戻ってきた初恋はバラの香り~再会した御曹司の豹変ぶりに困惑しています~
第1話
「あ、梅原さん。三十分くらい前、KHDの本社ビルに大型トラックが突っ込む事故があったんだって」
「え、大変じゃないですか!」
今日は朝から社内がざわめいているなと思ったら、これだ。
課長の並河が、おにぎり片手に自席のPCとにらめっこしている。いつもなら始業時間までは社内のカフェで朝食がてら新聞を読んでいるはず。この時点で普通ではないと、みちるは踏んでいた。けれど、聞かされた内容は予想よりも大事だった。
「それで総務から連絡が来て、各部でKHDに出張している人がいないか確認してくれ、って。まぁ元々うちは出張少ないけど、万が一にも巻き込まれた人がいないとも限らないし、始業時間になったら、課内の出勤状況確認して僕に報告してもらえる?」
「はい、分かりました」
「おはようございまーす!」
同期で同じ部署の、高槻菜摘が弾んだ声とともに出社してきた。みちるは早速、彼女に話を振る。
「菜摘、KHDで事故があったの、知ってる?」
「そうそう! トラックが突っ込んだやつでしょ!? 来る時も噂になってた! 結構な被害で、救急車が何台も来たって!」
「そうなんだ。すごいことになってるね」
朝からテンションを上げる菜摘を尻目に、みちるは自席のPCを立ち上げ、ブラウザを開く。
「――もうSNSに写真アップしてる人いる。んーと……ケガをした人もいたけど、みんな比較的軽傷っぽい。今のところは……亡くなった人はいないみたいね。よかった」
みちるがディスプレイを指差す。そこには事故現場を写した画像が投稿されていた。
「――うわ、エントランスぐちゃぐちゃじゃない。これよく死者出なかったわね。不幸中の幸い」
みちるの肩越しから聞こえた声は、菜摘のものではなかった。振り返ると、先輩社員の佐津紀が、眉をひそめて立っていた。
「おはようございます、佐津紀さん」
「おはよう。なんだか騒ぎになっちゃってるわね」
「みたいですね。結構大きい事故ですし、ビルの修復大変そう」
椅子の背もたれに身体を預け、みちるは大きく息をついた。
梅原みちるが勤務する、海堂エレクトロニクス(KEL)は、海堂ホールディングス(KHD)を持株会社とするIT企業である。本社は東京にあり、全国に事業所を展開していた。
みちるはKEL本社の人事部人事課に所属している。担当は人事異動に関する事務で、配置転換に際しての人事情報を収集してまとめたり社内通達をネットワークにアップしたり、上から下ろされた査定評価の資料を作成するのが主な仕事だ。
今朝事故があったのは、親会社のKHD本社。通勤する従業員で賑わう最中の出来事だったそうだ。
KELとは普段から業務で密接に関わっているわけではないが、時折出張者が行き来してはいる。
並河に言われたとおり、みちるは人事課の出勤状況を確認し、全員の無事を確認した。
他部署には、出張に行って危うく事故に巻き込まれかけた者もいたらしい。情報は総務部に集められているが、そこここでも噂は飛び交っていた。
それは昼休みになっても同じだった。
社員食堂はきっとその話題で持ちきりだろう。けれどそれは、みちるたちの耳には入らない。
「それにしても新年度早々事故なんてね~。新入社員、びっくりしてるんじゃない?」
「新人じゃなくたって驚くわよ、菜摘ちゃん」
昼休みはいつも、同じ部署の高槻菜摘や瀬戸佐津紀と一緒に昼食を取っている。
三人とも基本的にはお弁当持参なので、部署の隣にある小会議スペースで済ませている。社食だと食後はすぐに席を空けないとどうにも落ち着かないけれど、ここだと誰に邪魔されることなくゆっくりできるのだ。
食べ終わった後、残りの休み時間でこうしておしゃべりに花を咲かせるのが、三人のささやかな楽しみでもある。
世間は新年度に変わってまだ十日弱しか経っていない。ちょうど新入社員研修まっただ中の頃だろう。
緊張と期待に胸を膨らませながら入社した途端、こんな事故に遭遇するなんて、運が悪い。
「入社してすぐこんな光景目撃したら、不安になっちゃうよね。気の毒に」
みちるはスマートフォンで事故の続報を確認しながら、呟いた。その時、床に目を留めた佐津紀が、そのまま上半身を下に折り曲げた。
「……あ、鍵落ちてる。みちるちゃんのじゃない?」
佐津紀が手にしているのはたしかにみちるの鍵だ。さっきバッグからスマホを取り出した時に、落ちてしまったのだろうか。まったく気がつかなかった。
「あっ、すみません。ありがとうございます」
家の鍵がつけられたストラップを受け取ると、釣られたように目を留めた菜摘が指差した。
「そのストラップ、可愛いけどだいぶ古いね」
「うん。……かれこれ十年は持ってる」
それは何色かのクリスタルを組み合わせて作ってあるチェーンストラップだが、チェーンのメッキには細かい傷が見受けられ、剥げている部分もあった。見るからに年季が入ったものだと分かる。
けれどみちるにとっては、どんな宝石よりも価値のあるものだ。
「元カレからのプレゼントとか~?」
「そうじゃないけど……大事にはしてるんだ。持ちすぎて傷ついちゃってるけど」
菜摘の問いに薄く笑うと、みちるはストラップを大切そうにぎゅっと握った。
みちるがこの会社で働くようになってもう四年目だ。誕生日はまだ来ていないが、今年二十六才になる。
出世が望めるほど優秀ではないけれど、仕事は自分なりに一生懸命、真面目にこなしていると思う。周囲とのコミュニケーションも比較的円滑に行えているはずだ。
ルックスは……皆が振り返るような美女では決してない。かといって、特に醜悪でもないとは思う。
要するに梅原みちるは『ザ・普通の女の子』なのだ。
あえて普通ではないところを挙げるならば、帰国子女だということくらいだろうか。中学二年生から三年間、父の仕事の関係でアメリカにて生活していた。
高校二年生の夏に帰国すると、翌年、帰国子女入試を経て大学に入学した。そして卒業後、KELに入社したというわけだ。
その英語力を買われ、海外から日本に駐在になった外国人従業員とのやりとりを任されたり、時には出張者相手の通訳に駆り出されることもある。
結婚はしていないし彼氏もいないけれど、平和で充実した生活を送っていた――はずなのに。
まさか今の穏やかな日々ががらりと様変わりしてしまうなんて、思ってもみなかった。
* * *
「KHDから出向者……? この時期に? 珍しいですね」
並河から人事情報を聞かされたみちるは、疑問の声を上げた。KELでは、役員でもない一般社員が親会社から出向することなどあまりないからだ。しかもきりのいい時期ではなく、新年度を一ヶ月以上過ぎた五月半ばのことだ。
「うん、あちらさんのIT戦略対策部に所属している社員なんだけど、実はKHDの社長の甥御さんらしくて。将来のためにどうしても系列会社を回りたいってことなんだよね。それで手始めにうちに来るらしいよ。所属はね……広報部かな」
「へぇ……」
並河の言うことが本当なら、その社員はおそらく将来の役員候補生ということになるのだろう。そんなVIPであれば、きっと下にも置かない扱いをされること間違いなしだ。
(なんだか面倒くさそう……)
広報部に配属されるのなら、自分に直接関係してはこないが、何故かげんなりしてしまう。もちろん、口には出さない。
「とりあえず、来週の二十一日づけでの異動になるから。いつものように情報整理と発信よろしく。総務から来た通知、転送するから」
「分かりました」
自分の机に戻った後、PCを開くとちょうど、並河から出向者の情報を記載したメールが来た。内容をチェックしたみちるは、思わず声を上げそうになる。
「……っ、」
(海堂……衛司……)
メールには出向してくる社員の従業員番号、氏名、性別、旧所属、そして新しい配属先が記載されている。そこにあった名前を見た瞬間、スクロールする手が固まってしまった。
心臓が無駄に逸り、表皮がピリピリと痺れを覚える。
(名字が……違う……)
心の中で呟いた後、ほぅ、とため息をつく。
十年前には愛おしいと思っていた名前を久しぶりに見たので、図らずも心がざわついてしまった。すぐに別人であると認識し、無事平穏を取り戻したけれど。
(名前見ただけで、動揺するなんて……)
自分がまだまだ昔の出来事に囚われていることの証拠だ。いい加減、忘れてもいい頃なのに。己を鼓舞するため、みちるは握りこぶしを作る。
「もう、修行が足りない!」
「お、向上心の表明か。結構結構」
ごくごく小さな声でつぶやいたつもりが、なかなかの音量だったようだ。
並河から上機嫌な口調で返されて、みちるは恥ずかしくなり小さく頭を下げた。
「めちゃくちゃイケメンらしいわ」
佐津紀の言葉に、みちるは首を傾げる。
「? 誰がです?」
今日の三人は社員食堂で昼食を食べていた。週に一度、金曜日だけはお弁当を持たずに会社へ来ることにしている。
みちるは和食系のA定食、菜摘は日替わり麺類であるとんこつラーメン、佐津紀は洋食系のB定食をそれぞれ食している。
「来週から来る、KHDからの出向者」
「へぇ、そうなんですか」
「向こうに出向してる同期に聞いたんだけどね。仕事もできるし、全身から自信が満ちあふれてて、こう、漫画に出てきそうな俺様御曹司って感じの男らしいよ」
「うわぁ、いかにもですね~。これは配属されてからの女子の反応が見ものだな~」
菜摘がニヤニヤしながら、ラーメンを口に運ぶ。彼女がこんなに『高みの見物』を決めた態度でいられるのは、彼氏がいるからだ。しかもつい最近つきあい始めたばかりなので、蜜月さながらそこかしこへハートマークを飛ばしている。
佐津紀にいたっては先月結婚したばかりの新婚で、こちらこそ正真正銘、蜜月真っ盛り。
夫も彼氏もいないのはみちるだけだ。
二人ののろけ話をたびたび聞かされ、羨ましくは思うものの、焦る気持ちはさほどなかった。
学生時代もKELに入社してからもチャンスがなかったわけではないが、どうしても乗り気になれなくて。
彼氏イナイ歴は十年以上にもなる。
「どう? みちる。狙ってみる気なぁい? 上手くいったら玉の輿だよ?」
「そうよ、彼氏いないんだからさ」
菜摘と佐津紀が二人して突いてきた。
「いやー……そんなすごい人なら、受付の江口さんとか、総務の島原さんとか広報の日室さんレベルの美人じゃないとつりあわないでしょ」
みちるは苦笑しつつ、数人の名前を挙げる。いずれも男性社員に人気のある、華やか美女たちだ。社内の有名人で、もちろんみちるたちも彼女たちの美貌は十分認識している。
「そうかなぁ? みちるみたいな清楚な感じの子も合うと思うよ、私は」
普段からきゃっきゃと無駄にはしゃいだりしないみちるは、清楚に見えることもあるらしい。気性が激しいわけでも特別暗くもなく、ごく普通に振る舞っているだけなのに。
今はこんなに落ち着いているみちるも、昔は年相応にはしゃぐ女の子だったのだけれど――
「それに私、そういうギラギラした感じの人、苦手で……」
「あー、でも分かる。みちるちゃんは優しくて誠実な好青年タイプが好きだもんね。ほら、永嶋雅紀みたいな」
佐津紀がとある男性芸能人の名前を口にする。好青年を絵に描いたらこんな風になるだろうと思わせる爽やかなルックスと、テレビ番組で見せる柔らかな物腰が、若い女性のみならず、マダムからの支持も厚い人気俳優である。
「あ……うん。割と好き、かも?」
実はみちるも芸能人では永嶋が割と好きだった。でも熱狂的ファンというわけではない。あくまでも芸能人の中では気に入っている方、という程度だ。
そしてその理由は、彼がどことなく――
(すごく似てる、というわけじゃないけど……でも……)
ことあるごとにこうして思い出してしまう人がいる限り、次のステージになんて進めない。
彼氏なんてできるはずがないのだ。
「え、大変じゃないですか!」
今日は朝から社内がざわめいているなと思ったら、これだ。
課長の並河が、おにぎり片手に自席のPCとにらめっこしている。いつもなら始業時間までは社内のカフェで朝食がてら新聞を読んでいるはず。この時点で普通ではないと、みちるは踏んでいた。けれど、聞かされた内容は予想よりも大事だった。
「それで総務から連絡が来て、各部でKHDに出張している人がいないか確認してくれ、って。まぁ元々うちは出張少ないけど、万が一にも巻き込まれた人がいないとも限らないし、始業時間になったら、課内の出勤状況確認して僕に報告してもらえる?」
「はい、分かりました」
「おはようございまーす!」
同期で同じ部署の、高槻菜摘が弾んだ声とともに出社してきた。みちるは早速、彼女に話を振る。
「菜摘、KHDで事故があったの、知ってる?」
「そうそう! トラックが突っ込んだやつでしょ!? 来る時も噂になってた! 結構な被害で、救急車が何台も来たって!」
「そうなんだ。すごいことになってるね」
朝からテンションを上げる菜摘を尻目に、みちるは自席のPCを立ち上げ、ブラウザを開く。
「――もうSNSに写真アップしてる人いる。んーと……ケガをした人もいたけど、みんな比較的軽傷っぽい。今のところは……亡くなった人はいないみたいね。よかった」
みちるがディスプレイを指差す。そこには事故現場を写した画像が投稿されていた。
「――うわ、エントランスぐちゃぐちゃじゃない。これよく死者出なかったわね。不幸中の幸い」
みちるの肩越しから聞こえた声は、菜摘のものではなかった。振り返ると、先輩社員の佐津紀が、眉をひそめて立っていた。
「おはようございます、佐津紀さん」
「おはよう。なんだか騒ぎになっちゃってるわね」
「みたいですね。結構大きい事故ですし、ビルの修復大変そう」
椅子の背もたれに身体を預け、みちるは大きく息をついた。
梅原みちるが勤務する、海堂エレクトロニクス(KEL)は、海堂ホールディングス(KHD)を持株会社とするIT企業である。本社は東京にあり、全国に事業所を展開していた。
みちるはKEL本社の人事部人事課に所属している。担当は人事異動に関する事務で、配置転換に際しての人事情報を収集してまとめたり社内通達をネットワークにアップしたり、上から下ろされた査定評価の資料を作成するのが主な仕事だ。
今朝事故があったのは、親会社のKHD本社。通勤する従業員で賑わう最中の出来事だったそうだ。
KELとは普段から業務で密接に関わっているわけではないが、時折出張者が行き来してはいる。
並河に言われたとおり、みちるは人事課の出勤状況を確認し、全員の無事を確認した。
他部署には、出張に行って危うく事故に巻き込まれかけた者もいたらしい。情報は総務部に集められているが、そこここでも噂は飛び交っていた。
それは昼休みになっても同じだった。
社員食堂はきっとその話題で持ちきりだろう。けれどそれは、みちるたちの耳には入らない。
「それにしても新年度早々事故なんてね~。新入社員、びっくりしてるんじゃない?」
「新人じゃなくたって驚くわよ、菜摘ちゃん」
昼休みはいつも、同じ部署の高槻菜摘や瀬戸佐津紀と一緒に昼食を取っている。
三人とも基本的にはお弁当持参なので、部署の隣にある小会議スペースで済ませている。社食だと食後はすぐに席を空けないとどうにも落ち着かないけれど、ここだと誰に邪魔されることなくゆっくりできるのだ。
食べ終わった後、残りの休み時間でこうしておしゃべりに花を咲かせるのが、三人のささやかな楽しみでもある。
世間は新年度に変わってまだ十日弱しか経っていない。ちょうど新入社員研修まっただ中の頃だろう。
緊張と期待に胸を膨らませながら入社した途端、こんな事故に遭遇するなんて、運が悪い。
「入社してすぐこんな光景目撃したら、不安になっちゃうよね。気の毒に」
みちるはスマートフォンで事故の続報を確認しながら、呟いた。その時、床に目を留めた佐津紀が、そのまま上半身を下に折り曲げた。
「……あ、鍵落ちてる。みちるちゃんのじゃない?」
佐津紀が手にしているのはたしかにみちるの鍵だ。さっきバッグからスマホを取り出した時に、落ちてしまったのだろうか。まったく気がつかなかった。
「あっ、すみません。ありがとうございます」
家の鍵がつけられたストラップを受け取ると、釣られたように目を留めた菜摘が指差した。
「そのストラップ、可愛いけどだいぶ古いね」
「うん。……かれこれ十年は持ってる」
それは何色かのクリスタルを組み合わせて作ってあるチェーンストラップだが、チェーンのメッキには細かい傷が見受けられ、剥げている部分もあった。見るからに年季が入ったものだと分かる。
けれどみちるにとっては、どんな宝石よりも価値のあるものだ。
「元カレからのプレゼントとか~?」
「そうじゃないけど……大事にはしてるんだ。持ちすぎて傷ついちゃってるけど」
菜摘の問いに薄く笑うと、みちるはストラップを大切そうにぎゅっと握った。
みちるがこの会社で働くようになってもう四年目だ。誕生日はまだ来ていないが、今年二十六才になる。
出世が望めるほど優秀ではないけれど、仕事は自分なりに一生懸命、真面目にこなしていると思う。周囲とのコミュニケーションも比較的円滑に行えているはずだ。
ルックスは……皆が振り返るような美女では決してない。かといって、特に醜悪でもないとは思う。
要するに梅原みちるは『ザ・普通の女の子』なのだ。
あえて普通ではないところを挙げるならば、帰国子女だということくらいだろうか。中学二年生から三年間、父の仕事の関係でアメリカにて生活していた。
高校二年生の夏に帰国すると、翌年、帰国子女入試を経て大学に入学した。そして卒業後、KELに入社したというわけだ。
その英語力を買われ、海外から日本に駐在になった外国人従業員とのやりとりを任されたり、時には出張者相手の通訳に駆り出されることもある。
結婚はしていないし彼氏もいないけれど、平和で充実した生活を送っていた――はずなのに。
まさか今の穏やかな日々ががらりと様変わりしてしまうなんて、思ってもみなかった。
* * *
「KHDから出向者……? この時期に? 珍しいですね」
並河から人事情報を聞かされたみちるは、疑問の声を上げた。KELでは、役員でもない一般社員が親会社から出向することなどあまりないからだ。しかもきりのいい時期ではなく、新年度を一ヶ月以上過ぎた五月半ばのことだ。
「うん、あちらさんのIT戦略対策部に所属している社員なんだけど、実はKHDの社長の甥御さんらしくて。将来のためにどうしても系列会社を回りたいってことなんだよね。それで手始めにうちに来るらしいよ。所属はね……広報部かな」
「へぇ……」
並河の言うことが本当なら、その社員はおそらく将来の役員候補生ということになるのだろう。そんなVIPであれば、きっと下にも置かない扱いをされること間違いなしだ。
(なんだか面倒くさそう……)
広報部に配属されるのなら、自分に直接関係してはこないが、何故かげんなりしてしまう。もちろん、口には出さない。
「とりあえず、来週の二十一日づけでの異動になるから。いつものように情報整理と発信よろしく。総務から来た通知、転送するから」
「分かりました」
自分の机に戻った後、PCを開くとちょうど、並河から出向者の情報を記載したメールが来た。内容をチェックしたみちるは、思わず声を上げそうになる。
「……っ、」
(海堂……衛司……)
メールには出向してくる社員の従業員番号、氏名、性別、旧所属、そして新しい配属先が記載されている。そこにあった名前を見た瞬間、スクロールする手が固まってしまった。
心臓が無駄に逸り、表皮がピリピリと痺れを覚える。
(名字が……違う……)
心の中で呟いた後、ほぅ、とため息をつく。
十年前には愛おしいと思っていた名前を久しぶりに見たので、図らずも心がざわついてしまった。すぐに別人であると認識し、無事平穏を取り戻したけれど。
(名前見ただけで、動揺するなんて……)
自分がまだまだ昔の出来事に囚われていることの証拠だ。いい加減、忘れてもいい頃なのに。己を鼓舞するため、みちるは握りこぶしを作る。
「もう、修行が足りない!」
「お、向上心の表明か。結構結構」
ごくごく小さな声でつぶやいたつもりが、なかなかの音量だったようだ。
並河から上機嫌な口調で返されて、みちるは恥ずかしくなり小さく頭を下げた。
「めちゃくちゃイケメンらしいわ」
佐津紀の言葉に、みちるは首を傾げる。
「? 誰がです?」
今日の三人は社員食堂で昼食を食べていた。週に一度、金曜日だけはお弁当を持たずに会社へ来ることにしている。
みちるは和食系のA定食、菜摘は日替わり麺類であるとんこつラーメン、佐津紀は洋食系のB定食をそれぞれ食している。
「来週から来る、KHDからの出向者」
「へぇ、そうなんですか」
「向こうに出向してる同期に聞いたんだけどね。仕事もできるし、全身から自信が満ちあふれてて、こう、漫画に出てきそうな俺様御曹司って感じの男らしいよ」
「うわぁ、いかにもですね~。これは配属されてからの女子の反応が見ものだな~」
菜摘がニヤニヤしながら、ラーメンを口に運ぶ。彼女がこんなに『高みの見物』を決めた態度でいられるのは、彼氏がいるからだ。しかもつい最近つきあい始めたばかりなので、蜜月さながらそこかしこへハートマークを飛ばしている。
佐津紀にいたっては先月結婚したばかりの新婚で、こちらこそ正真正銘、蜜月真っ盛り。
夫も彼氏もいないのはみちるだけだ。
二人ののろけ話をたびたび聞かされ、羨ましくは思うものの、焦る気持ちはさほどなかった。
学生時代もKELに入社してからもチャンスがなかったわけではないが、どうしても乗り気になれなくて。
彼氏イナイ歴は十年以上にもなる。
「どう? みちる。狙ってみる気なぁい? 上手くいったら玉の輿だよ?」
「そうよ、彼氏いないんだからさ」
菜摘と佐津紀が二人して突いてきた。
「いやー……そんなすごい人なら、受付の江口さんとか、総務の島原さんとか広報の日室さんレベルの美人じゃないとつりあわないでしょ」
みちるは苦笑しつつ、数人の名前を挙げる。いずれも男性社員に人気のある、華やか美女たちだ。社内の有名人で、もちろんみちるたちも彼女たちの美貌は十分認識している。
「そうかなぁ? みちるみたいな清楚な感じの子も合うと思うよ、私は」
普段からきゃっきゃと無駄にはしゃいだりしないみちるは、清楚に見えることもあるらしい。気性が激しいわけでも特別暗くもなく、ごく普通に振る舞っているだけなのに。
今はこんなに落ち着いているみちるも、昔は年相応にはしゃぐ女の子だったのだけれど――
「それに私、そういうギラギラした感じの人、苦手で……」
「あー、でも分かる。みちるちゃんは優しくて誠実な好青年タイプが好きだもんね。ほら、永嶋雅紀みたいな」
佐津紀がとある男性芸能人の名前を口にする。好青年を絵に描いたらこんな風になるだろうと思わせる爽やかなルックスと、テレビ番組で見せる柔らかな物腰が、若い女性のみならず、マダムからの支持も厚い人気俳優である。
「あ……うん。割と好き、かも?」
実はみちるも芸能人では永嶋が割と好きだった。でも熱狂的ファンというわけではない。あくまでも芸能人の中では気に入っている方、という程度だ。
そしてその理由は、彼がどことなく――
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