戻ってきた初恋はバラの香り~再会した御曹司の豹変ぶりに困惑しています~

沢渡奈々子

第32話

「え……ど、して……」
 英里子がさっきまでのテンションはいずこへ、といった様子で、言葉を詰まらせた。一方衛司は、目を細めて含みのある笑みを見せた。
「元々気に入らなかったんですよ、金魚のフンみたいなこの男が。ですから、これを機に切ってもらえたら」
 彼が告げると、英里子は呆けたように口を開きっぱなしになる。気まずげな沈黙の中、みちるは自分がここにいていいのだろうかともぞもぞし始めた。
 衛司はさらに畳みかける。
「結婚したら運転手は私が用意します。そこにいる男よりも五百倍優秀な人間を連れてきますので安心してください」
(五百倍って……衛司くん、完全にケンカを売りにいってる……?)
 英里子がよく口にする単語を織り交ぜている辺り、彼女や朝川を煽っているようにしか見えない。みちるは衛司の意図が未だに読めなかった。
 煽られている当の朝川は、表情筋を微動だにさせずに座ったままだ。その分、英里子が感情を露わにしている。明らかにそわそわと落ち着きがない様子で、うつむいたり衛司を見たりと忙しない。
「どうしました? ほら、今すぐ解雇を言い渡したらどうです? 未来の夫がお願いしてるんですから。『おまえはクビよ』――そう一言言い渡せば済む話です」
「……だ」
 英里子が何かをつぶやき、うつむいて震え始めた。
「はい? もう一度おっしゃっていただけますか?」
「――っ、やだぁ~! 朝川をクビになんかできないもん~!」
 突然、英里子が大声を出して泣き出した。その姿はまるで小さな子供のようだった。
「どうしてそんな意地悪するの~っ、もう、やだぁ~!」
 衛司ははぁ、とため息をつく。
「『どうしてそんな意地悪するの』だって? あなたがそれを言う資格はない。ご自分が散々みちるにしてきたことだろう? みちるは車に撥ねられそうになり、会社では攻撃され、命の危険に晒されたんだ。『意地悪』では済まされないことを、あなたはしたんですよ」
「衛司くん……」
 英里子は未だしゃくり上げて泣いている。
「あなた方のつまらない遊びのせいで、みちるがどんな思いをしたか、少しは思い知るといい」
「遊び? 遊びってどういうこと? 衛司くん。それに“あなた方”って……」
 みちるの問いに、衛司は「もう少し見ていれば分かる」と耳打ちする。
「司馬さん、泣けば許されると思ったら大間違いですよ。あなたが言わないのなら、私が彼に言いましょうか。今すぐここから出て行け、と」
 彼は冷たい台詞を畳みかける。すると英里子はさらに大きな声を上げた。
「いや! 朝川と離れるなんて絶対いやだもん!! うわぁあああん!!」
「え、衛司くん……あまりいじめないであげて……?」
 手の着けられない泣き喚きように、みちるがハラハラしてしまう。おそらく、個室の外にも漏れ聞こえているだろう。衛司のことだから、こんなこともあろうかと店側にはあらかじめ伝えているのかも知れないけれど。その時――
「海堂様、そろそろ許してやってはいただけませんでしょうか?」
 沈黙を守ってきた朝川が、ようやくその口を開いた。
「は? みちるが受けた仕打ちに比べたら、この程度で許してだなんて、烏滸がましくて言えたものではないのに、よく言えるな? 図々しい」
「そのことに関しましては、私が後ほどお詫びをさせていただきますので、どうかもう、その辺で……」
 頭を垂れたまま、朝川が請うてくる。そんな彼に同情する様子など微塵も見せない衛司はフン、と鼻で笑う。
「そもそも朝川、おまえがこの女を野放しにするからだろう? 飼い主なら飼い主らしく、愛玩動物は家の中で飼育してろ」
「え、ちょっと衛司くん。飼い主って? “あるじ”と言うなら司馬さんの方じゃないの……?」
 みちるの頭の中で情報が混線している。どうも要領を得ないので、早くはっきりさせたくて、思わず食い気味に質問を投げてしまった。
「雇用関係で言うなら、確かに司馬英里子が雇用主で、朝川が被雇用者だ。でもこの二人はそんな単純な関係じゃない」
「どういうこと……?」
「この女は、朝川が好きなんだよ。虜と言ってもいい。そして朝川は、自分に惚れている女を手の平で転がして喜ぶドSだ」
 衛司曰く、英里子は幼い頃からずっと朝川のことが好きだったんだそうだ。しかし朝川は彼女の気持ちを知っていながら、他に女がいる匂いをぷんぷんさせては彼女にヤキモチを妬かせていたらしい。
 焦れた英里子は朝川の気を引くために、ありとあらゆる手を使ってはみたものの、やはり彼はそれに対する反応などおくびにも出さず、ただひたすら彼女の尻ぬぐいに徹してきたというのだ。
「主が自分の気を引こうと右往左往する様を、表面ではスルーしておきながら、陰では舌なめずりして楽しんでいるんだから、どうしようもない鬼畜だよ、この男は」
「先ほどから黙って拝聴していれば、散々な言われようですね」
 とことんディスられているにもかかわらず、朝川は笑みすら浮かべているのだから、どんな感性の持ち主なのだと、みちるは口元を引きつらせた。が、それからすぐに気づいて声を上げた。
「あ、もしかして、私に商品券を送ってくれたのも朝川さん……?」
「そうだろうな」
「梅原様、その節は、主が大変申し訳ないことをいたしました」
 以前、駅で会った時にお詫びの品についてお礼を伝えたところ、とぼけられてしまったのをみちるは思い出した。しかしあれはとぼけていたのではなく、本当に知らなかったのだ。英里子の与り知らぬところで朝川が動いていたから。
(だから、衛司くんと別れて、と言っていたのもどこか本気な感じではなかったんだ……)
 すべては朝川に見せつけるための行動だったのかと、みちるは合点がいった。英里子に別れを迫られた時よりも、会社で美那莉に嵌められた時の方がよほど怖かった。自分に向けられた悪意の質がまったく違っていたのだ。
「自分が“おいた”をすることで朝川に諌められる。それが快感だったんだろうし、その都度二人の絆が深まっていくようで嬉しかったんだろう。ドMとドSでお似合いだな」
「そ、そうなんだ……」
「この女は俺と結婚するつもりなんてはなからなかったんだよ。そもそも、本気で結婚するために俺とみちるを別れさせたいのなら、普通は俺に気のある女を刺客になんてしないだろう? ミイラ取りがミイラになるのは目に見えてる」
「あ……やっぱり、私たちのことを江口さんに教えたのは、司馬さんだったんだね?」
「そう。おそらく『KELの梅原みちるという女が、海堂衛司のことをストーキングしているから、気をつけた方がいい』とでも言ったんだろう。俺たちの仲をいたずらに引っかき回したいだけだったんだから、むしろ江口美那莉が俺に気があるというのは好都合だったはずだ」
 美那莉は本気で衛司を狙っている――以前、菜摘がそう忠告してくれたのをみちるは思い出した。
「なるほど……だから江口さんは私がストーカーだって信じてたんだね」
「――結局のところ、俺たちはこの馬鹿たちの恋の駆け引きに利用されていただけだったんだ。今回の件、みちるはこの女がラスボスだと思っていただろうが、真のラスボスは朝川なんだよ。……まったく、悪趣味にもほどがある」
 やれやれといった様子の衛司に、みちるは何度もうなずく。
「あ、でも、衛司くんはこの人たちについて、どうしてそんなに詳しいの?」
「俺は以前、朝川をスカウトしたことがあるんだよ。海堂家の執事にならないか、って」
 何年か前に司馬家と交流があった時に、衛司は朝川の優秀さに気づいたらしい。隙がありそうでない彼の所作を見て、文句のない仕事をするだろうと踏んでのスカウトだったそうだ。
「や、やだ! 行かないで! 行っちゃやだぁ朝川ぁ!」
「行きませんから、朝川は英里子様にずっとお仕えしますから。離れたりなんてしません」
 朝川にしがみついて泣く英里子を、朝川が穏やかに慰撫する。
「――とまぁ、こんな調子であっさり断られたわけだ。その時の表情かおでな、大体のことは察した。それでこの二人について調べてみたらいろいろ分かって。なかなか面白かったんで、今まで何をされても放置していたんだが……」
 まさかみちるにまで嫌がらせをするなんて思わなかった――と、衛司が彼女に謝罪をした。
「――でも迷惑料代わりなのか、英里子お嬢様が何かやらかすたびに、この男がいろいろと情報をくれるようになったんだ」
「へぇ……」
 みちるは改めて英里子と朝川を観察する。今まであまりまじまじと見たことはなかったが、朝川はきれいな顔をしている。どこかアメリカ時代の衛司を彷彿とさせるような、控えめで儚げな美貌を湛えている。はっきりとした目鼻立ちの英里子とはある意味対照的だ。
 こうして見ると、英里子の彼に対する気持ちはみちるにも手に取るように分かったが、朝川は朝川で、彼女を見つめる瞳にはなんとなく甘ったるいものが混じっているように見える。
(そっか、この二人、相思相愛なんだ……そっかそっか)
 どこか歪んだ手段で育まれた愛情だが、二人の間にはそれが間違いなく存在しているのだろう。
 みちるはふと思いついたことを、心に留めた。
「今回の江口美那莉のことも、俺に情報をくれたのは朝川だ。英里子お嬢様が、みちるについて江口に何かを吹き込んでいるから用心しろと忠告してくれた。例のパパ活の写真を提供してくれたのもこの男だ」
「そうなの?」
「でなきゃ、いくら俺でも一晩であんな写真を用意できないだろう?」
「確かに……」
 この時のみちるが『一晩で奇跡的な作業をこなした某少年漫画の外国人キャラクター』を思い浮かべてしまったのは、衛司にも内緒だ。
「英里子様がご迷惑をおかけしたせめてものお詫びにと思い、提供させていただいたまでです」
 朝川曰く、英里子と美那莉はとある企業のパーティで知り合ったそうだ。美那莉は新田とは別のパパ活相手のパートナーとして出席していたらしい。
 その後の一週間弱で、朝川は美那莉のあらゆる情報をまとめ上げてファイリングしていたというのだから、彼の有能ぶりと英里子を取り巻く環境の管理の徹底ぶりがうかがえる。
 もちろん、総務の三人娘の情報も彼の提供によるものだった。
「朝川が事前に情報をくれたから、俺はあらかじめGPSを組み込んだ指輪をみちるに渡せたんだ。何かあればすぐに駆けつけられるように。……まぁ、それも大して役には立たなかったけどな」
「ほんとにこれにGPSが……?」
 みちるは薬指にはまっている指輪をしげしげと眺めた。それほど大きな石でもないのに、一体どこにそんな機能が……と、矯めつ眇めつ見てしまう。
「まさかあの女が、会社であそこまで影響力を持っていたとは思わなかった。完全に俺の計算ミスだった」
「いいえ、私がもっと早く手を回すべきでした。本当に申し訳ありませんでした、梅原様」
 朝川が立ち上がり、みちるに向かって深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ない気持ちがあるのなら、金輪際、おまえたちの戯れに俺たちを巻き込まないでもらいたいね」
「肝に銘じます」
「あの……!」
 衛司と朝川の会話を遮るように、みちるが声を上げた。
「どうした? みちる」
「私、今回のことは絶対に許したくないです」
 少しばかり声を荒らげて、彼女が英里子と朝川を見る。さっき思いついたことを言うなら、このタイミングしかない。
「梅原様のお気持ち、お察しいたします。私のできることでしたら、なんでもいたしますので、どうか――」
「今、なんでも、っておっしゃいましたよね? じゃあ早速言わせてもらいます。朝川さん、自分のことを好きな女の子の気持ちを弄ぶのはやめてください。っていうか、あなたたち両想いなんですから、遠回りしないでもう素直におつきあいしてください。……これが、私からの慰謝料代わりの要求です」
 朝川の言葉尻を捉えて目をキラリと輝かせたみちるは、彼を見据えてきっぱりと言い放った。
「え? え? 両想いって……?」
 英里子が涙まみれの瞳を大きく見開き、朝川を見つめる。どうやらこのお嬢様は、自分が朝川から恋愛相手として好かれているとは露ほども思っていなかったようだ。ぱちぱちと目を瞬かせたかと思うと、ポッと頬を染めた。一方、朝川はばつの悪そうな表情で、英里子の視線を受けとめている。
 そこにわずかながら真っ当な恋が芽ぐみ始めたのを、みちるは感じ取った。
「みちる、ずいぶんあっさりとバラしたな、朝川の気持ちを」
 衛司がクスクスと笑う。
「あんな目に遭わされたんだもん、これくらいの意趣返しは……ね?」
 みちるは衛司を見上げて笑った。英里子と朝川――立場などいろいろな障害があるのかも知れないけれど、上手くいってくれればいいなと、心から思いながら。

コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品