影の女王と暁の民

えぼし

04 庭へ

004


―― ある日の朝

冬の澄んだ空気が屋敷の中にも漂い、窓から溢れる光が食堂を照らしていた
食堂には、毎朝主人と執事、そして時々メイドらしき影が控えているのだが、
今日はなぜか召使いらしき人の数が多いのだ
 
ライラは言いしれぬ不安を覚え、心許無い様子で周りを見つめていた

いつもより人が多いわ
今日は誰かお客様でもくるのかしら
だったら早く食べて部屋に戻らなくちゃ

新しい化け物に出会うのも嫌だし、一応世話になっているここの屋敷の人々に迷惑をかけるのも嫌だった
面倒は避けるべきだ

「どうしてそんなに急いで食べているの?今日は私といるのがそんなに嫌な日なのかな?」

主人はいつものように聞き取ることのできない言葉を投げかけていたが、心なしか慌てたような様子だった
しかしライラは出されたものを口の中へ詰め込むのに精一杯だった

〈ご馳走様でした!〉
「待って」
〈ひゃっ 何?〉

なんとか詰め込み飲み込んだライラがさっと席を立とうとすると腕を掴まれて止められる
向き合うように両腕を掴まれ、ライラは部屋へ戻ることを諦めた

サフィールは引き止められて不機嫌そうに口を尖らせている彼女に苦笑いした
彼女は周囲の少しの変化を感じ取って、長居してはまずいとでも思ったのだろう

「ごめんよ。驚いたね
今日は少し外に行こうと思ってね。
ひとりにはさせてあげられないけど、多少は気分転換になるだろう?
ドルド、コートを」
「まだ食事がお済みでないのに」
ドルドが低い声で嗜めるように零す
 「私は後で適当に食べる。さあ暖かくしようね」
サフィールにとって彼女のことが最優先でそれは体に染み付いているかのように当然のことになっていた
厚手のコートに腕を通してやり、その華奢な肩にポンチョを掛けてやる

〈私、もしかしてどこかへやられる? そこに怖い人いない?〉

彼女はまるで縋るような心細そうな眼差しでサフィールに問いかけた

最近視線を合わせないどころか顔を向けることすらしてくれなくなった彼女が、自分に向き合ってなにか話している
それだけでサフィールの胸は叫び出したいような溢れる喜びに満ちて目頭が熱くなった


サフィールは彼女に危機感を覚えていたのだ

彼女が手慰みにしていた編み物も、絵本を読むのも、絵を描くこともほとんどしていないと執事より報告を受けた
ただ何もせず窓の外をぼんやりと眺めているだけだと

それを聞いて夜、こっそり訪れるとどうやら彼女は眠れていないらしかった
屋敷に来た当初は心労でか気絶するようにぐっすりと眠ってしまっていたのに、
今は部屋に入ってきたサフィールを見てなんで入ってくるの?とむっとした顔を向けてくる
どうやら完全に不眠になってしまったようなので、苦渋の決断で毎日魔術で眠ってもらっている

―― 自分の可愛い人が、心を病み始めている

どうしたらいい?
彼女を大切にしているつもりなのに、それは彼女にとって苦痛でしかない
手放すなんて考えられない。誰かに託す?
それで彼女が幸せになれる保証もないのに?

彼女はもう今や自分よりも大事で、サフィールの心をすべて持っていった存在だ

(どこでもない所で悲しんだり苦しむかもしれないなら、私のそばで悲しんでいたほうがいい)

どうすれば彼女は笑ってくれるのだろう?
どうしたら自分の側にいてもいいと思ってくれるだろう?

誰かを大切にしたいと心から思った記憶などもたないサフィールにはどうしたってわからなかった

彼女の身の回りのものは、実は自分の使っているものよりも高価で質のいいものを与えている
ベッドのシーツは毎日変えるように、乾燥しないように肌の保湿も毎日欠かさないように、そういった細々したことも言いつけていて、それは実行されている
女の子の好きそうなぬいぐるみや人形、装飾具、化粧品も置いている

彼女は来た当初よりもとても美しくなったのに、それを嬉しいとは思っていないし、与えられたものは少し触れて眺めるだけでまるで興味がない
贈り物をしても、封を開けることすらしてくれない
何をしても彼女は笑ってはくれない

(外に出すことはどうしてもしたくなかったが、もうこんな事しかしてやれないのかもしれない)

「不安そうだね。大丈夫、屋敷の前しか行かないよ。
そうじゃないと私が不安だからね。
ほら耳あてもしよう。うん、可愛いよ。可愛い。
キスしたいな、してもいい?」

〈ひっ! 近いったら!〉

半分本気で背を屈めて顔を近づけると小さく悲鳴を挙げられて頬を無遠慮に押し返された
彼女の冷たさに慣れきってしまっている自分が悲しい

(あー嫌がってても可愛いなぁ……)


―― ワンッワフッ
〈……っ!!〉
聞こえていた動物の鳴き声に、彼女はびくりと体を跳ねさせた
その鳴き声は渡り廊下から歩いてきた下男が連れている大型犬のものだった
この屋敷は本館で、廊下伝いに別館がありそちらで召使いたちは住み込みしている
そこで飼っている犬だった
別に誰が飼い主というわけではないが、この連れてきた下男がよく世話をしている
ゴールデンレトリバーでアンドレという名だそうだ
たまに顔を見に行くが、人懐こいのでサフィールにもしっぽを振って出迎えてくれる優しい犬だ
今度退職するその下男が引き取るという

その子を連れてきたのは、獣避けだった
何か万が一の事があれば魔法で退けるが、備えあれば憂いなしだ
ただふさふさした穏やかな犬はほんの気休めでしかないけども

〈やだ!!
そ、それ、前に窓から見えていたわ!
私食べられる?それの餌になるの?〉

彼女は犬を凝視し、恐怖で顔を歪ませこの世の終わりとでもいうかのように震えだした
あまりにもぶるぶる震えて歯をカチカチ音をさせてまでいるので気の毒に思う

彼女の世界に犬はいなかったのだろうか
うさぎを見ても怖がっていなかったのに
それとも大きい犬はいなかったとか?

「大丈夫、アンドレは賢くていい子だよ」
サフィールは頼りない小さな背中を安心させるように撫でて、微笑みかけた

「御館様のお気遣いが少しも伝わっていない事が悔しくてなりません」
ドルドがため息混じりに嘆いた

「全ては私のエゴだ。彼女をここに縛り付けているのは私なのだから」
「本来ならここにいる事などありませんのに」
「違うよ。私の所へ来てくれたんだ」

〈お願い、あれを近づけないで。お願いします〉

青褪め唇を戦慄かせて犬を注視していた彼女は助けを乞うようにサフィールの腕にしがみついてきた
じんわりと彼女の体温が感じられてサフィールの鼓動が跳ねる
柔らかな感触につい頬が緩んでしまう

「私に縋り付くほど怖いの?初めて君から抱きついてくれたね。嬉しいな」
「デレデレしていらっしゃらないでそろそろ出ませんか。遊ばせてやる時間が減りますよ」
「ああそうだ。さ、行こうね」
背中をそっと押して玄関へ促すがさらに強くしがみついてきて嫌々と首を振ってしまう

〈やだ、行きたくない。あれに食べられちゃうわ〉
「ほら手を繋いだら暖かくなるだろう?」
〈行かないとだめ…?〉

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