戻ってきた初恋はバラの香り~再会した御曹司の豹変ぶりに困惑しています~

沢渡奈々子

第15話

『これにてプログラムは終了となります。本日はご来場、誠にありがとうございました。退場される際は、お足元に十分お気をつけてくださいますよう――』
 終了のアナウンスが聞こえると同時に、場内が明るくなった。周囲の客はどんどん外へ出て行く。
「楽しかったな。……行くか」
 衛司がスッと立ち上がった。手はみちるのそれを握ったままだ。困惑気味の彼女に、彼はにっこりと笑みを見せる。その表情は「デートなんだから当然だろう?」とでも言いたげだ。
「……」
「嫌か?」
 ほんのわずかに眉尻を下げて問われ、みちるはさらに戸惑う。嫌ではないから困るのだ。
 少しの間の後、みちるは黙ったまま立ち上がった――手を振り払わずに。
 場外へ出るとちょうど正午過ぎだったので、フードコートで食事を取ることにした。みちるはサンドイッチ、衛司はカツカレーにした。
「……思っていたより美味いな。フードコートを侮ってた」
 衛司がサクサクのとんかつを口にして唸っている。
「衛司くんもファーストフードとか食べるんですか?」
「もちろん。俺も普段から高級料理を食べているわけじゃないからな。出張先のハンバーガーショップで昼飯を済ませたりもするさ」
「私、美味しいハンバーガーがあるお店知ってますよ。ファーストフードじゃなくてレストランですけど。パティが肉肉しくて食べ応えがあって。……今度一緒に行きますか?」
「……それは『今度』があると思っていいのか?」
 みちるの言葉尻を捉えんばかりに、衛司がニヤリと笑いながら尋ねてきた。ごくごく普通に「今度」という単語が口を衝いて出たこと、それを衛司に気づかされたことになんだか悔しくなったけれど、きっと、間違いなく、本音だから……
「……はい」
 みちるは軽く頬を染めつつ、うなずいた。

 科学館をひとしきり満喫した二人は、この場所から離れ、再び電車に乗った。今度は衛司の行きたいところへ向かうため、桜浜駅で降りる。
 桜浜駅南口は海に面しており、シーサイドには公園もある。園を囲む遊歩道は海にも沿うように敷かれていた。衛司はみちると一緒にそこを歩きたいと言う。
「海が見えてきれいなんだ」
「へぇ~、私、桜浜駅は買い物でよく来るのに、そこは行ったことなかったです」
 そんなことを話しながら南口前の広場を横切る道路を渡ろうとした瞬間――
「あ、衛司さん!」
 女性の舌っ足らずな声が聞こえた。みちると衛司は同時に振り返る。そこには、全身ガーリーなコーディネートで固めた、『女の子』と呼ぶに相応しい若い女性が立っていた。一見すると大学生のように見える彼女は、そこいらのアイドル顔負けな美少女だ。大きな瞳をこれ以上なく見開き、ひたすら甘ったるいキラキラを惜しげもなくまき散らしている。
 そんな彼女が衛司に駆け寄ってきたかと思うと、彼の腕に自分のそれを巻きつかせたのだ。彼女の後ろには、取り巻きのような男が大量の荷物を持たされて立っている。
 いかにも甘やかされて育ってきたと思しきお嬢様であることが、みちるにも分かった。
「あぁ、司馬しばさん。ご無沙汰しています」
「衛司さんったら、英里子えりことのお見合い、断るなんて酷いじゃないですかぁ」
 驚くこともなく、ごくごく普通の態度で彼女の手を解きながら、衛司が平坦な口調で挨拶をした。無愛想でも人懐こくもない、接客用とも言える態度だ。
「すみませんが、今忙しいので。その件ならとっくにすべて終わっていますので、これ以上の質問に答える義務はないはずです」
「英里子は納得してません! 英里子、衛司さんと結婚できるの楽しみにしてたのに……っ」
 英里子と自称する彼女は、生クリームたっぷりのケーキに練乳をしこたまかけたような、でたらめな甘ったるさを孕んだ声音で拗ねている。
 一方衛司は、ニュートラルだった表情をやや不機嫌に染めて、ため息をついた。
「いい加減にしてください。あまりしつこいようなら、あなたのおじいさまに正式に抗議することになりますが」
「衛司さん酷い……英里子のどこが気に入らないんですか?」
 英里子は大きな瞳にうるうると涙を滲ませる。その一見可憐な姿は、多くの男性にある種の効果をもたらすのだろうが、衛司には響かないようだ。
「あなたが気に入らないのではなく、私には大切な女性がいるので」
「……それって、この女のこと?」
 きっぱりと紡がれた衛司の言葉を受け、英里子が鋭い視線をみちるに放つ。投げつけてくる台詞も明らかに刺々しい。
「あなたには関係のないことです」
「何この女、だっさいしぶっさいく。英里子の方が五百倍可愛いし」
(言いたい放題だなぁ……否定しづらいけど)
 グラデーションピンクのネイルが施された英里子の指先で指し示されたみちるは、口元をひくつかせる。
「――司馬さん、それ以上彼女を中傷するために口を開いたら、絶対に許さない」
 それはこれ以上ないほど凍った声音だった。あまりの冷たさに、はたで聞いているみちるでさえ寒気がしたくらいだ。
「っ」
 そしてその言葉の吹雪をもろに受けた英里子は、悔しそうに歯噛みしたかと思うと「信じらんない! サイテー!」などと口走り、肩を怒らせて早足でその場を去ろうとした。
 その時、恐らくはわざとだろうが、彼女はみちるの肩口に勢いよくぶつかっていった。
「きゃ……っ」
 刹那、みちるは目の前の道路に押し出されてしまい、そのまま転倒した。
 その時、彼女めがけて一台の車が突っ込んできた。
「みちる!!」
 衛司の叫び声が聞こえたかとおもうと、みちるは間一髪、彼の手で広場に引き戻された。あと一秒でも遅ければ、確実に撥ねられていただろう。場所が場所だけに車はそこそこ低速ではあったものの、ぶつかってしまえば無傷では済まなかったはずだ。
「……」
 みちるはしばらく声を出せずにいた。心臓がありえないほど速く鼓動を轟かせている。
「っ、」
 次の瞬間、強い力で抱きしめられた。もちろん、衛司にだ。彼の胸の中で、車に撥ねられかけた恐怖によるドキドキと、抱きしめられたことによるドキドキが複雑に絡み合い、なかなか平常心を取り戻せずにいた。
 数度の深呼吸の後、ようやく声を出せたみちるは、衛司の背中をトントンと軽く叩いた。
「え、衛司くん、ありがとうございました。もう大丈夫ですから」
 離してくれていいですよ――そう言おうとしたその時、彼の様子がおかしいのに気づいた。
「? 衛司くん?」
 衛司の身体がガタガタと震え出し、しまいには嘔吐えずき始めたのだ。
 みちるは彼を自分から剥がすと、その顔を覗き込んだ。衛司は見たこともないほど顔面蒼白で、今にも倒れそうだった。
「衛司くん! 大丈夫? 衛司くん!!」
 どうしたらいいのか分からず、辺りを見回した後、救急車を呼ぼうとバッグの中を探り始めると、みちるの上に影が落ちた。
「大丈夫ですか?」
 聞き覚えのある声に弾かれたように見上げると、新島がいた。衛司はすでに意識を失っており、新島が来たことにも気づいていないだろう。彼はみちるに代わり衛司を抱きかかえた。
「新島さん? どうしてここに?」
「それは後ほど。まずは衛司さんを運びます。梅原様もお手伝いいただけますか?」
「運ぶって、どこに?」
「すぐそこに、京条系列のホテルがあります。京条家の人間ならすぐに入れる部屋がありますから、そこに行きます」
 新島は衛司を背中に負ぶうと、シーサイドにあるラグジュアリーホテルへと向かった。みちるも後に続いた。

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