戻ってきた初恋はバラの香り~再会した御曹司の豹変ぶりに困惑しています~

沢渡奈々子

第26話

 午後の仕事が始まってから、人事課は業務外の対応で忙殺されていた。他部署から抗議の電話が殺到したのだ。
『ストーカーをするような女が人事課にいるなんて、怖くて情報を預けられない』
 だの、
『窃盗犯は早く懲戒解雇にしろ』
 だの、
『そんな女を雇った人事部を解体しろ』
 とまで言ってくる者もいたらしい。
「真面目に仕事をしていれば、そんな暇はないはずなのに。そういう暇人が退職する方が会社のためだと俺は思うけどな」
 岡村が苦笑いをする。
「皆さん、本当にすみません。私のせいでご迷惑をおかけして」
「みちるのせいじゃないわよ。そもそもこの事態、異常だわ。過去にも窃盗事件はあったらしいけど、内々に処理されたって言うじゃない。こんな風に大騒ぎになること自体がおかしいのよ。江口美那莉、恐るべしよ」
「ありがとう、菜摘」
 みちるはそう告げて席を立ち上がる。トイレに行こうとすると、佐津紀が一緒に来てくれた。
 用を済ませて身支度を整えていると、佐津紀に急ぎの電話が入った。みちるは個室の中から声をかける。
「あ、私なら大丈夫ですから、すぐ戻ってください、佐津紀さん」
「ごめん、みちるちゃん。すぐ帰って来るんだよ?」
 佐津紀は申し訳なさげに化粧室を後にする。それから少ししてみちるは個室から出て手を洗った。濡れた手を拭いていると、扉が開き女性が三人入ってきた。菜摘が『要注意人物』として美那莉とともに名前を挙げた、島原有紗ありさとその取り巻きだ。
「あー……泥棒がいるわ。みんな気をつけて、何か盗まれるかも知れないわよ」
 有紗が嘲笑とともに言い放つ。
「盗んでません」
 みちるはハンカチをしまいながら、事務的に返す。
「泥棒にストーカーだなんて、根っからの犯罪者気質なのねぇ」
「すみません、窃盗もストーカーも、身に覚えがないので」
「やだ、これだけ大事になってるのにまだ認めないの? みっともなーい」
(大騒ぎになっただけで有罪なら、世の中冤罪だらけだよ……)
 みちるは呆れてしまったが、あえて口に出して拗らせるようなことはしない。それでも面倒くさいと思う気持ちが態度に出ていたのだろう、女性たちはそんなみちるにカチンと来たのか、声を荒らげた。
「ねぇ! あんた、自分が海堂さんに釣り合ってるとか思ってるの? ……どれだけ自分に自信があるのよ、鏡見たことあるの? ほら、すぐ目の前にあるんだから見てみなさいよ。恥ずかしくなるから」
「有紗や美那莉ちゃんが羨ましくて、悔し紛れに財布とスマホを盗んだんだろうけど、やることがせこいし、最低なのよ!」
「早く会社辞めてくれないかな? あんたみたいな女見てると、虫唾が走るんだよね」
 最後に罵ってきた有紗は、美那莉には若干及ばないものの、十分に美人だ。衛司の隣に並んでも遜色ないだろう。
 そのきつめの美貌を鋭く歪め、彼女は洗面台で手を洗いながら、水をバシャバシャと床に落としている。
(何してるんだろ、この人……)
 何度も何度も同じことを繰り返すので、次第に床が水浸しになっていく。
「人事課なんだから、退職もすぐできそうじゃない? 早く辞めちゃった方がいいと思うよー。お財布盗まれた美那莉ちゃんのファンたちが相当怒ってるみたいだし、暴動起きちゃうかも」
「そうだよねぇ。夜道とか気をつけた方がいいよぉ」
 他の二人が次から次へと罵倒の言葉を繰り返している間に、床には水たまりができあがる。
 次の瞬間――
「あっ、ごめーん!」
 三人がみちるの肩を強く押した。
「きゃあっ」
 弾みでみちるは尻餅をついてしまう。もちろん、水たまりの中で、だ。パシャン、と音が立つほどの量の水が、じわじわとみちるの服に吸われていく。
「大丈夫~? ごめんね~」
「でもきれいになったんじゃない? ……トイレの床が!」
「あはははは」
 三人は下卑た声音と笑いを残しながら、化粧室から出て行った。と同時に、勢いよく扉が開き、菜摘が飛び込んできた。
「みちるっ、大丈夫? 戻って来るのが遅いからもしかして……と思って! ……やっぱり!」
 彼女は軽く舌打ちをした後、みちるを立たせようとし……一旦、手を止めた。
「――ちょっと待ってみちる、つらいだろうけど、そのままでいて。……証拠の動画撮るから」
 菜摘はてきぱきと社内用スマホを操り、みちるの惨状を動画に収めた。
「ありがと、菜摘」
「いくらなんでも酷すぎるわ、これ」
 みちるの手を引いて立たせた後も、菜摘は水たまりや濡れたみちるの姿も撮影していた。
「うん、酷いね……とりあえず、床を掃除しよ。菜摘も手伝って」
 みちるは掃除用具入れからモップを二本取り出し、一本を菜摘に渡した。
「みちる、着替えはあるの?」
「一応、汗かいた時用に着替え置いてあるけど……」
「じゃあ、ついてくから着替えに行こ」
 二人は床掃除をした後、新品の雑巾で濡れた服を拭ってから、連れ立って更衣室へ行った。
「……」
 ロッカーを開いたみちるは絶句する。扉を握ったまま動かない彼女の横から、菜摘が中を覗き込む。
「ひっど! 何これ酷い!!」
 中に吊されていたみちるの予備の服までもが水浸しになっていたのだ。それどころか、みちるの私物のバッグにも水がなみなみと注がれていて、水はロッカーの外にまで漏れ出していた。
 菜摘は憤慨しながらも動画で撮影している。みちるはくちびるを噛みしめた。
(泣いたらあの人たちの思うつぼだもの、泣かないんだから)
「みちる、私の服貸す。下着は? 濡れてる? ダメそうなら私、コンビニで買って来るよ」
「うん……お願い」
 さすがに上半身は濡れてはいないが、下半身は下着までびしょ濡れだ。ショーツは着替えたい。
「ここも安全じゃないから、医務室行こう。そこで待ってて。課長に言って下着買って来るから。とりあえず佐津紀さん呼ぶ」
 菜摘はスマートフォンで並河に事情を説明してくれ、佐津紀を呼び出した。
「みちるちゃん、ごめんね。やっぱり一人にしなければよかった」
 医務室のベンチに二人で座ると、佐津紀が泣きそうな表情で謝ってきた。菜摘はみちるを彼女に託し、コンビニに行っている。
「佐津紀さんのせいじゃないですから」
「それにしても酷すぎるよ……無実の罪でこんな目に遭うなんて……」
「私自身には何もされてませんから」
「何呑気なこと言ってるの! こんなの、すぐエスカレートして、みちるちゃん自身に悪意が向いちゃうんだから! 警察に被害届出してもいいくらいよ!?」
「私のために怒ってくれて、ありがとうございます、佐津紀さん。佐津紀さんと菜摘と岡村さんが信じてくれてるから、私、耐えていられるんですよ」
 本当に、佐津紀たちがいてくれなければ、半日すら乗り切れなかったかも知れない。それくらい、多くの悪意が一気に向けられているのを感じている。
 本音を言えば、怖くて泣きそうで、逃げ出したい。でもそうしてしまえば、悪意を持った人間に餌を与えるようなものだ。
 みちるは、それだけはしたくなかった。
「……あと、海堂さんも、でしょ?」
「うん……ですね。海堂さんも調べてくれる、って言ってたんで、多分、大丈夫です」
 みちるの心を底から支えているのは、もちろん衛司の存在だ。彼が信じてくれていると思うと、不思議と力が湧いてくる。
(大丈夫、まだ耐えられる)
 みちるはうん、とうなずいた。

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