戻ってきた初恋はバラの香り~再会した御曹司の豹変ぶりに困惑しています~

沢渡奈々子

第4話

     * * *

 みちるが父親の仕事の関係で渡米したのは、中学二年生の夏のことだ。中西部のとある町で新生活を始めた彼女は、学区内のハイスクールへ編入した。
 アメリカは日本より半年早く九月が始業、しかも高校は基本的に四年制なので、日本の学年で言えば中二の秋には高校一年生=九年生フレッシュマンとなる。
 英語に慣れていない日本人の子女は、一学年下げて編入することも多いが、幸いにもみちるは両親の「英語は将来絶対役に立つから!」というポリシーのもとに、幼い頃から英会話をみっちりと習っていたので、少なくとも日常会話にはまったく困らなかった。
 だから学年を下げることなく九年生に編入したのだが、やはり慣れない英語の授業は大変で、それから数ヶ月は学業に関する専門用語などを含めた学生英語の勉強を徹底して行った。
 みちるが通っているのはツイン・レイクス・ハイスクール(TLHS)という公立高校パブリックスクールだったのだが、そこはアメリカ国内外の大手企業の従業員が数多く住む閑静な住宅街の中にあり、教育水準も高い地域だった。
 それを裏づけるのが全米の学校格付けサイトだ。TLHSは公立では非常に珍しい十段階の十を獲得するほどの名門公立高校パブリックスクールとして有名だった。
 当然ながら授業の質も高い。それ故についてゆけずにドロップアウトする学生も中にはいた。しかしみちるはアメリカ人の友人にも助けられ、二月に差しかかった頃にはここでの学生生活も安定したのだ。
 彼と出逢ったのは、そんな頃だった――
「あれ? おっかしいなぁ……」
 みちるは自分のロッカーのダイヤルを回しながら、ブツブツと呟いていた。
 アメリカの中学・高校は日本と違い、クラスの教室がない。仕組みで言えば大学に近いだろうか。教科担任が詰めている教室に移動して授業を受ける。だからロッカーはすべて廊下に設置されており、そこにテキストや私物を入れておくのだ。
 みちるは今、そのダイヤルと格闘している真っ最中だった。
 半年も使っているロッカーだと言うのに、何故か開かない。昨日までは確かに開いたのに。
「どうしよう……」
 何度数字を合わせても開かないので途方に暮れる。中には次の授業で使うテキストが置いてあるので、取れないと話にならない。
 TLHSは名門高校と言われるだけあり、遅刻や忘れものにはとても厳しい。休み時間は五分しかないので、その間に荷物を取って教室移動をしなければならない。周囲の生徒は次の授業に向けてどんどんロッカーからテキストを出して離れていく。
(はー……もう諦めて、教科書取れなかったって素直に言おうかな)
 ため息をついてその場を離れようとしたその刹那――
「手伝おうか?」
(え、日本語……?)
 確かに日本語で声をかけられた。
「……っ」
「ロッカー、開かないんだよね。手伝った方がいい?」
 振り返ると、そこにはスラリと背の高い黒髪の青年が立っていた。表情を優しげに緩めて笑っている。
 自然に整えられた眉、切れ長の澄んだ瞳、きれいに通った鼻梁、つやつやした薄めのくちびるが、卵形の輪郭の中に整然と配置されている。 
 まさに『眉目秀麗』という言葉が相応しい、隙のない美貌を湛えた顔立ちなのに、柔らかくてキラキラでみずみずしい空気に包まれている。
(こんなにきれいな男の人……見たことない)
 みちるは彼から目が離せなかった。
「……」
 言葉も出ずにその顔を見つめていると、彼が不思議そうに首を傾げる。
「あれ、君、日本人だよね? 日本語でひとりごと言ってたし」
「……あ、はい、そうです」
 訝しげに問われ、ハッと我に返ったみちるがこくこくと頷くと、彼はホッとしたように笑った。
「コンビネーションは?」
 ダイヤルの暗証番号はコンビネーションと呼ばれ、三組の数字から成り立っている。それを左右に回して数字を合わせた後、扉の取っ手を中のレバーを押しながら引いて開けるのだ。
 これが意外と難しい。ダイヤルが無段階調整タイプなので数字を合わせるのにコツが要るのだ。だから小学校から中学校に進学する時には、学校でロッカーを開く練習をする生徒も多い。みちるも編入する前日に、何度も何度も練習してコツを覚えたのだ。
「あー……えっと、32、11、46、です」
「OK、32……11……46……と」
 彼はするするとダイヤルを回し合わせ、それからロッカーの取っ手を掴むと力任せに引いた。すると、扉はガッという鈍い音を立てて開く。
「あ、開いた!」
 みちるは思わず歓喜の声を上げた。
「これ、暗証番号コンビネーションのせいじゃなくて物理的に扉が歪んでるよ。誰かが何かをぶつけたんだろうね。たまにあるんだよ、こういうこと」
 言われてよく見てみれば、扉の縁とロッカーのフレームが若干歪んでいた。
「ほんとだ……」
「うん、ロッカーを修理してもらうか、替えてもらった方がいいね。君のカウンセラーは?」
 アメリカの中学・高校は基本的にクラス担任がいないので、各生徒の手続き等の担当になる職員が必ず設定される。それがカウンセラーだ。
「あ……ミセス・ローズウッドです」
「あぁ、僕と同じだ。じゃあ一緒に行ってお願いしてあげるよ。ミセス・ローズウッドには気に入られているから、僕が言えば今日の遅刻も多少大目に見てもらえるかもしれないよ」
 彼は悪戯っ子のように笑って歩き出し、みちるに手招きをした。
 二人は事務室を訪ね、事情を話してロッカーの変更を依頼し、そしてTardy Slipと呼ばれる遅刻届の用紙をもらった。これに遅れた理由を書いて担当教諭に渡すのだ。
 彼は事務室を出る時に、みちるの教科担任に連絡を入れて事情を話してくれるようカウンセラーに頼んでくれた。
 そしてみちるの教室まで送ってくれたのだ。
「ありがとうございました。すみません、私のせいであなたまで遅刻してしまって」
「気にしないで。同じ日本人なんだから、こういう時は助け合わなくちゃ。……あ、名前言ってなかったね。僕は京条きょうじょう衛司。十二年生シニアだよ」
 衛司がふんわりとした笑みで自己紹介してくれた。
「あ、私、梅原みちる、です。九年生フレッシュマンです」
「ミチル、だね。よろしく。……僕はこっちだから、じゃあまた」
 頭を下げたみちるに、衛司は手を挙げて、それからきびすを返した。
(エイジ……さん)
 みちるは口の中でその名前を呟くと、駆けていく彼の背中をしばらく見つめていた。

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