戻ってきた初恋はバラの香り~再会した御曹司の豹変ぶりに困惑しています~

沢渡奈々子

第18話

     * * *

 海堂衛司は二度、名字が変わっている。
 生まれた日から小学三年生までは『神代』、それから大学二年生までは『京条』、そして今に至る。
 二十九年の人生で、彼の人格形成に影響を与えた出来事が起こったのは、主に京条衛司の時代だ。しかしそれは『神代』時代、父が亡くなったことに端を発していた。
 父の葬儀で初めて会った祖父の敬三けいぞうが、衛司を後継者に指名したのだ。一体彼の何を気に入ったのか分からないが、一族の反発をこともなげに一蹴した祖父からの過干渉は常軌を逸していた。
 息子に無用な骨肉の争いなどさせたくなかった母の悦子えつこが、父の喪が明けるのを機に婚姻関係終了届を提出し、戸籍を神代から『京条』に戻した。
 さらにはアメリカ赴任をしてくれたので、直接的なコンタクトは滅多になくなったのだが、それでも干渉は止まなかった。
 進学先、身につけるもののブランド、髪型や所作、友人関係など、ありとあらゆる行動に、日本から口出しをしてくるのだから、それは苦痛だった。
 アメリカで初めての彼女ができた時のことだ。つきあって一ヶ月ほど経った頃、急に別れを切り出された。他に好きな人が……と言われたのだが、実は祖父から金を貰っていたと知ったのはその後だった。知人から聞いたところによると「別れてくれたら一万ドル払う」と言われて即承諾したそうだ。
 十代の学生であれば恋愛を取る者も多いのだろうが、彼女は目先の金に目が眩んだようだ。
(所詮はそういう子だったんだな)
 衛司は心の中でそう折り合いをつけた。
 次にできた彼女に至っては、親が現地の総領事館職員だったことから、元官僚だった祖父が「別れないと職を失することになる」と圧力をかけてきたそうだ。
 妨害の手を緩めない祖父に、衛司の反発心は募る一方で。
(意地でもあの人の言うことなんて聞かない)
 そう決意し、表向きは品行方正に生き、それでも祖父の圧力に屈しなかった。
 結局、祖父からの過干渉は十年間、止むことはなく――みちるに出逢ったのは、そんな生活に疲れていた時だった。
 同じハイスクールに日本人の女の子が来たという噂は、友人から聞いていた。しかし広い学校の中、学年が違う生徒をわざわざ探すことなどしないし、日本語補習校も中学生と高校生は校舎が違っていたので、会ったことはなかった。
 ある日の休み時間、ロッカーと格闘している黒髪の少女を見かけた。
「あれ? おっかしいなぁ……」
(あぁ……この子か、例の日本人)
 日本語でぶつぶつと呟きながらロッカーのコンビネーションと格闘する姿を見て、彼女がそうであると気づいた。
 どうやら扉が開かないようなので助け船を出すと、明るい笑顔で何度も頭を下げてくれた。
 それが梅原みちるとの出逢いだった。
 数少ない日本人同士、少しでも助けになればと、衛司は何かとみちるを気にかけた。日本で言えばまだ中学生の彼女は幼さが残るものの、何事にも一生懸命でとても好感が持てた。
 彼女も自分のことが好きなのはすぐに伝わってきた。それだけ素直な性格だったからだ。淀みのない好意をまっすぐに注いでくれる彼女の健気さとひたむきさは、ささくれ立っていた衛司の心に、潤いを与えてくれた。
 だから彼はみちるに心を許し、開き……そしてつい、祖父のことをこぼしてしまった。彼女に愚痴ったところで、何も変わらないというのに。
 けれど、この時に彼女が衛司にくれた言葉が、天啓のようにその後の彼の心を支えることになる。
「エイジくんの人生はエイジくんのもので、それは誰にも奪えないんだよ。それに、たとえどんな生き方を選んでも、私はずっとずっとエイジくんが好きだから」
 はにかみながらそう言われた時、心の中に溜まった澱がすぅっと澄んでいくのを感じたのだ。たった十四歳でしかない少女なのに、みちるに言われたら何故か本当にそんな気がして、不思議だった。
 この子は自分を裏切らない――そういった確信が衛司の中で芽生えた。
 しかし自分は、そんなみちるを裏切ってしまったのだ。正確に言えば裏切ったわけではない。事故によって彼女の記憶を失ってしまったことは不可抗力であると言ってしまえばそれまでだが、彼女にとってはつらく苦しい日々だったろう。
 そういった状況に追い打ちをかけるように――いや、衛司に取っては一筋の光明とも言える事態が起こったのは、昏睡状態から目覚めて一週間後だった。
 祖父が心不全で亡くなったのだ。
 衛司は葬儀参列のため、リハビリもままならないまま悦子とともに日本へ帰国した。
 神代の一族からは決して歓迎されなかったが、一応の礼儀を尽くすつもりで参列した。そして告別式の後、遺言状に記載されていた衛司に譲られた権利をすべて放棄する代わりに、今後行われる各法要や神代家に関する行事には一切参列しないことを承諾させた。事実上の絶縁宣言である。
 そして――最後に葬儀会場を出る時、祖父の遺影を見据えた衛司の胸に言いようもない感覚が込み上げてきて。
(これで……)
 解放される――そう思った瞬間、強烈な頭痛を覚えるとともに、その場で倒れていた。
 病院で目覚めた時、目の前に開けた視界があまりにも明るいので、自分は別人として生まれ変わったのだとさえ感じられた。それくらい、以前とは違っていたのだ。
 それからというもの、衛司の生活は一変した。環境がアメリカから日本へ移ったせいもあるが、本人の行動が見違えるように変わったのだ。今まで、男性でありながらどこか奥ゆかしささえあった衛司が、豪胆になり、好きなことを我慢しなくなった。
 身体の奥に押し込めていたまばゆい光が解き放たれ、本人が好むと好まざるとにかかわらず誘蛾灯のように人を引き寄せた。
 彼の変貌ぶりに母の悦子は驚いたものの、息子が幸せならと、そこはあえて静観してくれた。
 大学生活は充実し友人にも恵まれた。長続きはしなかったが彼女が途切れることもなかった。母の再婚相手やその一族にも気に入られ、海堂ホールディングスへの就職を勧められたのでその通りにした。
 極めて順調な人生を歩んできた十一年間だったと言える。少なくとも周囲からは『完璧なスペックを持った男が完璧な人生を送っている』と言われている。
 しかし衛司の中で強く重く根づいているものが二つあった。
 一つは交通事故によるトラウマ――車の運転ができなくなり、時にはフラッシュバックで具合が悪くなったり倒れたりすることもあった。
 心療内科とカウンセリングには通っていたが、それらは未だに直っていない。
 それからもう一つ……彼の心の奥底には、大事なことを忘れているような感覚が常にたゆたっていた。何かが足りない……誰かを思い出さなければならない。
 その欠如した部分は、年月を経ても埋まることはなくて。そのせいで眠れない夜を過ごした経験も少なくなく、彼を苦しませた。
(きっと、これが関係しているんだろう、な)
 衛司はいつも持っているキーリングを見て思った。それは洗練されたデザインでもなければ、高級品でもなく、正直に言ってしまえばとてもチープなものだった。けれど何故かそれを眺めていると言いようもなく切なくなる。絶対になくしてはいけない、大切にしなければ、という使命感のようなものすら湧いてくるのだ。
 だから他人からどれだけ揶揄されても手放そうとは思わなかったし、その気持ちは揺るがなかった。
 そんな生活を送り、十年以上経ったある日のこと。
 朝、出社した衛司は、ビルのエントランスにトラックが突っ込んできたのを目撃する。驚いたはずみで例のキーリングがスーツのポケットから落ちた。それを拾ったと同時に、ズキン、と強烈な痛みが頭を襲った。それは急速に酷くなっていき、立っていられないほどの苦痛が襲ってきた。
 明らかにいつものとは違う具合の悪さで、何かがおかしいと思った時には、衛司は意識を手放していた。
『エイジくん……』
『エイジくん、私、迎えに来てくれるの待ってたんだよ……』
『エイジくん、早く来て……』
 誰かが呼んでいる声がして、衛司はハッと目を開いた。視界に飛び込んできたのは、白い天井だった。
「衛司、大丈夫?」
 傍らに座っていた悦子が、心配そうに顔を覗き込んできた。母親の顔をじっと見つめた後、ベッドサイドのキャビネットの上にキーリングが置かれていたのが目に入る。それを目にした衛司が口にしたのは――
「みちる……」
「え?」
「みちるを迎えに行かないと」
 ――衛司は、すべてを思い出した。
 病院を出るや否や、彼は海堂家が懇意にしている信用調査会社にみちるの調査を依頼した。運がいいことに、彼女はすぐに見つかった――海堂エレクトロニクスに勤務していたからだ。
 さらに運は彼に味方をしていた。大学時代の同級生で卒業後KELに入社した岡村宏幸が、みちると同じ部署だったのだ。衛司は彼を抱き込み、みちるの情報を得た。
 岡村によると、彼女は結婚も交際もしていないという。
(運命だ)
 衛司は確信した。
 それから継父ちちに頼み込んで、海堂エレクトロニクスに出向扱いで異動することに成功する。
 KELでみちるを初めて見た時の感動は今でも忘れられない。彼女は昔の面影を残しながらも、涼やかで清楚な透明感のある大人に成長していた。それからしばらくは遠くから観察する日々を送ったが、真面目なのは昔とちっとも変わっていなかったし、同僚と談笑する姿はとても愛らしいと思った。
 知れば知るほど、みちるが愛おしく思えたし、欲しくてたまらなくなっていく。
 十一年間フリーズドライされていた衛司の恋心は、今や完全に元通り――いや、昔以上に成熟していた。
 再会して初めて彼女のアパートで話しかけた時、京条衛司だとは信じてもらえず、逃げられてしまう。恐らくそうなるだろうと予想はしていたが、あまりにも分かりやすい反応で、衛司はその可愛さに笑ってしまった。
「衛司さん、拒否されて笑うとかドMですか」
 新島が呆れたように言ってきたが、衛司はめげなかった。
 自分の中の誠実さを総動員し、みちるにアプローチを続けたのだ。女性に対してこんなに必死になったのは初めてで、それは新島の折り紙つきだ。
 涙ぐましい努力が実り…と言いたいところだが、最終的に彼女に刺さったのは、自分の過去のトラウマだった、というのが少々情けない。
(……いや、勝てば官軍、だ)
 みちるが自分のものになるのなら、情けないのも上等だ。そもそも、彼女には以前から弱みを見せてきたのだから。
 海堂衛司の世界は、十年の時を経て今、最高明度の極彩色を手に入れたのだ。
 
「やっとだ……やっと、探していたものが手に入った」
 ふかふかのベッドの上、裸のまま眠るみちるを見つめながら、衛司はここまでの道のりを思い出して感慨深げに呟いたのだった。

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