戻ってきた初恋はバラの香り~再会した御曹司の豹変ぶりに困惑しています~

沢渡奈々子

第8話

 外で話がしたいと言う衛司に、二十分ほど待ってもらった。支度をするためだ。
 髪をブローした後にメイクをし、服を着替える。ただ話をするだけだし、おしゃれなんてする必要ないと初めは思った。けれど、衛司がそれなりの服装だったので、少しは気を遣うべきかと考え直した。
 通勤にも耐えうる服装に着替え、バッグを持って外へ出た。ドアの前で待ち構えていた衛司は、彼女を見てフッと笑う。
「寝起きのみちるは例えようもなく可愛かったが、そうやって身ぎれいにしているのも悪くない。可愛いよ」
 いきなり平然とそんなことを言うものだから、頬が赤らんでしまうのも仕方のないことだ。
(こういうところ……ちょっとエイジくんっぼい……)
 アメリカ時代の衛司も、よくみちるに臆面もなく「可愛いね」と言ってくれた。照れくさかったけれど、嬉しくて舞い上がっていたものだ。
 彼の後についてアパートの階段を降りると、例のパールホワイトの高級セダンが停まっていた。外には黒服の運転手が佇んでいる。
「俺の専属運転手の新島にいじまだ」
 衛司が手で指し示しながら紹介してくれた。
「新島と申します。よろしくお願いいたします」
「あ、私、梅原みちる、です」
 新島は衛司と同じくらいの上背だが、見た目はかなり若そうに見える。おそらくみちるよりも年下だろう。なんらかの訓練を受けているのか、笑顔を見せてはいるものの、所作に無駄がなく隙のない感じがした。
 そんな新島が、後部座席のドアを恭しく開けてくれたのでみちるは恐縮してしまった。
 車に乗った後、衛司が話してくれた。新島は彼が個人的に雇っている運転手で、セダンは衛司の自前の車だそうだ。
「給料も全部俺の金から出しているから、誰に遠慮することもない」
 彼が笑って言った。
(……KHDのお給料って、そんなにいいの?)
 人ひとり雇えるほどもらえるのだろうか――みちるは一瞬、そんなことを思ったが、そんなはずないとかぶりを振った。
(まぁ、どうでもいっか)
「少し早いが、ランチにしよう」
 到着したのは、みちるのアパートから二十分ほど行ったところにある、ややお高めなレストランだった。店に入って通されたのはシックな個室だった。
「ここ……」
 みちるが少しばかり居心地悪そうに室内を見渡すと、衛司が言った。
「京条系列のレストランだから、気にしなくていい」
 このレストランも、グルメレビューサイトで高評価を得ており、予約を入れるのも一苦労らしいということはみちるも知っている。それなのに、突然訪れたにもかかわらず当たり前のように個室に通された。
 母親の実家の系列店だからと衛司は言うが……
「あの……本当にエイジくん……なんですか?」
 みちるはおずおずと顔を覗き込むように尋ねた。すると衛司はクッと笑う。
「この期に及んでまだ信じてないのか。往生際が悪いぞ、みちる」
「で、でも、名字が……」
 自分が知っているのは〝京条〟衛司であって、〝海堂〟ではない。だから未だに信じきれないでいるのだ。
「それなら答えは簡単だ。母が九年前に海堂ホールディングス社長の弟、海堂義彦と再婚し、俺も名字が変わった。それだけだ」
「お母様、再婚されたんですか」
「幸い、今でも夫婦仲睦まじく暮らしている。本人同士も仲がいい上に、京条と海堂の間に太いパイプもできて万々歳だ」
 京条グループはホテルを初めとする不動産、金融、外食産業、化学、化粧品事業などを扱っている。
 一方、海堂ホールディングスはIT関連をメインとして、アミューズメントパーク運営や映画製作配給、学校経営なども手がけている。
 分野の違う企業同士が提携すれば、お互いの弱点を補え業務の幅も広がるという目論見もあるのだろう。 
 みちるは改めて海堂衛司をうかがい見る。 
 美しいフォルムを象った切れ長の瞳は、澄んでいるのに力強い気概を宿している。
 鼻梁はまっすぐきれいに通っており、薄めのくちびるは口角がきゅっと引き締まっている。そんなところにも意志の強さが見え隠れしているなと、みちるは感心する。
 背は一八〇を優に超えていれば手脚も長い。男性として理想的な体躯であることは、否定しようもない。
 実際会社でたまに見かける衛司は、都度、上質なスーツを華麗に着こなしている。所作も洗練されており、見苦しい言動など無縁そうだ。
 彼の一挙手一投足に目をハートにする女性社員を、何人も見てきた。
 しかしこうして間近で衛司を見ても、どうにもピンと来ない。
 完璧な造作は確かに昔の彼と同じものに見えるが、十年の時を経てここまで印象が変わってしまったのだ。本人だと言われてもすぐには信じられないのも無理はない。
「それで、その、お話って……」
「まぁ、まずはこれだ」
 メニューを差し出され「好きなものを頼むといい」とにこやかに言われたけれど。悠長に食べてなどいられなかった……はずなのに。
「食欲なんて出ませ――」
 その瞬間、ぐぅ〜とお腹が鳴ってしまった。
(っ、は、恥ずかしい……!)
 起きてから何も口にしていなかったので、空腹なのは当然だ。けれども、彼の目の前で盛大に腹の虫を鳴かせてしまうなんて、恥ずかしいことこの上ない。
 みちるの様子を見た衛司はクスクスと笑う。それは彼女を馬鹿にしている風ではなく、懐かしんでいるようにすら見受けられた。彼はわずかに眉尻を下げ、自分のメニューを開き、みちるに見せてきた。
「プレミアムランチコースがオススメだが……どうする?」
 含みのある笑みでそう問われ、うなずくしかなかった。不本意だが、メニューを見たら確かに美味しそうで、空腹感が増していくのが自分でも分かる。そんなみちるを満足げに眺めた衛司は、傍らでスタンバイしていたウェイターにオーダーを告げ、メニューを閉じた。そして改めてみちるに向き直った。
「――それはそうと。話というのは、もちろん、十一年前のことだ」
「十一年前……」
「あの時、プロムに行けなかったばかりか、ぱったりと連絡をしなくなってしまったこと、本当にすまなかった」
 衛司はすんなりと頭を下げた。一見「他人に首を垂れるなどプライドが許さない」と考えていそうな雰囲気を持っているのに、なんだか意外だった。
「――プロムに来られなかった理由は分かってます……」
 みちるは小声でそう呟き、うつむいた。

     * * *
 
 あの日、時間になっても衛司が現れず、不安と心配で何度も電話をした。けれど応答してくれる様子がまったくなくて。一緒に行く予定だった友人に聞いてみても理由は分からなかった。
 別の友人が迎えに来てくれたのでプロムには参加できたけれど、衛司が心配でまったく楽しめなくて。
 結局、彼が会場に姿を見せることは最後までなかった。
 一報が入って来たのは、眠れない夜を過ごした翌日だった。
『どうもエイジが交通事故に巻き込まれたようだ』
 彼の近所に住んでいるアメリカ人の友人からそう聞かされた。
 慌てて彼の携帯電話にかけてみたけれど、何度やってみても呼び出し音が鳴るだけだった。
(事故に巻き込まれたから電話に出られないのかな……)
 それならばメールだけ残して彼からの連絡を待った方がよさそうだと、衛司のメールアドレスにこれだけ入れておく。
〝心配しています。もしメールできるようになったらお返事ください〟
 遅くとも一週間以内には返事が来るだろう――この時のみちるは、まだそんな風に前向きな気持ちでいた。
 けれど、一週間どころか半月経っても返事は来なかった。友人知人から伝え聞くのは、入院が長引いているらしいということだけ。
 しかも一切のお見舞いを辞退しているようで。だから彼についての情報がほとんど入ってこなくて、みちるは不安で仕方がなかった。
 こういう時は同じ地区に住んでいる日本人のネットワークが情報源として機能するものだが、何せみちるが住んでいる地域は日本人がとても少なかったので、そういう情報通に心当たりはまったくなく、手の打ちようがなかったのだ。
 そんな日々を過ごして一ヶ月、ハイスクールは年度末を迎え、夏休みに突入した。アメリカの夏休みは長い。六月中旬から九月の第一月曜日の祝日『レイバー・デー』までが休みとなる。
 最終登校日、みちるは学校のカウンセラーに尋ねてみた。衛司はあの日以来登校はしていなかったけれど、単位はすでに足りていたので卒業扱いになったそうだ。
 みちるはみちるで、夏休みには一時帰国を予定していた。六月終わりには日本へ向かい、元々通っていた中学校に体験入学をすることになっていたのだが――
(帰りたくないけど……ダメだよね)
 交際をひた隠しにしていた彼氏と連絡が取れないという理由で、前から決まっていた予定を反故にするわけにもいかず。みちるは後ろ髪を引かれる思いで帰国をした。
 日本での生活は楽しかったし、友達とも会えて嬉しかった。
 けれど、心の半分くらいは衛司で占められていて。毎日毎日メールをチェックしたけれど、やっぱり連絡はなかった。
 そうして八月の半ばに帰米したみちるを待っていたのは――
「どうもエイジは日本に本帰国したらしい」
 彼の友人からの悲しいひとことだった。

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