戻ってきた初恋はバラの香り~再会した御曹司の豹変ぶりに困惑しています~

沢渡奈々子

第17話

     * * *
     
「衛司くん……」
 衛司が横たわるベッドの縁に乗り上げ、みちるは眠り続ける彼に小声で話しかけた。
 新島はこの部屋にはもういない。
『梅原様は、衛司さんについていてさしあげてください。私は別室で待機しておりますので、何かございましたら呼び出していただければ。日をまたいでも大丈夫なよう、フロントにも伝えてあります。せっかくのスイートですし、室内を思う存分堪能されて、ごゆっくりおくつろぎください』
 運転手モードに戻った彼と連絡先の交換をしたみちるは、スマートフォンをサイレントモードにしてからベッドサイドのキャビネットに置き、隣で衛司を見ていた。隣とは言っても、ベッドが相当広いので横たわる彼とは少々距離がある。邪魔にはならないだろう。
 あれから二時間ほど経っており、衛司の顔色はだいぶよい。もうほとんど元の血色を取り戻しているようだ。みちるはそっとその頬に触れた。
 その刹那――
「――っ、みちる!!」
 突然、衛司が彼女の名を叫びながら、ガバリと起き上がった。
「衛司くん! 急に起き上がっちゃだめだよ!」
 みちるは慌てて衛司のそばににじり寄り、彼の両肩を押さえる。衛司は息を荒らげたまま、彼女の顔をまじまじと見つめた。そして数瞬後、ハッと我に返ったように、彼女の顔や肩をペタペタと触る。
 みちるの無事を確認しないまま、気を失ってしまったせいなのだろう、寝ていた時よりも若干顔色が悪くなっていた。
「みちる、大丈夫だったか? ケガはしてないか? 骨が折れたりしてないか?」
「大丈夫だから! ……衛司くんが助けてくれたでしょう?」
 本当は英里子にぶつかられて転倒した時に、擦り傷ができてしまったのだが、大したことはなかったので黙っておく。
「ならよかった。……俺は、また倒れたんだな? ……すまない、迷惑をかけて」
「迷惑なんて思ってないよ、衛司くん。こんな豪華なスイートルームに入ることができて、ちょっとだけラッキー、みたいな?」
 みちるのおどけた言葉に、衛司は目元を緩めて安堵の表情を浮かべる。
「そうか……みちるが無事なら、それでいいんだ。本当に、よかった……」
 そう呟いて、衛司がみちるの頬にそっと手を伸ばした。それは、かすかに震えているように思えた。
 少し冷たい指先を感じた瞬間、みちるは込み上げるものをこれ以上押し留めておけなくなって――
「っ、え……じく……っ」
 丸い瞳から、突然ぽろぽろと大粒の涙があふれ出した。それはみちるの頬に触れていた衛司の手をも塗らしていく。
「みちる……? どうした? やっぱりどこか痛いのか……?」
「っ、ちが……っ。ご、ごめんね、え、じくん……っ。ごめんなさい……っ。わ、私、どんな……衛司くんでも、好きだよ……って、言ってたのに……っ。そ、れなのに、わ、たし……っ」
 十年ぶりに再会した衛司があまりにもみちるの記憶と乖離していたから。戸惑いのあまり、変わってしまった彼を受け入れることができずに、突き放すような態度を取り続けてしまった。
 みちるの言葉を信じていた衛司は、きっと傷ついたに違いない。
 けれど、彼は決して責めたりしなかった。ただひたすらみちるに甘い感情を注ぎ続けてくれたのだ。
 今の衛司をあの頃のエイジだと完全に認めてしまえば、負けだと思っていた。心の奥底ではとっくに認めていたのに、気づかない振りをしていたのだ。
 この十年間、エイジを想って何度も苦しくなったのだから、衛司だって――これっぽっちもそんなことを思わなかったと言ったら、嘘だ。そしてそれは完全にみちるのエゴでしかなかった。
 自分はなんて卑屈で醜い女だったのだろう。けれど、そんなみちるを衛司は好きだと言ってくれた。彼に無意味にそっけなくし続けてきたこんな自分を、だ。
 再会して数週間――十一年にも渡って二人の間に横たわっていたブランクは、衛司によってあっという間に埋められてしまった。ぽっかりと空いていた大きな大きな溝は今、衛司からの愛情で満たされて塞がれている。
「みちる……自分を責めるな。俺が悪かったんだ。せめて母親にだけでもみちるとのことを言っておけば、あんなことにはならなかったんだから」
「で、でも、わ、私、衛司くんがずっとずっと、苦しんでいたなんて、全然知らなかった……っ」
「……新島から何か聞いたのか?」
 みちるはこくこくと頷く。彼女の双眸は未だに涙を大量生産して止まない。
「……ったく、あいつは余計なことを」
 衛司はやれやれといった様子で、みちるの涙を手の平で拭ってくる。
「ごめ……なさ……、っ!!」
 みちるが再び謝罪を口にした瞬間、衛司にくちびるを塞がれた。とても優しくて、温かいキスだ。彼の手がみちるのうなじに差し込まれ、彼女の頭をそっと引き寄せる。
 驚いたはずみで、みちるの涙が止まった。
 それから数秒後、衛司がそっと離れていった。その表情は「大成功」と言いたげに笑っている。
「……みちるが自分を責めたら、またキスをして黙らせることにしよう」
 みちるの頬は真っ赤に染まる。初めての時も恥ずかしさと驚きで赤くなった。けれど今は、それだけではなくて……
「……衛司くん、ずるいよ」
「何が?」
「だって……そんなこと言ったら……キスしてほしい時は、謝らないと……いけなくなっちゃう」
 みちるはたどたどしくも、自分なりに今の心境を精一杯伝える。
 もっともっと、キスをしてほしいと。
 衛司は目を見開き……そして、今まで見たこともないほど甘くとろけた。
「みちるがキスしてほしいと思う間もないくらい、俺がするから大丈夫だ」
 ゆっくりと押しつけられた三度目の衛司のくちびるは、乾いて少しかさついていた。みちるは目を閉じて、その感触をドキドキしながら受け入れる。合わせたり離れたりを幾度か繰り返した後――緊張からやや解き放たれたみちるのくちびるの隙間に、ぬるりとしたものが入ってきた。
「っ!」
 驚いて身体をビクリと震わせる。
(これ……)
 それが何なのかはもちろん分かる。けれど初めてのことで、どう反応したらいいのかは分からない。ただただ衛司の舌に翻弄されるばかりだ。あっという間に自分のそれが搦め取られて、弄ばれて。ちゅ、ちゅ……と、濡れた音が耳に飛び込んできて、身体の力が抜けていってしまう。
 時間の感覚も麻痺してしまい、どれくらいの間キスをされていたのかさえも掴めないままぼぅっとしていると、カリ……とくちびるを甘噛みされた。
「ぁ……」
 そっとまぶたを開けると、そこには甘さをたっぷりと溶かした瞳で自分を見つめる衛司がいた。
「好きだ」
 少し掠れた声で囁かれ、みちるの心臓が跳ねる。
「あ……わ、私も、衛司くんのこと、好き」
 衛司はクスクスと笑い、彼女の濡れたくちびるを親指で拭う。
「アメリカにいた時とまったく同じ返事だな、みちる」
「え、そ、そう……?」
 なんだか成長していないと思われていそうで、気恥ずかしくなってうつむいてしまう。そのすぐ後、みちるはハッと気づき、スカートのポケットを探った。
「衛司くん、これ見て」
 開かれた手の平に載っていたのは、ストラップだった。十一年前、みちるが作ったものだ。衛司が目を覚ましたら見せようと、ポケットに忍ばせていた。
「俺のと同じモチーフだ。みちるのストラップだな」
「私もこれを十一年間大切に持ってた。……ずっとずっと、衛司くんのこと忘れられなかったから」
「そうか、嬉しいよ」
「私も、衛司くんがキーリングを大切にしてくれてて嬉しかったの。……ありがとう」
 みちるがはにかんで見上げると、衛司が眩しそうに目を細めた。
「可愛い」
 そのひとことに、目を瞬かせると、衛司が再び口にする。
「可愛い……俺のみちる」
「衛司くん……」
 柔らかな声音で告げられ、図らずも潤んだ瞳で見つめ返すと、衛司が苦笑いを浮かべて、大きく息を吐き出した。
「……そろそろ離れた方がいいぞ、みちる。今の俺は倒れた後だから結構弱ってるし、みちるから好きだと言ってもらえて舞い上がってる」
「え……どういうこと?」
 何を言われているのかよく分からず、みちるが首を傾げる。
「理性が緩んでるから、ベッドの上でそんな風に無防備にされれば、自分を押し留めるのが難しくなる」
「あ……」
「襲われたくなければ、ベッドから下りろ」
 眉尻を下げた衛司がみちるから少し離れるような仕草を見せた。彼の言葉の意味をようやく呑み込むと、目をぱちぱちと瞬かせる。少しの逡巡を越えた後、みちるは決意したように再び衛司ににじり寄り、彼にキスをした。
 それはただくちびるをぶつけただけの、到底上手いとは言えないものだ。それでもみちるの気持ちを伝えるには十分だっただろう。
 今度は衛司が眉をひそめた。一体何を考えているんだと言いたげだ。
「みちる……俺の言ったこと、理解してるか?」
「わ、かってる。……私だって、衛司くんとそういう風になりたいって思ってたんだよ? ……アメリカにいた時」
 まだ未熟な子供ながら、いつかは衛司と大人の関係になることに憧れを持っていた。だから、初めてだけど、不思議と怖いだとか嫌だとかいう感情は湧いてこない。むしろ、早く彼のものになりたいとさえ。
 衛司がみちるを見据えたまま、息を呑む。
「……本気か?」
「――私、衛司くんになら、何をされてもいいよ」
 笑顔でそう言い残し、みちるは衛司の胸にコツン、と頭を寄せた。彼は彼女の頭の上ではぁ、と息を吐き出す。
 みちるの頭を撫でる優しい手つきに、次第に色が混じり出す。彼女は応えるように頭をすり寄せた。
 最後にみちるの背中にまでその手を下ろした衛司は、クスクスと笑って。
「『やっぱり無理』って言うなよ……?」
 唸り交じりの声で呟くと、彼はベッドスプレッドを剥ぎ、みちるをマットレスにそっと横たえた。
「みちる」
 名前を呼ばれて見上げると、すぐさまくちびるを捉えられた。衛司の舌は再びみちるの歯列を割り、口腔内を舐っていく。
「ん……っ」
 口の中や舌が性感帯になるなんて、知らなかった。衛司の舌が触れていくところすべてから甘気が湧いて、それが全身に毒のように回る。
 身体は震え、頭の芯はぼぅっと麻痺していく。まだキスだけなのに、それが「気持ちがよいという感覚」だと分かってしまう自分が少し恥ずかしかった。
 けれど、衛司のくちびるが離れていくと、淋しくてもの足りなくて仕方がない。つい、彼のくちびるの行方をとろんと焦点の合わない目で追ってしまう。
 そんなみちるを見つめている彼の瞳の奥では、劣情と愛慕が混じり合って匂い立つような色香を発していた。
「本当に可愛い、みちる」
「え、じく……」
 舌ったらずになるみちるの頬を、衛司が確かめるように指先でつつ……と辿った。
「……事故の怖さは忘れられなかったのに……どうしてこんなにも愛しい女の子のことを忘れることができたんだろうな」
 見たこともないほどの優しいまなざしで切なげに囁かれ、みちるまでもが心臓をきゅっと締めつけられるような感覚に見舞われてしまう。
「思い出してくれたからもういいの。……だいぶ時間がかかったけど」
「もう、二度と忘れたりなんかしない」
 そう告げると、衛司は再びみちるにキスをした。

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