向坂SAKISAKA~心の闇を照らしたもの~

鈴懸嶺

SAKISAKA25~喪失~

「君は、どこまで知っているのだ?」

 田尻は、クライアントである向坂ではなく、まず俺に話を振ってきた。

 田尻としては、同席する俺がどこまでの理解をしているのかで話の持って行き方は変わってくる。

 つまり理解がないならただの足手まといということにも成りかねない。

 それを確認するということは……裏を返せば”これから突っ込んだ話をする”ということである。

 俺は足手まといになる訳にはいかない。

「俺が把握しているのは、向坂が異性から執着されやすい何かがあること。そして恐らくそれは……」

「それは?」

「残党だと……」

 俺は先日たどり着いた結論を最も端的に表す単語を使った。

 田尻が向坂にもこの言葉を使ったことは聞いていたので、これで伝わるはずだ。

「そうだな」

 田尻は驚きもせずに一言で返した。

「で、君はなぜこの件に関わっている?」

 やはり、これは聞かれて然るべきか。

 大学の友達という以上の関係でない俺が向坂の深い問題に関わってる理由。

 中々、一言で説明出来る自信がなく言い澱んでいると向坂が助け舟を出した。

「私が無理言ってお願いしたんです」

「そうか……」

 一瞬だけ向坂に視線をやりながら田尻は一言だけ呟いた。

 相変わらず田尻の表情はピクリとも動かず、全く本心が読めない。

 しかし田尻は、視線を俺に戻すと再度同じ質問を俺に向けた。

「で……なぜ君はこの件に関わっている?」

 田尻は、その答えを知りたい訳ではない。

 おそらく田尻はそんなことは分かってる。

 それを俺がどう認識しているかを訊ねている。

 だからそれを向坂が答えることに意味はない。

 おそらく田尻はこの質問の言外にある”含み”を持たせている。

 それはつまり……

 ”俺が向坂の残党に魅かれているのではないのか?”ということだ。

 おそらく田尻は、俺がその可能性に気づいてるのかどうかを問うている。

 これはまさについ先日に俺がその可能性に気づいたばかりのことだ。

 俺はそれについては明快な回答をすでに得ている……

 向坂の部屋に行ったとき、俺はここは間違えてはいけないと誓ったのだ。

「俺が向坂の残党に魅かれているという可能性はないと思います」

 俺は田尻の意図を先読みして、そうはっきりと答えた。

 田尻の問いの答えにはなっていないが、これで通じるはずだ。

 ただ、この答えは、本来的にはあまり望ましい答えとは映らないはずだ。

 それはつまり彼女に惚れてしまった男の感情的な客観性に欠いた思い込みと採られても仕方のない答えだからだ。

 しかし、俺はそのリスクを冒してでも敢えてそう答えたのには理由がある。自惚れではなく田尻の俺への問いかけは全て俺がある程度のプロファイルができることを前提としている。

 だから俺がそう答えれば”俺だって向坂の残党に魅かれているという可能性はとっくに気付いている……しかしそれでも俺は敢えてそう言うのだ”という言外の意味にまで田尻は容易にたどり着くはずなのだ。



 ……田尻は、何の言葉も発することなく凝視した。

 重苦しい沈黙が続いた。

 俺は自分の心の奥底を覗かれているという気持ち悪さを感じながらその沈黙に耐えた。


「なるほど……よく分かった」

 ようやく田尻は口を開いた。

 田尻は”分かった”と言ったのは、文字通り俺の考えをすべて読み切ったことを意味する。

 俺の意図は間違いなく田尻に伝わっている。


 しかし隣に座る向坂は俺と田尻のやり取りが全く理解できない様子だ。俺と田尻の顔を交互に見ながら不安な表情をしている。

「では君が今回の件で分かっていることを教えてくれ」

 田尻は話を進めてきた。

 俺が分かっていること。

 さっき向坂の魔性の根底に「残党がいる」という話はすでにしている。

 ただ俺はそれ以上にこの件で何もわかっていないことに今更ながら気づかされる。

 だからそれ以上、田尻に話すことはない。

「向坂には過去に苦しんだ闇があり……カウンセリングにその闇はほぼ霧散している」

 俺は向坂の過去の話を持ち出しながら要点だけを簡潔に補足した。



「……」

 田尻は沈黙を崩さない。

 俺はこれでは説明が足りないと促されていると感じて……話を続けた。

「ただその闇の一部が”残党”として残ってしまった……その闇の残り香が男を異様に引き付けている」

 これが俺が理解しているすべてだ。

 これ以上のことは今の俺にはわからない。


「それだけか?」

 今度は間髪入れずに田尻が詰め寄って来た。

「……!」

 俺は、距離をいきなり詰められて絶句してしまった。

 これ以上に何かあるのか?田尻はこれ以外に何に気づいてるのだ?

「いえ……これ以上は何も分かりません」


 そう俺が答えると……田尻は腕を組んで眉間にしわを寄せた。

 明らからかに失望の色が見て取れる。

 俺は焦燥感に支配された。

「君はそれで彼女を救うつもりでいたのか?」

 俺はその言葉で、ガツンと頭に衝撃を感じる程のショックを受けた。


「君は深層心理学のことはある程度勉強しているという認識でいたが、間違っていたかな?」

 俺は、背中からやな汗が流れるのを感じた。

 向坂も不安げに俺と田尻のやり取りを見ている。

 焦りを覚えた俺は、考えを巡らせるが……

 田尻の眼光にさらされたプレッシャーから、なかなか答えにたどり着けない……


 田尻はしびれを切らしたのか先に口を開いた。

「普段の君なら……この答えにすぐに辿りついている」

「せ、先生……それはどういう……」



 田尻は表情を変えずに……ただ、その眼光の鋭さだけを強めて言った……

「今の君では……向坂君を救うことはできない」


「……!!」

 俺は突如として突き付けられた、田尻の宣告に言葉を失った。

 田尻は「俺に向坂は救えない」とはっきり宣言した。

 俺はその事実を突き付けられて、血の気が引いていくのを感じた。

 意識が遠のきそうなる……

 俺の動揺を不安げな表情で見つめている向坂が、視界の端に入った。

「先生……義人、いえ……櫻井君には既に色々助けてもらっていますから、そんなことはないと思います」

 向坂は、珍しく強い意思を持った口調で田尻に迫った。

「ああ、それは分かってる……そこに問題があるとは言っていない」

 そう言われて、向坂は眉間にしわを寄せてた。

 首を傾げて怪訝な顔をした。向坂はまだ納得していない様子だ。

 しかし田尻はそんな向坂の様子には全く意を介さず……田尻は俺は凝視しつづけた。

 どれくらい時間がたったのだろう……

 田尻は俺がその答えにたどりつけないことを悟ったのか、ゆっくり語り始めた。

「話を長引かせても仕方がない。君が向坂君を救えない理由は……」

 俺は、これから田尻が言おうとしている結論に、恐怖して身体に震えがきた。

「君には足りないものが多すぎる」

 田尻は曖昧な表現でそう言った。

 田尻の曖昧な表現の中には色々な意味が含まれているのだろう……

「た、確かに心理療法家でもカウンセラーでもない、ただの学生の分際で、向坂の抱える難しい問題の解決が出来る立場にはいません……だから先生に協力してほしいと……」

 あのファミリーレストランで会った坂田というカウンセラー。彼女が命がけで向坂と対峙しても尚も残ってしまった残党を、ただの学生である俺の手に負えると考えること自体が傲慢も甚だしい。

「もちろんそれもあるが、根本はそこではない」

 そこではない?

「では聞くが……だとするなら今の君には何ができるというのだ?」

「………」

 もはや俺は沈黙することしかできない……

 俺が黙ってしまうと……さらに田尻を追い討ちをかけてきた。

「一介の友達が他人の無意識の闇をどうにかできるなどと考えるのは、子供の妄想よりタチが悪い」

 ああ……決定的だ……もう何も言い返すことはできない……

 俺がやろうとしていたことは、子供が妄想でヒーローになってお姫様を救おうとするのと全く変わらない。

 いや、妄想だけでなく現実にそれをやろうとしてたと言う意味で……そしてそれが危険を伴うという意味で……確かに……子供の妄想よりタチが悪い。

 田尻の言う通りだ……

「俺は……向坂を救えない……」

 俺は自分でそうつぶやくと、その自分の声が他人の声のように……遠くで響いているように感じた。

 ”ああ……俺は向坂を救えない”

 頭でそれをもう一度反芻した。

 認めたくない、でも……認めざるを得ない。

 その事実を少しづつ俺の頭が……心が……受け入れようとしていた。

 諦めという響きを伴って……

 その"諦めの思い”が全身にいきわたった時……


 ……俺の思考はついに停止してしまった。


 もう表情一つ変えることができない……



 ”俺は向坂を救えない……”



 ”俺は向坂を救えない……”



 ”俺は向坂を救えない……”



 ただただその言葉だけが俺の頭の中でリフレインしていた。

 ……気付くと……無表情になってしまった俺の両目からはいつの間にかボロボロと涙が零れおちていた。

 涙は、あきらめの言葉とともに……

 いつまでもポロポロと床に落ち続けた。





 その時……



 ”ガタンッ!!”

 急にイスが勢いよく倒れる音がした。

 音の方を見ると、向坂がイスを倒しながら立ち上がっていた。

 向坂は上半身をワナワナと震わせながら……その目は、怒りに満ちて田尻を見据えていた。

「先生……なに言ってるんですか?……私は義人に救われてるって言ってるじゃないですか!?」

「勝手なこと言わないでくださいっ!」

「救われたかどうかを判断するのは……私じゃないですか?……私を無視して勝手なこと言わないでください!」

「私は……義人にちゃんと救われてるです。もう……たくさん救われてるんです……ダメなんです……」

「……ダメなんですよ……私は……義人じゃないと……ダメなんです」

「……だから……勝手なこと言わないでください……」

「……言わないでください!!言わないでください!!」

 向坂の訴えは……最後は……もう絶叫に近いものとなっていた。

 そして向坂の……大きな……誰よりも綺麗で美しい向坂の瞳からは止めなく涙が溢れていた。

 その姿は、その向坂の強い思いが……田尻に迫っていた。



 田尻の眼は……向坂の大きく見開かれた眼を見据えていた。

 その眼光は今まで田尻が見せたことがない程に、震えが来るほど鋭いものだった。

 しかし、向坂はその恐ろしい程の眼光から、決して目を背けることなく真っ向から受け止めていた。

 力強く……逃げずに……ただただ力強く……向坂は田尻を睨み続けた。

 その姿を見て思った……

 ああ……向坂は……俺なんかよりよっぽど強い。

 俺のような弱い人間が出る幕は初めからなかったのかもしれない……それはそうだ。

 彼女は既に一度地獄を見て、そこから這い上がっている。

 俺は何を勘違いしていたのだろう?向坂のそばにいて救われていたのは俺の方だったのだ。


 …… …… ……

 どれくらいの時間がたったのだろう?

 一瞬の気もするし、もう半日もこうしていると言われても否定できない程、妙な感覚に俺は支配されていた。

 時間の感覚すら欠如する程に思考が停止してしまった。

 気を取り直すと俺は「ポカン」と間抜けな顔をして項垂れていた。

 向坂は……怒りを鎮められず……まだ剣を納められずにいた。

「まあ座りなさい」

 田尻にそう言われ、向坂は渋々と腰を下ろした。

 田尻も向坂の激しい感情の放出は想定外だったのかもしれない。

 めずらしく”やれやれ”という表情を見せ……ゆっくり語り始めた。

「向坂君にとって、櫻井の行動が救いになっていることは全く問題はない。私はそれを否定するつもりもない……しかし」

「しかし?」

 向坂は食い入るように田尻を見つめた。

「今の君と櫻井との関係では今後立ち行かなくなる」

 この言葉で、いままで田尻に前のめりに迫ったいた向坂が……急に怯んだ。

 なぜ向坂は怯んだのだ?

 俺はこの向坂の反応が気になった。

 そして田尻は続けた。

「向坂君……君はこのままでいいのか?」

 田尻のこの言葉がダメ押しになったのか、向坂は苦しそうに下を向いてしまった。

 なぜ向坂は下を向くのだ?

 向坂は何に気付いているのだ?

 俺にはこの向坂の反応をついに理解することが出来なかった。

 向坂はしばらく下を向いて逡巡したあと……

 意を決したように言った。

「私が……変えます」

 向坂は一言、そう言った。

「それは君の仕事ではないだろう?」

 田尻に呆れたようそう返した。

「私もそうはしたくありません……でも……私の問題だから……最後は私が……」

 仕事?

 何のことだ?

 向坂は田尻の言葉から、何を理解したのだ?

 向坂は何をしようとしているのだ?

 俺は何を見落としているのだ?



 混乱している俺に向かって田尻は語り始めた。

「櫻井……君が今、向坂君と接していることが間違いだから止めろとは言っていない。問題はそこではない」

 田尻はそこまで言ってから……ひと呼吸おいて続けた……

「櫻井、この先は自分でよく考えろ……」

 田尻にしてはめずらしく、表情が見える。その表情はいつにない優しさを伴っていた。

「……は、はい」

 俺は無感情で、ただそれだけ口ににした。

 今、俺だけ置いてけぼりにされている……

 俺は……全く何を考えたらいいのか見当もつかない。

 だから俺はこれ以上の返事は出来なかった。



「櫻井……今のままでは……根本解決は難しいぞ」

 田尻はダメ押しにそう付け加えた。

 ”根本解決は難しい”という厳しい現実を突き付けられてしまった向坂だが……

 思いのほか彼女はショックを受けているようには見えなかった。

 ただ彼女は”何か”を悟ったように……そしてただ……寂しそうに下を向いた


 向坂は、間違いなく田尻とのやりとりで”ある結論”にたどり着いている。

 しかし、俺にはついにその答えがなんなのか全く分からなかった……

 やはり俺は向坂には全く敵わない……

 こんな向坂を助けられると思っていた自分の傲慢さが情けない。



 俺は……情けなさすぎて、自分に腹を立てる気力も起きなかった。

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