戻ってきた初恋はバラの香り~再会した御曹司の豹変ぶりに困惑しています~
第2話
* * *
その日、社内の雰囲気がいつもと違うなと、みちるは肌で感じていた。ざわざわしていて、慌ただしくて――そして、どこか空気がポップでピンクだ。
「やっぱあれだな、KHDの若様がやって来たからだろ」
その言葉に振り返ると、三年先輩の岡村宏幸が紙袋を持って立っていた。
「岡村さん」
「よぅ梅原。これよかったら、高槻と一緒に食べなよ。仕事で銀座に行ってきたから」
「あー。それ、アンリ・ベルトワーズのトリュフじゃないですか。いいな~」
菜摘がひょっこりと二人の間に顔を入れてきた。岡村が買ってきた高級洋菓子店のチョコレートに、興味津々な様子だ。
「だから高槻と一緒に食べな、って言ったろ?」
彼が菜摘の頭にポン、と手を置く。ともすればセクハラになるこんなスキンシップが許されるのは、岡村が菜摘の彼氏だからに他ならない。
会社ではいつも軽口で言い合っているが、本当はとても仲睦まじいのを、みちるは知っている。
「岡村さん、さっき言ってた『KHDの若様――』って、どういう意味ですか?」
チョコレートの入った袋を一旦机に置いてから、岡村に尋ねる。
「あぁ、今日やたら社内の女性陣がそわそわしてる理由、な。今日から来てるだろ? 海堂家のお坊ちゃんが」
「あ、私、さっき総務行った時に見たよ~。めちゃめちゃイケメンだった、確かに。それにキラッキラしてた」
「早っ。もう見たの? 菜摘」
みちるが目を丸くすると、菜摘が忙しなく手を振る。
「たまたま総務に用事があったからよ。異動手続してたからさすがに女の子には囲まれてなかったけど、周りの子たちみんな凝視してたわ。……っていうか、見とれてた」
「へぇー……そんなにカッコイイの?」
「そんじょそこらの芸能人じゃ、太刀打ちできないくらいのセレブオーラが見えたわ。佐津紀さんが言ってた通り、無敵御曹司感がすごいの!」
菜摘が鼻息を荒くしているので、みちるはクスクスと笑った。
「菜摘、彼氏の前でそんな風に他の男の人褒めていいの?」
「あー、梅原、いいいい。高槻はいつもこんなだから」
岡村が苦笑する。諦めたような口調ではあるが、その実、菜摘のことを信頼しているのが見て取れる。
彼らは恋人同士になったのは最近なものの、つきあい自体はみちるたちが入社してからなのでもう三年になる。お互いの性格などはもう分かっているのだろう。
二人の間に流れる空気が温かいし、それにやはりハートマークが飛んでいる。
(二人とも、幸せそう)
みちるは菜摘と岡村を見て口元を緩ませた。
「みちるも見てきたら? 若様」
「えー、私はいいよ、別に興味ないし」
「――梅原さん、高槻さん。申し訳ないんだけど、それ、広報部に返してきてくれないかな?」
菜摘の勧めに消極的なみちるの後ろから、並河が声をかけてきた。振り返ると、彼が机の上に山と積まれた広報誌のバックナンバーを指差していた。少し前に資料として借りてきたものだ。
「並河課長、部下を使うの上手ですね~」
岡村があはははと笑って言う。
「いやいや、大義名分を作ってあげたんだから優しいと思わないかい?」
「いやもう、神上司です! みちる、半分持って。私一人じゃ無理だから!」
「……もう、分かったよ。しょうがないなぁ」
待ってましたと、広報誌の半分を持った菜摘が目配せをしてきたので、みちるははぁ、と息をついて立ち上がった。
二人はフロアを階段で移動し、一階下の広報部へ向かう。
「え……ちょっと何あれ」
菜摘が前方を見て驚きの声を上げる。広報部の前に人だかりができているではないか。
「もしかして……もしかする?」
「だろうね。あそこにいるの、全員女性だし」
(みんな例の人目当て?)
みちると菜摘は目を見合わせると、やれやれといった様子で人の壁に近づいていく。邪魔だなぁとは思うものの、自分たちだって似たような理由でここに来ているので、文句も言えない。
「すみませーん」
仕事でここに来ているのよ、という体で、持っている広報誌の山を強調しながら、二人で人をかき分けて広報部室内に入っていく。
「失礼しまーす。お借りしていた広報誌を返却しに来ましたぁ。どこに置いておけばいいですか~?」
わざとらしいくらい大きな声を出す菜摘の後に続き、みちるはおとなしく入室した。
部内は慌ただしさに満ちていて、みちるたちにかまっている暇もなさそうだ。近くの社員が「そこの空いているスペースに置いといてください」と、通りすがりに告げてきた。
言われた通り、そばにあったデスクの空きスペースに持っていた広報誌を積んだ。
用事が終わるや否や、菜摘がみちるに耳打ちをする。
「ほら、あそこで人に囲まれてるのが例の若様」
「あー……」
広報部の奥にも人だかりがあり、その真ん中に頭一つ抜けた男性がいた。遠目なのでよく見えないが、それでも美形であるのは分かるし、威風堂々としたセレブなオーラはみちるにも伝わってきた。遠くからでもそこが輝いているのが分かる。
(確かに、めちゃくちゃモテそうな感じ……)
佐津紀や菜摘が言う通りの人なのだろうと、みちるは思った。
「菜摘、もう行こう」
長居は無用とばかりに、みちるは菜摘の背中を押した。
その刹那――
「っ!」
遠くから強烈な視線を受けた気がして、みちるは思わず振り返る。けれど誰とも目が合うこともなく、ただキョロキョロしているだけの状態でいた。
「? みちる? 帰らないの?」
菜摘に言われてハッと気づくと、みちるは目をぱちくりと瞬かせる。
(気のせいかな……?)
そう結論づけたみちるは、菜摘に「ごめん」と告げ、広報部を後にした。
午後になっても社内はやはり落ち着かない様子だった。それはVIP従業員の出向にKELの管理職の面々が帯びている緊張感と、独身イケメンセレブの登場に沸き立った女性たちが放つ熱気が、複雑に混じり合って異様な空気を醸しているからだ。
あまりの若様フィーバーぶりに、さすがの菜摘や佐津紀も初日にして「みんなどれだけ飢えてるのよ」と呆れていた。みちるは我関せずを通した。
それからというもの、海堂衛司は広報部で先輩社員の下について手腕を発揮しているそうだ。
何かにつけて誰かしらが彼の噂をしているので、否が応にもみちるの耳に話題は飛び込んでくる。
実はKELの社長に就任するだとか。
KELのテレビCMに出るらしいとか。
資産家の婚約者がいる身だが、それでも気にしない女性たちが彼にアプローチを試みているとか。
噂が噂を呼んで、芸能人のように出待ちをしたり、隠し撮りをする女性社員も現れる始末だそうだ。
みちるは時々遠くに彼の姿を認めることがあったが、興味もないので必要以上に視界に入れたりしなかった。
むしろ逆に、ここ最近誰かの視線を感じることがたびたびあった。誰からかは分からないので、初めは気になって仕方がなかった。けれど何日経っても実害はなかったし、後をつけられている様子もないので放っておいた。
その日、社内の雰囲気がいつもと違うなと、みちるは肌で感じていた。ざわざわしていて、慌ただしくて――そして、どこか空気がポップでピンクだ。
「やっぱあれだな、KHDの若様がやって来たからだろ」
その言葉に振り返ると、三年先輩の岡村宏幸が紙袋を持って立っていた。
「岡村さん」
「よぅ梅原。これよかったら、高槻と一緒に食べなよ。仕事で銀座に行ってきたから」
「あー。それ、アンリ・ベルトワーズのトリュフじゃないですか。いいな~」
菜摘がひょっこりと二人の間に顔を入れてきた。岡村が買ってきた高級洋菓子店のチョコレートに、興味津々な様子だ。
「だから高槻と一緒に食べな、って言ったろ?」
彼が菜摘の頭にポン、と手を置く。ともすればセクハラになるこんなスキンシップが許されるのは、岡村が菜摘の彼氏だからに他ならない。
会社ではいつも軽口で言い合っているが、本当はとても仲睦まじいのを、みちるは知っている。
「岡村さん、さっき言ってた『KHDの若様――』って、どういう意味ですか?」
チョコレートの入った袋を一旦机に置いてから、岡村に尋ねる。
「あぁ、今日やたら社内の女性陣がそわそわしてる理由、な。今日から来てるだろ? 海堂家のお坊ちゃんが」
「あ、私、さっき総務行った時に見たよ~。めちゃめちゃイケメンだった、確かに。それにキラッキラしてた」
「早っ。もう見たの? 菜摘」
みちるが目を丸くすると、菜摘が忙しなく手を振る。
「たまたま総務に用事があったからよ。異動手続してたからさすがに女の子には囲まれてなかったけど、周りの子たちみんな凝視してたわ。……っていうか、見とれてた」
「へぇー……そんなにカッコイイの?」
「そんじょそこらの芸能人じゃ、太刀打ちできないくらいのセレブオーラが見えたわ。佐津紀さんが言ってた通り、無敵御曹司感がすごいの!」
菜摘が鼻息を荒くしているので、みちるはクスクスと笑った。
「菜摘、彼氏の前でそんな風に他の男の人褒めていいの?」
「あー、梅原、いいいい。高槻はいつもこんなだから」
岡村が苦笑する。諦めたような口調ではあるが、その実、菜摘のことを信頼しているのが見て取れる。
彼らは恋人同士になったのは最近なものの、つきあい自体はみちるたちが入社してからなのでもう三年になる。お互いの性格などはもう分かっているのだろう。
二人の間に流れる空気が温かいし、それにやはりハートマークが飛んでいる。
(二人とも、幸せそう)
みちるは菜摘と岡村を見て口元を緩ませた。
「みちるも見てきたら? 若様」
「えー、私はいいよ、別に興味ないし」
「――梅原さん、高槻さん。申し訳ないんだけど、それ、広報部に返してきてくれないかな?」
菜摘の勧めに消極的なみちるの後ろから、並河が声をかけてきた。振り返ると、彼が机の上に山と積まれた広報誌のバックナンバーを指差していた。少し前に資料として借りてきたものだ。
「並河課長、部下を使うの上手ですね~」
岡村があはははと笑って言う。
「いやいや、大義名分を作ってあげたんだから優しいと思わないかい?」
「いやもう、神上司です! みちる、半分持って。私一人じゃ無理だから!」
「……もう、分かったよ。しょうがないなぁ」
待ってましたと、広報誌の半分を持った菜摘が目配せをしてきたので、みちるははぁ、と息をついて立ち上がった。
二人はフロアを階段で移動し、一階下の広報部へ向かう。
「え……ちょっと何あれ」
菜摘が前方を見て驚きの声を上げる。広報部の前に人だかりができているではないか。
「もしかして……もしかする?」
「だろうね。あそこにいるの、全員女性だし」
(みんな例の人目当て?)
みちると菜摘は目を見合わせると、やれやれといった様子で人の壁に近づいていく。邪魔だなぁとは思うものの、自分たちだって似たような理由でここに来ているので、文句も言えない。
「すみませーん」
仕事でここに来ているのよ、という体で、持っている広報誌の山を強調しながら、二人で人をかき分けて広報部室内に入っていく。
「失礼しまーす。お借りしていた広報誌を返却しに来ましたぁ。どこに置いておけばいいですか~?」
わざとらしいくらい大きな声を出す菜摘の後に続き、みちるはおとなしく入室した。
部内は慌ただしさに満ちていて、みちるたちにかまっている暇もなさそうだ。近くの社員が「そこの空いているスペースに置いといてください」と、通りすがりに告げてきた。
言われた通り、そばにあったデスクの空きスペースに持っていた広報誌を積んだ。
用事が終わるや否や、菜摘がみちるに耳打ちをする。
「ほら、あそこで人に囲まれてるのが例の若様」
「あー……」
広報部の奥にも人だかりがあり、その真ん中に頭一つ抜けた男性がいた。遠目なのでよく見えないが、それでも美形であるのは分かるし、威風堂々としたセレブなオーラはみちるにも伝わってきた。遠くからでもそこが輝いているのが分かる。
(確かに、めちゃくちゃモテそうな感じ……)
佐津紀や菜摘が言う通りの人なのだろうと、みちるは思った。
「菜摘、もう行こう」
長居は無用とばかりに、みちるは菜摘の背中を押した。
その刹那――
「っ!」
遠くから強烈な視線を受けた気がして、みちるは思わず振り返る。けれど誰とも目が合うこともなく、ただキョロキョロしているだけの状態でいた。
「? みちる? 帰らないの?」
菜摘に言われてハッと気づくと、みちるは目をぱちくりと瞬かせる。
(気のせいかな……?)
そう結論づけたみちるは、菜摘に「ごめん」と告げ、広報部を後にした。
午後になっても社内はやはり落ち着かない様子だった。それはVIP従業員の出向にKELの管理職の面々が帯びている緊張感と、独身イケメンセレブの登場に沸き立った女性たちが放つ熱気が、複雑に混じり合って異様な空気を醸しているからだ。
あまりの若様フィーバーぶりに、さすがの菜摘や佐津紀も初日にして「みんなどれだけ飢えてるのよ」と呆れていた。みちるは我関せずを通した。
それからというもの、海堂衛司は広報部で先輩社員の下について手腕を発揮しているそうだ。
何かにつけて誰かしらが彼の噂をしているので、否が応にもみちるの耳に話題は飛び込んでくる。
実はKELの社長に就任するだとか。
KELのテレビCMに出るらしいとか。
資産家の婚約者がいる身だが、それでも気にしない女性たちが彼にアプローチを試みているとか。
噂が噂を呼んで、芸能人のように出待ちをしたり、隠し撮りをする女性社員も現れる始末だそうだ。
みちるは時々遠くに彼の姿を認めることがあったが、興味もないので必要以上に視界に入れたりしなかった。
むしろ逆に、ここ最近誰かの視線を感じることがたびたびあった。誰からかは分からないので、初めは気になって仕方がなかった。けれど何日経っても実害はなかったし、後をつけられている様子もないので放っておいた。
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