戻ってきた初恋はバラの香り~再会した御曹司の豹変ぶりに困惑しています~

沢渡奈々子

第5話

 その次に衛司に会ったのは、数日後の学校の駐車場だった。朝のスクールバスに乗れず、母親の車で登校した時だ。
 ハイスクールの登校時間は早い。何せ、その学区の高校から小学校まで、同じ会社がスクールバスの運行をしているのだ。高校生を乗せた後は中学生、その後は小学生を乗せて町中を走り回る。
 みちるの乗り場にバスが来るのは朝の六時半頃だ。毎日五時半には起きて準備をするのだが、その日はいろいろ手間取り、遅れてしまったというわけだ。
 母を見送り校舎に入ろうとすると、彼とばったり出くわした。
「あ……」
「おはよう、ミチル」
「おはようございます! この間は、本当にありがとうございました。先生にも怒られずにすみました」
 みちるは深々と頭を下げた。あの日の教科担任に事情を説明すると、カウンセラーから電話が行っていたようで『エイジがフォローしてくれてよかったね』とニコニコしていた。特におとがめもなかったので、彼が言っていた通りだとみちるは感心したのだった。
「ならよかった。ミチルは車登校なの? ……って、免許持ってないだろうけど」
「今日はバスに乗り遅れちゃったので、母に送ってもらったんです。……エイジさんは、車ですか?」
「エイジでいいよ、アメリカなんだし」
 アメリカでは日本人同士も呼び捨てで呼び合うことが多い。特に現地校の場合はそうだ。
 でもミチルはどうしてもそれに慣れなかった。同学年ならともかく、三歳も年上の衛司を呼び捨てになど恐れ多くてできない。それを伝えると、彼はクスクスと笑って「じゃあ“くん”でいいよ」と言ってくれた。
「じゃあ……エイジくん」
「うん。……あぁ、僕は車登校だよ。十六になってすぐライセンスを取ったんだ。うちは母子家庭で母親が働いているから、移動とかできるだけ自分でしたいしね。それに、車の運転も好きなんだ」
 十六歳になると自動車の免許を取って自家用車通学をする生徒も多い。大都市部ならともかく、アメリカの大抵の町は徹底した車社会なので、遊びに行くにしても、自分で運転するか親に送迎してもらわなければならないのだ。
「すごいですね。私なんて、親に甘えてばかりです」
「子供なんだから甘えて当然だよ」
 二人並んで校舎に向かって歩いている間も、中に入ってからも、衛司は周囲の学生からよく声をかけられていた。そのたびに彼は愛想よく返事をする。
 彼ほどではないがみちるも声をかけられた。その中で時々、
「ハイ、マイチル!」
 そう呼ばれることがあった。それを聞いた衛司がクスクスと笑う。
「ミチルってやっぱり初見だとマイチルって呼ばれるんだね」
「そうなんです。『mi』の発音をマイって読まれちゃうんですよね」
 二重母音の法則などで『i』を『アイ』と発音することが多いが、みちるの『Michiru』も病院や学校ではよく『マイチル』と読まれていた。最初の内はいちいち「『ミチル』です」と訂正していたが、きりがないので近頃は大切な場面以外ではそのままにさせている。
「分かるよ、僕もよく『アイジー』って呼ばれるからね。ほらアインシュタインのスペルも『ei』で始まるし、それと同じだよ」
 衛司が笑顔のまま肩をすくめた。
「『ei』も『アイ』って発音するのが不思議ですよね。……あ、私、こっちなので」
 ロビーの別れ道で、みちるは自分が行く方向を指差した。
「僕はこっち。……あ、ミチル、よければ連絡先教えてほしいから、今日ランチ一緒に食べない?」
「は、はい、喜んで」
「じゃあ、後でカフェテリアで」
 それから二人は昼食を食べながら連絡先を交換した。この時はまだスマートフォンを持っている高校生は少なくて、みちるも衛司もフィーチャーフォンを使っていた。だから電話番号とメールアドレスを交換する。
 TLHSには日本人の生徒が少ない。というより、衛司とみちるしかいない。みちるの父や衛司の母の勤務先自体に日本人従業員が極端に少なかったのが大きな要因だ。
 だから必然的に数少ない日本人で助け合う場面が多いのだか、みちるは衛司と知り合うまではこの学校で日本人を見たことがなかった。
 土曜日に通っている日本語補習校も、中学と高校は教室が離れているので、顔を合わせたことがなかったのだ。
 だからなのか衛司はとても優しくて、何かとみちるに手を差し伸べてくれた。勉強で分からないところがあれば懇切丁寧に教えてくれたし、学校のことだけでなく、この町やアメリカについてもたくさん教えてくれた。
 みちるにだけでなく誰にでも親切な彼は、その優しさや細身の外見からは想像できないが、幼い頃から空手をやっていて、黒帯で有段者だった。放課後にはボランティアで子供に空手を教えているそうだ。
「空手はね、アメリカでは割と人気のある習いごとなんだよ。だからあちこちに空手教室があるんだ。でも月謝が払えない子供もいるからね、僕でよければ、と思ってボランティアで教えてるんだ」
 笑ってそう言う衛司を、好きになるのに時間はかからなかった。
 いや、初めて会った日にはもう、恋に落ちていた――これが、みちるの初恋だった。
 彼を好きになってから、アメリカでの生活が何倍も楽しくなった。衛司も頻繁にみちるに声をかけてくれたし、アメリカ人の友人との集まりに入れてくれたりもした。
 四月の衛司の誕生日には、みちるが自分で作ったキーリングをプレゼントした。男性用のメタルキーホルダーにクリスタルで作ったクロスモチーフをつないだものだ。
 高価なものは買えないけれど、自分のお小遣いを貯めて予算内では一番質のいい材料を揃えて頑張って作った。
 友人たちと繰り出したショッピングモールのカフェのベンチで、アイスクリームを食べながらプレゼントを渡した時の衛司の笑顔は、本当に嬉しそうだった。
「ミチルが作ってくれたんだ? すごいね、ありがとう」
「実は私もおそろいでストラップ作ってみたの」
 みちるは照れくさそうに言いながら、衛司の目の前にストラップを掲げた。同じモチーフを使いつつも、女の子らしい可愛らしさを演出したストラップだ。
「ミチルらしいね。可愛いよ」
「ほんと? 嬉しい」
 衛司から褒められ、みちるはふにゃりと顔を緩めて喜んだ。
「……僕も、好きな子からのプレゼント、すごく嬉しいよ」
「……え?」
 衛司の突然の言葉に、みちるは目をぱちぱちと瞬かせた。
「ミチルのことが、好きだよ」
「エイジくん……」
「初めて会った時からいい子だなと思ってた。一生懸命ロッカーと格闘している姿が、その……小動物みたいで可愛いなって」
「しょ、小動物って……!」
 褒められてるようには思えなくて、思わず声を上げてしまった。でも嬉しくて、照れ臭くて、うつむいてしまった。
「褒めてるつもりだけど……気を悪くしちゃったらゴメン」
 そう尋ねられ、おずおずと顔を上げると、そこには甘さにあふれ、それでいて少しの不安を帯びた表情が待ち構えていた。
「あ……わ、私も、エイジくんのこと、好き」
 頬を染めながら本心を告げると、衛司の顔がぱぁっと明るくなった。
「よかった。卒業前にミチルに告白したかったんだ」
 安堵の表情を浮かべる衛司をよそに、みちるの顔は逆に陰りを見せた。
「……そっか、衛司くん卒業したら、日本に帰っちゃうんだもんね」
 六月に卒業を迎える衛司は、その後は日本に本帰国して大学受験をすることになっている。少し前にそれを聞かされたみちるは、泣きそうになるのを堪えた。
「そんな顔しないで。日本でミチルのこと、ちゃんと待ってるから」
 衛司は穏やかな声音で告げると、不安げなみちるに顔を近づける。
「っ」
 一瞬……キスをされるのかと思ってドキリとした――いや、キスはされた。でもくちびるではなくて、額にだった。柔らかくて温かい感触が額に移ったのを感じた。
「――ミチルが日本に帰ってきたら、ちゃんとしたキスをしよう」
 衛司はそう言って微笑み、彼女の頭を撫でた。
(……くちびるにしてほしかったかも)
 ほんのりと熱を持った額に触れながら、みちるは少し残念に思った。

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