戻ってきた初恋はバラの香り~再会した御曹司の豹変ぶりに困惑しています~

沢渡奈々子

第28話

 次の瞬間、みちるの目に飛び込んできたのは、底知れない悪意を孕んだ美那莉の笑みだった。
「あたし、あんたみたいな調子に乗った身のほど知らずが、死ぬほど嫌い。……だから潰すことにした。無実の罪だろうがなんだろうが、あたしが言えば動いてくれる人は大勢いるし、あんたなんて、ひとたまりもないからね」
 低く静かな声音が、みちるの背筋に寒気を走らせる。
(何この人……怖い……)
 彼女の全身がぷつぷつと総毛立った。何が怖いと言えば、美那莉の変わりようだ。あれだけ社内の男性陣を軒並み魅了している可愛らしい江口美那莉が、極妻真っ青なドスの利いた声と刃のように鋭く尖った視線で恫喝してくるのだから。
 大宮事業所の時もこの手で女性社員を辞めさせたのかと、みちるは妙に納得してしまった。
 美那莉はさらに目を細める。
「――これから、会社でのいじめはもっと苛烈になっていく予定。どんなことされちゃうのかなぁ。……お酒にドラッグ仕込まれてどこかに連れ込まれても助けてあげられないから、その前に退職した方がいいんじゃないかなぁ。ね? う・め・は・ら・さん」
 その笑みは、可愛らしいのに底冷えするような冷たさをまとっていて、みちるの体感温度を下げるには十分だった。怖気がゾクリと彼女を襲う。
(ほんとに怖い……どうしよう)
 一人の女性に、こんなにも恐怖を感じたことなど今までなかった。不安でたまらなくて、今すぐ衛司の胸に飛び込みたくなってしまう。
 その時、ちょうど部屋をノックする音が聞こえた。
「は、はい」
 返事をすると、カチャリと音を立ててドアが開く。顔を出したのは、新田だ。
「いいかな? たった今、海堂くんが帰って来たんでね。話し合いに参加してもらおうかと思ってるんだが」
 美那莉はすでに会社モードの顔になっており、目を潤ませてしゅん、とした表情でこくん、とうなずいた。
「わ、かりました……」
 いかにも今までみちるから責められていました、という体を装っているのだろう。その姿で管理職の同情を誘っているのは明らかだ。あまりの演技派ぶりに、みちるは苦笑するしかない。
 新田と久行と服部が再び入室した。三人に続いて衛司も入って来た。
(衛司くん……)
 彼はスーツ姿で涼しい表情のまま、みちるの右隣に腰を下ろした。今のところ彼女に対してなんの反応もしてはいないが、いるだけでみちるを安心させてくれた。
「それじゃあ、海堂くんも来てくれたことだし、改めて伺おうか」
 服部が衛司を見据えて切り出した。
「――海堂くん、ここにいる梅原さんが君をストーキングしていると、江口さんから申告があったんだが、真偽はどうなんだい? 本当にストーキングされていたのかな?」
 そこにいる全員の視線が、衛司に集まる。彼は少しの静寂の後、細く長いため息をつき、そして口を開いた。
「――確かに、残念ながらストーカー行為はありました」
「えっ」
 みちるは思わず声を上げた。
(え、衛司くん……!?)
 なんてことを言い出すのだと、みちるの心臓が跳ね上がる。
 場がどよめき、美那莉がうつむきながらもニヤリと笑っているのが、みちるから見えた。
「ほら、江口さんが言ったとお――」
「但し」
 新田がそれ見たことかと得意げに放った台詞を、衛司が低く通る声で遮った。不穏な空気を一掃する鋭い一太刀に、室内が一瞬にして沈黙に包まれる。
「――但し、被害者と加害者が逆、ですが」
 静かに放たれた衛司の言葉に、今度は一同が同様に首を傾げた。
「どういうことだい? 海堂くん」
「私こそがストーカーなんですよ、梅原みちるさんの」
「は?」
 衛司はあごを上げ、悪びれる様子もなく次の句を口にする。
「何せ、信用調査会社に彼女の身辺を調べさせ、人事課の岡村宏幸を抱き込んで彼女の情報を得て、親のコネを使って彼女と同じ会社に無理矢理出向し、彼女を自宅の前で待ち伏せして――そして、彼女にGPSを組み込んだ指輪を贈っていますから」
 そう言って衛司は、みちるの右手を掲げ、彼女の薬指にはまっている指輪を一同に見せた。
(えっ、GPS?)
 そんな話は聞いていないと、みちるは衛司を凝視する。すると彼はこちらを向いてフッと安心させるような笑みを向けてきた。
「――これをストーカーと呼ばずして、なんと呼ぶんでしょうね?」
 衛司は管理職に向かってにっこりと笑った。
「き、君、梅原さんに近づくために、うちに出向したのかい?」
「えぇ、そうですよ。親の力を使って人事を操作する馬鹿息子で申し訳ないです」
 平然と本当のことを暴露する衛司に、みちるは呆れてものが言えないでいる。
(え、衛司くん……私を庇うために言ってくれてるんだろうけど……ぶっちゃけすぎじゃない……? 言っていることは全部ほんとのことではあるけども……)
「――しかし、こちらでもそれなりに結果は出しているつもりですので、悪くない人事異動だったのでは?」
 みちるが岡村に聞いたところによると、衛司がKELの社外広報担当になってからというもの、メディアからの取材要請が倍増したそうだ。各社の取材担当者からも男女問わず気に入られているというのだから、彼の人を惹きつける才能は仕事でも発揮されているのだろう。
「う、嘘ですそんなの! ……だって、私聞いたんです、海堂さんがストーカー被害に遭ってるって」
 先ほどの余裕に満ちあふれていた、美那莉の態度が一変する。焦りを孕んだ口調で、衛司の言葉を否定しにかかる。
「嘘も何も。私自身がそれを否定しているんですよ? 誰から聞いたのか知りませんが、得体の知れない人間と本人の証言、どちらが信憑性があるんでしょうね?」
「と、とにかく、ストーカー事件は起きていなかった、ということでいいんだね……?」
 苦笑いを浮かべた服部に、衛司は目を見開いて問う。
「いいんですか? 私自身がストーカーなのですが、なんのおとがめもなしですか?」
 堂々と犯罪行為を告白する衛司に、管理職は皆、顔を引きつらせている。
「あーいや、それに関しては梅原さんから被害報告があれば対処するが……申告するかい? 梅原さん」
 久行と服部に同情するような視線を向けられ、みちるはぶるぶるとかぶりを振る。
「ということは、二人はつきあっている、という認識でいいのかな?」
「えぇ、つきあっています」
 久行の問いに、躊躇うことなくイエスと答えてしまう衛司。
「……っ」
(あーあ……言っちゃった。でもこの場合は仕方ないか……)
 できれば交際を秘密にしたまま、事態を収束させたかった。けれどそうも言っていられない展開になってしまったので、ここは致し方がないだろう。
 宣言した当の本人が何故か嬉しそうなのは、少々解せないが。
「それならそうと、どうしてさっき『交際している』と言わなかったんだね? 梅原さん」
 新田が苦々しい表情で尋ねる。
「あの……私はつい先ほどまでストーカーの嫌疑をかけられていたんですよ? そんな状況で『つきあっています』と答えて、あぁそうですかと信じてくださいましたか?」
「……」
「ともかく、ストーカーの件はこれで終わりにしよう。残るは窃盗のことだが……」
 久行が仕切り直し、と言わんばかりにテーブルをトントン、と指先で叩いた。
「その件ですが、私から少々よろしいでしょうか?」
 衛司が手を上げる。
「何だい?」
「極力最少人数で話し合いたいのですが、かまいませんか?」
「どういうことだろうか」
「これはかなり個人のプライバシーに踏み入ってくる話ですので、まずは私と梅原さん、江口さんの三人だけで話がしたいです。……しかし、会社としてはそういうわけにはいかない。ですからそうですね……この場合、管理事業部を統括する執行役員の新田事業部長にご同席いただくのが、理に適っているのではと思いますが。報告書は後ほど私が責任を持って作成し、新田部長経由で提出いたします」
「そういうことなら……どうですか? 新田部長」
「私はかまいませんが」
「では、我々はしばらく席を外させてもらいます。何かあれば私に連絡を」
 久行がPCを持って立ち上がると、服部もそれに続いた。

コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品