蝕んでいくような気持ちの悪さだ。目の奥が熱くなる。ここまで自分は先生に入れ込んでいたのか。こんなことになるならあの時の誘いを断ればよかった。後悔先に立たずとはまさにこのことだ。
「蒼ちゃんに彼女ができたって聞いた時は本当にびっくりしたんだから。蒼ちゃんが気にいる子だからどんなに変な子か気になっちゃったけど、すっごく可愛くて安心したわ〜!」
「可愛いなんて、そんな…」
「んもう、やだわぁ!本当に可愛いんだから!まさかこんなに可愛い子が娘になるなんて思っても見なかったもの。はー、お父さんに報告しなきゃね!」
「母さん、ご飯が冷める。」
「あらそうね!私ったらお話に夢中になっちゃって!薫さんも食べてね。」
 曖昧な返事をして食事を口に運ぶ。可愛いと言われたことは素直に嬉しいと思った。だが、これを先生に言われればどれだけ嬉しいのだろうかとも思った。


 食事を終えて、先生のお母様と別れた。また車で送ってくれるとの事だったので、車が置いてある駐車場まで一緒に歩いた。先生のお母さんはうまく騙せたのだろうと思う。私のことを先生の彼女と疑わなかった。別れ際には「難しい子だけど、良い子だから。付き合ってあげてねぇ。」とまで言われた。先生はその母親の言葉に「俺は大切にしたい人間を適当に扱う人間ではない。」と否定して、『仮』とは思えないような関係を演じて見せた。
 それが本当ならどれだけ嬉しいか。これだから三次元は嫌だ。手にもできない遠くの存在であればあるほど恋しくなるし、辛くもなる。現実は残酷だ。少なくとも私にとってはそうだ。先日会った工藤もそうだ。私が三次元に夢を見ることを止めたのはあいつが原因だと言っても過言ではない。そのおかげで勉強に打ち込むことができ、大学に入れて、乙女ゲームに没頭することができたと言えば間違いではないのだが、たまに工藤と出会わなければどうなっていたのかと考える。私はもっときらきらとした女の子になっていたのではないか。そうであれば、久遠先生の隣に立っても恥ずかしくない女ではなくなるのではないか。そうなることができたなら、私は先生と本当の恋人になることができるのではないか。ありえないことだが、望まずにはいられない。
「なぁ。」
 不意に先生が振り向いた。いつもの不機嫌そうな、それでいてすっとした顔立ちは誰が見てもかっこいいと答えるだろう。今まで現実の男に目を向けてこなかった私でさえそう思う。
「…結婚、するか。」
 先生が何気ない口調で言った。それこそ普通に会話をするように、何でもないように、車に乗り込みながら言った。言葉の意味を理解できずに茫然と立ち尽くしている私に先生が言葉をさらに続ける。
「『仮』として付き合っていてもいつかはバレる。その後はまた母から結婚の催促が始まる。だがここでお前と結婚してしまえば、俺は一生女に言い寄られることは無くなるし、もし言い寄られたとしても断る口実ができる。母もお前のことを気に入ったようだし、お前にとっても俺との結婚は利益になる。俺はこの通り医師で経済力もある。お前が困るようなことはない。だからこのまま結婚してしまうのが一番楽だと」
「嫌ですっ!!」
 反射的に口から出た。以前の私ならこのままほいほいと結婚してしまったのだろう。だがそれができない。結婚するには自分の気持ちが大きすぎた。今の今まで現実に愛されたいという願望はなかった。画面の向こうにはこちらから愛しに行かなくても無条件で愛してくれる彼氏たちがいた。それを現実で求めることなんて一生できないから、私はそれでいいと満足していた。
「……何故だ。」
 先生があからさまに不機嫌に返事をした。鋭い視線が突き刺さる。これ以上付き合って、私が傷つくのは嫌だ。あまりに勝手なことかもしれない。だが、ここまで先生の勝手にここまで付き合ったのだ。言わせて欲しい。
「…もう、私の役割は終わりでいいですよね。」
 区切りをつけるためにも、ここで言わなければならない。
「先生のお母様も納得してくれたようですし、今ここで恋人でなくなったとしてもお母様は当分結婚についてはお話することはないと思います。」
 吐き出すのにも言葉が苦しい。耳から入る自分の言葉が突き刺さる。
「ですから、もうやめましょう。」
 自分で切り出したことで目の奥が熱くなる。頭が痛い。言わなければならない。自分の中で破裂する前に言わなければいけない。
「たった2週間でしたけど、楽しかったです。」
 では、と軽く返してその場を足早に立ち去る。後ろから先生が呼ぶ声が聞こえる。振り返れなかった。歩みは早くなり、駆け足になるのに時間はかからなかった。


 先生とあの時に分かれてから、もう二か月が経っていた。あれから普通の新人看護師としての日常がやっと始まった。研修を受けて、プリセプターナース(新卒看護師の教育を担当する看護師の事)と一緒に仕事を学んで、夜勤が始まった。家に帰れば研修内容の復習と、彼氏たちといちゃつく。今までの日常だ。
 幸い、院内で久遠先生に会うことは少なかった。先生とは回診の時ぐらいにすれ違う程度で、話すことはない。私は新人で、向こうは天才外科医『若き心臓』だ。今までの距離が近すぎたのだ。これが正しい距離なのだ。
 それでも、先生のことを思わずにいられない、そんな自分が大嫌いだった。
「はぁ…もうやだ~…」
「どうしたのさ、薫。らしくないな。」
「いや、ごめん。なんでもない。」
「なんでもないわけないだろ?…あ、もしかして先輩にいじめられた?」
「いやそういう訳じゃないんだけど…」
 昼休みの休憩室、私は光樹と職員食堂で昼食を取っていた。唯も奈々子さんも今日はそれぞれ夜勤明けと夜勤入りなのでいない。光樹との組み合わせは珍しいともいえる。
「なんだ?悩みか?俺さ、こんなんでも長男だから相談とかよく聞いてたし。俺で良ければ聞くぜ!」
「ありがとう。でも、これって私の問題だから…」
「話したら楽になるってこともあるぜ?…ここで話しにくいなら今日どっか食いに行くか?」
「うん…でも大丈夫。」
 光樹はよく気が付いてくれる。この前も退院カンファ(患者ごとに退院の方向性を決める会議のこと)でも、患者の意向を先生たちに向かって臆することなく言ったていたし、患者のわずかな状態変化にも気が付いて、大事には至らなかったことがあった。私から見ても看護師としてこの数か月で一番成長しているのは光樹だと思う。
「うーん、それでも駄目かぁ…。」
「ごめんね。でも、気遣い嬉しいよ。」
「じゃあさ、じゃあさ!今日は俺に付き合えよ!俺が今日飲みたい!」
「え、でも」
「えぇ~いいじゃん別に~飲もうぜ~!俺いい店知ってるからさ!」
「…うん。分かった。じゃあ今日飲みにいこ!」
「そう言ってくれると思ったぜ!よし、じゃあ今日終わったら玄関前で待っててくれよ。」
「うん。…ありがとう。光樹。」
「別にどうってことねえって。さ、もう休憩も終わるし。午後も頑張ろうぜ!」
 「先行ってるわ~」と言って食器を下げていく光樹を見送る。光樹なりに気を使ってくれたのだろう。素直にありがたいと思った。私にとってもいい機会なのかもしれない。いつまでも先生の影を追いかけていても仕事にならない。光樹と飲んで、少しでも和らげばいい。そう思うと少しだけ、今日の夜が楽しみになった。


「はー、それで薫はその男が好きだったわけか。」
「そうなるのかな…?」
「いやそうなるだろ?普通に考えてよー。あ、これ焼けたぞ。」
 焼けたと言われた肉をご飯の上にぽんっと乗せられる。その肉でお米をくるんで食べるとおいしさが口の中を広がっていった。
 私が連れてこられたのはいかにも庶民的な焼き肉店だった。聞いてみればもともと光樹が通い詰めているお店なようで店員さんも光樹と仲が良さそうだった。
「元々身分も違ったし、私はこんな感じの何のとりえもない女だしね…夢を見れただけよかったと思うよ。」
「身分違いねえ…相手は?」
「だから言えないって。」
 相談するにも今までの経緯を洗いざらい言うわけにはいかないので、ところどころごまかしながら話を進めた。分け合って仲良くしていた人と良い関係になれたが相手についていけなくなった、といったような感じで話した。大体あって得るから問題はないと思う、
「薫も頑なだなぁ。…だけどな、お前一つ間違ってるぞ?」
「何がさ。」
「お前が取り柄がねえってとこ。少なくとも俺はお前の事頑張ってると思うし。俺より全然病態詳しいし。すげえ勉強してるとこはマジで尊敬してる。」
「そ、そうかな…」
「おう!俺は勉強の方はからっきしだから羨ましいぜ。」
 そういいながら光樹はどんどん肉を焼いていく。焼きあがったものからどんどん私の皿へと盛り付けられていく。食べないのかと問えば「辛そうなお前に食ってもらった方が肉も喜ぶって。遠慮せず食えよ。」と言ってくれた。光樹の優しさが染み入る。程よく焼けた肉がおいしかった。
「ま、俺も恋愛沙汰には疎いからなー…うまいことアドバイスとかはできねえけど。そう言うのは忘れていった方がいいんだろうな。」
「そうだね。ありがとう。」
「バッカ、いいんだよ。俺がやりたくてやってるんだからよ。…気持ちは晴れたか?」
「うん。少し。」
「そっか。そいつは良かった。まあすぐにでも次の男ができるって。」
「だといいんだけどね~。」
「酒、追加するか?」
「うん!今日は飲む!!そして忘れるっ!」
「よしよしその息だ!すみませーん、生二つお願いしまーす!」
 店員さんのはーいという声が返ってきた。飲んで忘れるなんて古典的で短絡的だとは思うが、人生初の失恋なのだ。こういう物に頼っても間違いではないだろう。運ばれてきたビールを呷ると口の中にしゅわしゅわとした爽快感と苦みが広がった。
 光樹と店で別れて、寮へと戻る。程よくアルコールが回った頭はふわふわとしていて心地がいい。こんな風に飲んだのは何年ぶりだろうか。基本的に私は酒を飲まない主義だったから、下手したら初めての経験なのかもしれない。
 それにしても楽しかった。先生のことを一時であったが忘れることができた。この調子で久遠先生の存在を希薄にしていけば、きっと私は元通りになる。
 いつものジャージに着替えて、ベッドに横になると、スマホの通知音が鳴った。面倒だがとりあえず確認してみる。光樹からだった。「また飲みに行こうぜ」短くそう書かれていたメッセージに頬が緩んで、「またいこうね」と返した。そのままスマホを投げて目をつむれば意識はどんどん沈んでいった。


 あの時、断られるということを、俺は予想していなかった。七瀬薫は久遠蒼との結婚を承諾し、俺は晴れて母親からの催促と煩わしい女どもから逃げる口実ができて、あいつも誰もがうらやむような俺との結婚を拒みはしない。当然だと思っていた。だから、あの場で断られた時には、自分でも抑え込みようがない怒りと焦燥と驚きがあった。
 断られたなら他の女を見つければいい。以前の俺ならばすぐに違う女を探していたに違いない。だがそれができなかった。それどころか、薫に拒絶されたという事実が脳の中を支配している。あれからすでに二か月は経っているというのに、あの出来事から俺は逃げられずにいる。
 病棟で見かけることはあった。見つけては目で追うようなことはしていたがあちらがこちらを見ることは決してなかった。話しかけるにも、普段業務以外で口を開くことのない俺がいきなり新人看護師に話しかけるなんておかしな目で見られる。俺はともかく、それでは薫に迷惑が掛かってしまう。
「先生、大丈夫ですか。」
「ああ。問題ない。」
「そうですか。なんだかお疲れのようでしたので。」
「そうか…だが大丈夫だ。」
「そうですか…私ではお役に立てないでしょうか?私、良いお店知ってるんです。良かったらこの後…」
「業務に関係ないことは話さない主義だ。用がないなら立ち去れ。」
「…す、すみません。」
 「先生、失礼しました。」と言って若い女の看護師は診察室を出ていった。俺に「先生」と呼びかけた看護師は薫ではない。医師になってから飽きるほど聞いてきたその呼び名が、今は空しく感じた。今呼びかけてきた看護師が薫だったら自分はどうしていただろうか。そんなありえないことを考える自分にも驚いていた。
 来週のオペに向けてカルテを開く。日々患者の記録が更新されていくカルテは患者の状態を把握するのに不可欠だ。そこには記録者の名前と記録した日時が書かれている。今日の分の内容はすでに確認済みだが頭がすっきりしない今、もう一度確認しておくことに越したことはない。
 そこで一つの記録に目がついた。何の変哲もない、新人が記録したような、ところどころ拙さが残る看護記録。だがその記録者の名前が俺の目を引き付けた。
「七瀬薫…」
 ぽつりと、その名をつぶやいた。意味がないことは分かっていた。零れるように紡いだ名は自分の中の空虚を広げただけだった。二週間だけではあったが、俺の恋人だった女。俺はそんなにこの女のことを気にしていただろうか。自分に聞いても答えは返ってこない。ただ、新人歓迎会で見つけて、ちょうど良いからという理由で彼女として扱って、そして俺が降られた女。それだけの存在だった。だがこんなにも引っかかる。七瀬薫のことが気になって仕方がない。俺が興味をひくものといったら新しい術式と論文だったというのに、この女は俺のことをこんなにも引き付ける。
 記録時間をみた。数十分前に記録されたものだった。時計を見て薫の退勤時間を考える。ここの看護師は二交代制だから、退勤時刻はそろそろだ。そう思うと体が勝手に動いていた。
 会ってどうするんだ、何も変わらない。終わったものにいつまでも固執するのは馬鹿がすることだ。頭の中では自分の声が響いていた。でも、ここで会わなければ後悔する。確証はないが、そんな気がした。


「薫、お疲れ。」
「光樹もお疲れ~。唯たちは?」
「まだ記録だってよー。大変だよなぁ…」
 光樹とたわいもない会話をしながら病棟を歩いていく。広くて大きい病棟は最近場所を覚えてきたので迷わず目的地に着くことができるようになっていた。相変わらず研修が多い毎日だが楽しく働くことができている。大学時代にもっと勉強しておけばよかったと思うことは多々あるが、先輩から学ぶことも面白い。
 家に帰れば彼氏たちもいる。高校時代のように趣味がバレて爪弾きにされるようなことはないし、工藤のようにいじめにくる女もいない。プライベートでも唯や光樹、奈々子さんのように優しい人に囲まれてよくやっていると思う。
「今日はどうする?こんまま帰るか?」
「うーん、今日はどっか食べに行こうかなー。光樹は?」
「じゃあ俺も薫と一緒に食べに行こ。焼肉行こうぜ!」
「また~?前も行ったじゃん。」
「えー、だって肉好きなんだもん。」
「はあ、まあいいけどさ。じゃあ早速着替えて、!?」
「薫っ!!」
 不意に背後から腕が伸びて、肩を掴まれた。驚いて振り向く。そこにはあの久遠先生がいた。胸の奥底にしまっていたはずのときめきがまた全身を走る。走ってきたのだろうか、顔には汗があった。私が久遠先生に掴まれるような理由を頭の中で探す。特に思いつかない。いや、私が気づいていなかっただけで何か重大なインシデントを起こしているのかもしれない。そう思うとときめきも冷や汗とともに流れ落ちていった。
「く、久遠先生…な、な、なにか?」
 光樹も先生の突撃に驚いた様子で固まりながらも話しかけている。
「お前は…こいつのなんだ。」
「へ?」
「お前は薫のなんだと聞いているっ!!!」
「お、おお、おおおおお俺は薫さんの同僚の長谷光樹ですぅうう!」
「それだけか?」
「はいっ!それだけですっ!一緒にご飯とか食べにいく仲ですっ!!」
「……。」
 先生の眉がより吊り上がって、眼光が鋭くなる。明らかに機嫌が悪い。それに激怒している。対象が分からないので恐怖で光樹も私も震える。
「……長谷とか言ったな。お前。」
「ひゃ、ひゃい!」
「お前は帰れ。」
「え…で、でも」
「俺はこいつに用がある。お前は帰れ。」
「薫さんがなにか問題でも…?」
「問題……そう、こいつが問題を起こした。だからお前は関係ない。今すぐに帰れっ!!!」
「は、はい…」
 光樹が申し訳なさそうな顔でこちらを見つめながら更衣室へと向かう。すれ違いざまに「何か知らねえけど…がんばれよ。」と小声で言ってくれた。正直今の久遠先生がだいぶ怖いので少しだけ心強かった。それを見送るのを待たずに先生が私の手首をつかんでぐんぐんと進んでいく。早歩きな先生に足がもつれながらもついていく。手首を掴む力が強い。痣になりそうなほどの力に振りほどこうと思ってもできない。
「せ、先生痛いです!」
「逃げられると困るのでな。」
「逃げませんよっ!問題って何なんですか!?記録ですか!?」
「良いからついてこい。」
 今だ入ったことのない廊下を進んで、ある部屋のなかへ押し込められる。ここが先生たちが仮眠をとる場所なのだろうか。すぐにそのベッドに投げられる。抗議の声をあげようとすぐに口を開くが、距離を詰められ、声が引っ込んだ。両手を壁に縫い付けられる。一体何が起こっているのか。理解できないことで頭があふれかえる。
「せんせ、」
「俺は、今おかしなことをしているんだと思う…」
 先生の体重が乗りかかる。吐息がかかるほど近い。何かに縋りつくような、懇願するような声色で先生が言葉を続ける。それがあまりにも真剣な表情で、私は何も言えなかった。
「だが、今、ここでこうしなければ、お前から逃げられそうな気がして、たまらなかった。」
 一言一言を絞り出すように先生が紡ぐ。
「あの男と一緒に楽しそうに歩いているお前を見て、何も考えられないほどに激情した。熱い何かと恐怖に飲み込まれて、気が付いたらこんな風にお前を攫うような真似をしていた。」
「……」
「…お前に結婚を断られてからずっとお前のことが頭から離れなかった。お前に名前を呼ばれない日が空しかった。お前はどうだ…?」
「先生、それは気のせいです。先生はずっと一人でいたから、近くにいた私にそんな風に思うんです。…だからっ」
 唇に熱いものが押し当てられる。それが先生の唇であると気が付いたのはその数秒後だった。ぬるりとした舌が押し込まれる。経験したことのない出来事に驚くばかりだ。
「ふっ…ん、は…ぁ、」
 差し込まれた舌が私の中を蹂躙する。ぐぐもった声が二人の隙間からあふれる。逃げようとする私の舌を先生の舌が簡単に絡めとり、口づけをより深いものとした。なれない感触に背筋が震える。息が苦しい。
「…、俺は、お前が、薫が他のところに行くのが許せない。」
「っはぁ、ですからそれは私が『仮の恋人』だった時の名残で、」
「そんなものじゃない!!…俺はお前が、好きなんだ…。俺以外のところに行くなんて許せない。見たくないっ!」
 再度唇が重なる。先生のその気持ちが本当にそうならば、これ以上に嬉しいことはない。だが、きっとこれは一時の感情だ。だから、
(今だけは、それに甘えたい。)
 そう思って、口づけを受け入れた。

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