戻ってきた初恋はバラの香り~再会した御曹司の豹変ぶりに困惑しています~

沢渡奈々子

第10話

 うろたえる彼女とは対照的に、衛司は極めて冷静で、凪いだ水面のように穏やかな声音でもって尋ねた。
「あの頃、父方の祖父が厳しい人だったと話したのを、覚えているか?」
「……はい」
「実はあの後、祖父は亡くなったんだ。……俺が事故の昏睡状態から目覚めて一週間後に」
 衛司の祖父はかなり厳格で、つきあう友人にまで口を出してきたとあの頃話してくれたのを思い出した。だからみちるとの交際も秘密裏だったのだ。
「――だから俺は、大したリハビリもしていない状況で帰国しなければならなくて、ほぼ病み上がりの状態で告別式に出た。そして最後に祖父の遺影を見ていたら……いつの間にか倒れてしまったんだ」
 回復もままならない状態での長距離移動による疲れや、時差ボケによる寝不足などが主な原因だったようだが、どうやらそれだけではなかったらしい。
「病院で目が覚めたら、景色が今までと明らかに違っていた。目の前がぱぁっと鮮やかになって、気分がすごくよくて……その精神状態のまま生活していたら、こんな俺ができあがっていた」
(そんなことってあるの……?)
 みちるは訝しく思ったが、数瞬後、なんとなくその理由が分かった気がした。
「それって……」
「あぁ。……多分、祖父から解放されたというのが一番大きかったんだと思う」
(やっぱり……)
 当時、衛司は祖父のことを簡単に話してはくれていたものの、子供だったみちるはあまり深くは考えていなかった。『秘密の交際』を、半ば楽しんでいた節もあって。
 二人だけの秘密、というのが、なんだかくすぐったくて嬉しかったくらいだ。
 けれど、衛司にとってはその後の人生を左右してしまうほど、祖父の存在というのが大きな枷になっていたのだと……たった今、理解した。
「その時は記憶は戻らなかったが、これだけは……ずっと持っていた。十一年間、肌身離さず。心のどこかで大切なものだと理解していたんだと思う」
 そう言って衛司はみちるに例のキーリングを見せた。それを見る彼のまなざしは、いつもの引き締まったものとは違い、とても優しげだった。
 そんな衛司を見て、みちるは胸が痛くなった。
「……」
「――これが、みちるを傷つけた事態のすべてだ。あの交通事故と祖父の死が……俺を“こんな風に”した。みちるは困惑しているだろうが、これが今の俺だから」
 衛司は確かに以前「自分を解放して生きてみたい」と言っていた。その潜在意識が、祖父の死によって解き放たれたのだろう。
 今の衛司は、濃い天然色の世界で自由に泳ぎいきいきとしているように見える。それがあの頃の彼とはどうしても合致しなくて不可解だったのだが、理由が分かってしまえば割とすんなり得心が行く。
 ただ、それをみちる自身が受け入れられるかと言えば、話は別だ。彼女の中ではまだ混乱の蔦が絡まっている。
「十年前のことはすべて納得しました。エイジくんが私を黙って捨てたわけじゃなかったことが分かってよかったです。……それで結局、海堂さんはこれからどうしたいんですか? 私に会いに来て、何がしたいんですか?」
 みちるの問いに、運ばれてきたスープとパンを食していた衛司が目を丸くする。
「ここまで話しても分からないとは、鈍感がすぎるな」
「ひ、人を鈍感だと言う前に、分かりやすく伝えてくださいっ」
 クスクスと笑い出した衛司に、かぁっと頬を熱くしたみちるもまた、拗ねながらスープとパンを口に押し込む。
「じゃあ、みちるのためにはっきり言う。俺は君のことが好きだ。つきあってほしい」
「え……」
 あまりに突然の告白に、呆けてしまった。こんな展開になるなんて、思ってもみなくて。
 何を冗談なんて……と疑ってかかる。しかし衛司の表情は、笑っているものの真剣そのものだ。
「記憶を取り戻してからずっと、君を取り戻すことしか考えられなかった。十一年前のやりなおしをしたいんだ……今度は大人の男女として」
「やりなおし……?」
「幸いお互いフリーだ。なんの問題もないだろう?」
「え、でも、海堂さんには婚約者がいる、って会社で噂になっていましたけど……。誰の誘いも受けない、誰もお持ち帰りしないから、資産家の婚約者がいるんだ、って……」
 みちるがきょとんとした表情で尋ねた。
 社内で女性たちが悔しがりながらそんな話をしているのを、何度か目にしたことがある。首を傾げるみちるをよそに、衛司はあはははと笑う。
「お持ち帰りしないからってそんな噂が立つのか、面白いな。……それはともかく。誰の誘いも受けないのは、俺には好きな子がいるからだ。誰のことかはもちろん分かるな? そもそもKELに来たのも、みちるがいたからだ」
「……は? 私がいたからって……?」
(何言っちゃってるの? この人……)
 聞き捨てならない台詞がみちるの耳に飛び込んできた。彼の言ったことが本当なのか冗談なのか、彼女には計りかねている。
「みちるが海堂エレクトロニクス勤務だと分かった時点で、俺はありとあらゆる手段を使って出向に漕ぎ着けたんだ」
「そ、それって職権乱用ってやつですか?」
「職権乱用とは少し違うな。身内のコネ、というやつだ。継父ちちに頼み込んで根回ししてもらった」
「そんなことって許されるんですか……?」
 個人的な事情でコネをフル活用して、職場を異動という力業を見せつけられて。しかも自分が理由だなんて……これが周囲にバレたらと思うと、背筋が寒くなる。
「普段ワガママなど一切言わない継息子むすこからの切実なお願いだったからな、継父は喜んで手を貸してくれたよ」
「えー……」
 悪びれる様子など微塵も見せない衛司に、みちるの口元がひくひくと強張る。
「俺は婚約者も彼女もいない。少し前に見合いはしたがすでに断っている。障害は何もない」
「そんなこと言われても……」
「“今の俺”は嫌いか?」
「“今の海堂さん”のことをよく知りませんし、ここですぐにお返事するなんて無理です」
「ははは、女性に『無理』だと断られたのは初めてだ。まぁ、俺から告白をしたことなど今までなかったが……君以外にはな」
 言葉をそのまま捉えれば傲慢な物言いかもしれない。けれど、彼にかかればその言葉がかえって清々しく響くし、心地いいくらいに似合っているし、発言自体もとても説得力があるから不思議だ。
「チャンスをくれないか? みちる」
「チャンス?」
「何度かデートをしてほしい。絶対に、今の俺を好きにさせてみせるから」
「デート……ですか?」
「今の俺を知ってもらうには、それが一番いいと思う。さしあたって、今日だ。食事の後、どこか出かけよう」
 いいことを思いついたとばかりに、衛司が目を輝かせた。気圧されたみちるは上手く言葉が出て来ない。
「え? あ、いや、あの……」
「今の俺とじゃ出かけるのも嫌?」
「そ、そういうわけじゃ、ないですけど……」
「ならデートだな。……そうと決まれば、まずは腹ごしらえだ。ちょうどメインが来たし。ここのビーフシチューは絶品だぞ」
 衛司は八分音符を飛ばしそうなほどの上機嫌さで、暗褐色のソースが絡まった牛肉にナイフを入れたのだった。

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