戻ってきた初恋はバラの香り~再会した御曹司の豹変ぶりに困惑しています~

沢渡奈々子

第33話(終)

     * * *

「今日一日でずいぶん仲良くなったものだな、みちる」
 ルームウェア姿の衛司が濡れた髪を拭きながら、スマホを弄るみちるに向かって言った。
「だって英里子ちゃん、根はいい子だし。それに、素直になったらすっごくすっごく可愛くて、私が朝川さんだったら甘やかしが止まらないかも知れない……」
 みちるが頬を緩ませながらスマホを握った手を震わせると、衛司が首を傾げる。
「そうか? 俺はみちるの方がずっと可愛いと思う」
 彼があたりまえのようにそう告げてくるので、気恥ずかしくてたまらない。
「あ、ありがと……」
 こぶしを解いた手で火照った頬を抑え、みちるは衛司を見上げた。
 あれから英里子は憑き物が落ちたかのように、しおらしい態度になった。
『みちるさん、ごめんなさい。それで……ありがとう』
 頬を赤らめ、はにかみながらそう告げられた時、思わず「か、可愛い……」と口走ってしまったほどだ。
 その後、四人はそのまま一緒にランチを取り、歓談した。みちると衛司は、朝川にこれ以上英里子を弄ばないように何度も釘を刺し、英里子には朝川が意地悪をしてきたらみちるに相談するよう、連絡先を交換した。
 みちるのメッセージアプリのIDが登録されたスマホを、英里子が目を輝かせながら眺めていて、そんな姿をみちるはニコニコしながら見つめていた。
 別れる頃には、お互いを『みちるちゃん』『英里子ちゃん』と呼ぶ仲になっていたのだから、衛司も朝川もそれには驚いていたのだ。
 今も、衛司のマンションに二人で帰って来て、彼がシャワーをしている間にスマホを確認すると、英里子からメッセージが入っていた。可愛らしい文面に頬を緩ませながら、みちるは返信を打ち込んでいたところだった。
“朝川が信じられないくらい優しいんだけど、みちるちゃん、どうしよう……”
 そんなメッセージが照れた顔文字とともに送られてきたのだから、みちるが悶絶しそうになるのも仕方がない。
「まぁ、向こうが仲良くやってくれれば、俺たちに害が及ぶこともないからな。平和に過ごせそうでよかったな、みちる」
「うん」
「それはそうと、みちるも風呂に行ってくるといい」
「あ、そうだね。行ってくる」
 みちるはスマートフォンをテーブルに置き、浴室へ向かった。

「え……何これ……」
 お風呂上がり、みちるがリビングのドアを開いた瞬間、むせかえるほどの甘い香りが鼻腔を支配した。
 まるで花屋かバラ園かと見紛うほど、多くのバラが飾られていたのだ。色も種類も様々だ。
「もちろん、いつものバラのプレゼントだ。みちるの部屋にはもう置き場がないと言うから、ここにな」
「いつの間に……」
「もちろん、業者に頼んだんだ。新島にも手伝ってもらったが」
「きれい……私がお風呂に入ってる間に、こんなに持ち込んで飾るの、大変だったでしょう? ありがとう」
「ここだけじゃない。……みちる、こっち」
 衛司がみちるの手を引き、寝室へと導く。扉を開くと、そこにもやっぱりバラが飾ってあり、ベッドの上には花びらまで散らしてあった。
 彼はみちると一緒にベッドに上がると、向かい合う形で座った。
「今、この部屋にあるバラと、今まで贈ってきたものを合わせると、六百本になる。……みちる、俺はこれからもバラを贈るつもりだ。もちろん、君のペースに合わせて少しずつにする。それで……バラが九九九本になったら、俺と結婚してほしい」
「え……」
 ポカンと口を開いたままのみちるを見て、衛司はクスリと笑う。
「――この間は『みちるのことはもう二度と忘れない』と言ったが、たとえこの先、万が一にも忘れることがあったとしても……何度忘れても、変わらずみちるを愛するよ。バラ九九九本の花言葉と一緒だ。――『何度生まれ変わってもあなたを愛する』。だから、一生俺のそばにいてほしい」
「……あ、え、っと……私でいいの? 私たち、再会してまだ一ヶ月と少ししか経ってないんだよ?」
 あまりに突然のプロポーズに、みちるの声が上擦る。頭の中はほぼ白い状態だ。
「言ったろ? 十一年前から、いずれみちるとは結婚すると思っていたって。それに今回、あんな酷い目に遭わされたのに、江口美那莉を許してやり、司馬英里子とは仲良くなって……そんな器が大きくて優しいみちるとなら、幸せな家庭が築けると確信した」
「でも私……何も持ってないよ? 英里子ちゃんみたいなお金持ちでもないし、江口さんみたいに美人でもないし」
「何を言ってるんだ? みちるは可愛いよ。少なくとも俺にとっては、その二人よりもずっときれいだ」
「衛司くん……」
「それに、金なら俺が持っているから心配しなくていい」
 こともなげ、といった表情で衛司が言い放つと、みちるは力の抜けた声音で返す。
「衛司くんはもう、そういうことを言う……」
「だからみちる、安心して俺のところに……おいで」
 マシュマロのように柔らかい声音ととろけそうな笑みで両手を広げた衛司が――まるであの頃のエイジのように見えて、みちるは一瞬泣きそうになる。
 でもそのすぐ後、彼女の目に映ったのはやっぱり海堂衛司で――それが嬉しくて幸せだと、確かに思った。
(どっちも私の大事な衛司くん……!)
 みちるは衛司の胸に思い切り飛び込んだ。
「うん!」
「おっと」
 あまりにも勢いよくいったせいか、みちるは衛司を巻き込んでベッドに沈んだ。上質なマットレスのスプリングは二人の肢体を難なく受けとめる。
「あ、ごめんなさい……!」
「あはは、大胆だな、みちる」
 身体を必要以上に密着させ、絡ませ、今にも官能の色に染まりそうな雰囲気を醸しているその体勢は、正しく“押し倒している”と言えるだろう。
 慌てて起き上がろうとする彼女を、衛司が抱きしめて離さない。ちゅ、ちゅ、と顔中にキスの雨を降らせた。
「衛司くん……大好き」
 くちづけを受けながらみちるが囁くと、衛司は嬉しそうに顔を綻ばす。
「俺もだ」
 みちるは今度は自分からキスをした。何度も何度もくちびるを擦り合わせて、それから衛司の言うとおり、大胆に舌を絡ませる。
「ん……」
 みちるを抱きしめていた衛司の手が、今は彼女の肢体の上をゆるゆると辿っている。柔らかで、それでいていやらしいスキンシップがみちるを震わせた。
「ぁ……、んっ……」
「みちる、愛してるよ」
 衛司ははちみつのように甘くとろりとした声をみちるの耳に吹き込むと、彼女のルームウェアに手をかけた。
 
     * * *

「ん、こんなもんかな」
 みちるは部屋の姿見で、自分の全身を確認する。真正面を眺めた後、身体をひねって後ろ姿も確認する。メイクと服のバランスをチェックするのも忘れない。
 あれから一年と少し経った。みちると衛司の交際は順調だ。彼は相変わらずKELにいて、バリバリ仕事をこなしている。みちるの生活もすっかり元通りだ。未だに嫉妬の視線を受ける時もあるけれど、もう慣れっこになってしまった。
 美那莉もまだKELにいるが、以前に比べるとずいぶんおとなしくなったようだ。念書の通り、みちるには仕事以外で接触してくることはない。
 英里子と朝川は相変わらず主従関係を維持しているが、以前とは違い甘い空気をまとっているので、どうやらこちらも交際は順調のようだ。
 そして今日は結婚式である――岡村と菜摘の。
 みちると衛司はそれぞれ新婦と新郎の同僚として招待されている。おまけに二人とも受付を頼まれた。
『これくらいやってくれてもバチは当たらないよな。今まで散々海堂のために情報集めてやったりしたんだから』
 岡村が笑って言っていた。みちるはみちるで、菜摘には世話になりっぱなしなので、少しでも手伝えればと喜んで引き受けたのだ。 
 受付業務の打ち合わせがあるので、少し早めに家を出なければならない。だから式場で着替えるかどうかを悩んでいたのだが、車で迎えに行くのでドレスを着たまま向かえばいいと、衛司が言ってくれた。彼の言葉に甘え、今こうして自分の部屋で着替えているというわけだ。
 とは言っても、ウォームカラーのワンピースドレスなので、それほど張り切る必要もなくすんなりと身につけてしまえたのだが。
「うん、準備OK」
 アクセサリーもバッグも、もちろんご祝儀も準備は万端。後は式場に向かうだけだ。
「衛司くん、今日は新島さんに運転してもらうんだよね。結婚式だからお酒飲むしね」
 実は衛司は一年前から、車の運転の練習を始めた。新島を助手席に伴い、京条家本家の敷地内にある私道から始め、あっという間に昔のカンを取り戻した。そして今では昔と変わらない運転ができるようになったのだ。
 時々みちるを助手席に乗せてドライブをするのが、楽しみで仕方がないという。
 この一年間は、少なくともみちると一緒にいる時は具合を悪くして倒れることもなかった。
『俺がトラウマを克服できたのは、みちるのお陰だ。……あと新島もだが』
 衛司は嬉しそうに言った。
 運転を再開したことで新島が失業しないよう、衛司は彼を京条家本家の運転手に推挙しようとした。しかし新島が難色を示したので、今では父母の運転手としても活躍しているそうだ。
 今日は彼が運転する車で、ここにやって来るのだろう。
『今度こそ、バラの花と一緒に登場するから待っていてくれ』
 十一年前と同じ、家まで迎えに来てくれると言うその台詞に、一瞬でも不安を抱かなかったと言えば嘘になる。けれどそれを補って尚余りあるほどの愛情を、この一年間、衛司は惜しみなく注いでくれたから。
『うん、バラと一緒に来てくれるの、待ってるから』
 みちるもあの時と同じ言葉で応えたのだった。
 この一年間で、衛司がくれたバラの本数は九九〇本になった。彼は宣言通り少しずつ、途切れることなく花を贈ってくれた。そのこと一つ取っても、彼の愛情深さと誠実さがみちるの身に染みてくる。
 きっと九九九本になるのもそう遠くはないだろう……そんな予感を胸に秘めて、迎えた週末だ。
 すべての準備を終えたタイミングで、チャイムが鳴った。
「衛司くんだ……!」
 みちるの顔がぱぁっと明るくなる。
 インターフォンで確認するとやはり衛司だ。彼女は最後にもう一度自分の姿をチェックして、玄関へ向かった。
 ドアの向こうではきっと、衛司がフォーマルスーツで立っている。その手にはバラの花束を持っているだろう。
 みちるは逸る気持ちを抑えて解錠し、ドアを開いた。
「衛司くん、おはよう――」
 明るい声で出迎えたみちるの目に飛び込んできたのは、愛しい人のほの甘い笑顔と――九本の真っ赤なバラの花束だった。
 
 赤いバラ――『あなたを愛しています』
 
『終』

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